第30章 追跡

ハルシニアからオストウィックまでの航海は何事も無く、ひときわ退屈に感じられた。毎朝船の調理場から沸かし立ての熱い湯が入ったポットを運んでくる船員に彼らは起こされ、フェンリエルが紅茶を淹れ、残った湯を使って出来る限り三人は身体を綺麗にした。フェンリエルは毎朝髭を剃ったが、アンダースは短い航海の間ひげ剃りを止めることにして、またざらざらと頬に無精ひげが伸び始めた。

彼らはこの船旅の間は自分達の携行食料――紅茶を除けば、全て火を使わない食べ物――を食べることにしていて、そそくさとつつましい朝食を終えた後、アンダースがまず最初に汚水の入ったバケツを持って甲板に行き、中身を船の縁から投げ捨てて海水でバケツをゆすいだ。ほとんどの船員達が眠っているか、あるいは朝食を食べている早朝の静かな時間が、彼のお気に入りだった。甲板が忙しくなり出す頃には、メイジは決められた時間の前に船室に戻ってくることもあった。

フェンリエルは大抵昼前に甲板に上がって、ほとんどの時間を通行の邪魔にならない甲板の隅で書き物か読書をして過ごした。彼はまた、少しばかり散歩をしたり、あるいは軽い体操をして身体を動かすようにしていた。

そして最後にフェンリスが、昼過ぎの甲板へ身体を動かすために上った。彼は大剣も一緒に持って行き、好奇心を剥き出しにした、あるいは称賛の眼差しで見つめる船員達を無視して、剣の構えとお定まりの動きを繰り返した。そして三日目の午後、ラヴェル船長が甲板に現れると、舷側に張られた縄にもたれ判別しがたい表情を顔に浮かべながら、フェンリスを眺めやった。

フェンリスがその日の体操を終えた時、船長は姿勢を正すと数歩彼に近付いた。
「随分良い動きだ」とラヴェル船長は言うと、エルフに不思議そうな視線を向けた。
「それに船に慣れた脚をしているな。前にも船旅をしたことがあるのか?」

「ああ、ある」とフェンリスは短く答えたが、船長には少しばかり礼儀正しくしても良かろうと思い直し、言葉を継ぎ足した。
「何年か、その間ずっとでは無いが。船員として働いたこともある」

「どんな船で働いていた?」

「一隻だけだ。イザベラ船長の、シー・スピリット」

「おう、彼女か。とびきりの船長だと俺も聞いた」とラヴェルは満足げに答えた。
「それに親切で気前も良いと。君が奴隷商人で無い限りはな。そんときには、どんな嵐よりも酷い最悪の災厄になるそうだ」

「その通り」とフェンリスは微かに笑みを浮かべて、船長に同意した。

船長の好奇心は満たされたと見えて、また彼の仕事へと戻っていった。フェンリスは厨房に立ち寄って夕方の湯を受け取ると、甲板の下の船室へと戻った。

アンダースはテーブルに座って、歪んだ掌をほぐす運動をしており、フェンリエルはハンモックに寝そべって昼寝していた。扉を閉めたフェンリスは、しかし唐突に立ち止まった。部屋の中が臭った。ろくに洗っていない体臭や汚水を入れたバケツの臭いには、とうに彼の鼻は麻痺していたが、それ以外のもっと雄臭い、セックスの臭気だった。彼は両眉毛を上げ、驚いた顔でアンダースを見つめた。

アンダースは顔を赤らめるとそっぽを向いたが、やがて唇を固く結び顎を上げてフェンリスに向き直り、ほとんど反抗的と言ってもいい目付きで真っ直ぐ見返した。
フェンリスは鼻を鳴らすと微かに笑い、湯の入った重い水差しをテーブルに置くため足を進めた。実際、彼は心から驚いたという訳では無いことに気づいていた。二人のメイジは随分前から親密になっていたし、フェンリエルが年上のメイジを大切にする様子は傍目にも明らかだった。そしてアンダースは……まあ、かつての彼自身、あるべき姿の彼に戻った今となっては、彼自身の欲求と欲望を満たす必要があるのも、また当然のことと言えた。もしこの二人の間柄が上手く行くのなら、フェンリスに反対する理由は何一つ無かった。二人とも大人なのだから、自分達で決めれば良いことだ。

彼はそれから紅茶の葉を三人のマグカップに量り取って、熱い湯を注ぎ、その間にアンダースはテーブルの下から大きな鞄を掘り出した――それが彼らの食料庫だった。アンダースはそれを膝に乗せて、様々な包みを丁寧に開けては、今夜食べる分だけ食料を少しずつ取り出した。彼の歪んだ手でもその程度の作業は難しくなかったが、しかしきちんと閉まった缶や紐でくくった包みを開けたり、チーズの欠片を取り分けたりするのを効率良くやれるとは言えず、そちらはフェンリスが受け持った。そして彼が分け終わった包みを再びきちんと括り直してアンダースに手渡し、メイジはそれを黙って鞄にしまい込んだ。

フェンリエルがあくびをしながら身動きをして、やがて眠そうな顔で二人の間に起き上がった。
「夕食の時間?」と彼は聞いた。

「ああ、そこに居ろ」とフェンリスが言うと、ハンモックの上で多少真っ直ぐな姿勢を取った若いメイジに、布きれに包んだ食べ物と紅茶のマグを手渡した。彼自身はハンモックの綱とテーブルの間の壁にもたれて、立ったままテーブルの上の食事を摂った。彼らはいつも食事の間は、アンダースが食べやすいようテーブルに着かせることにしていた。

「アマランシンについて、また温かくてちゃんとした食事の食べられるのが待ち遠しいな」とフェンリエルが堅いビスケットと、塩っ辛いチーズの合間に、硬く塩っ辛いソーセージを顔をしかめてかじりながら言った。

フェンリスは声を出さずに笑った。
「これより酷いこともありえるぞ。何なら船の糧食はどうだ。コクゾウムシの沸いたビスケットと、ソーセージの代わりに塩漬けのナグ。日向臭いビールに、かちこちの塩漬けの魚。チーズは無し」

フェンリエルは大げさに身震いして見せた。
「遠慮するよ。そういうのはもう一生分食べたから」と彼は言った。

フェンリスとアンダースは彼の反応にニヤリと笑った。テダスの旅は決して容易いものでは無く、これまでの所彼らは、快適な旅路を過ごして来たと言っても良かった。フェンリスはただ、その幸運がフェラルデンまで続くことを祈るだけだった。


ThedasMapその僅か2日後に、フェンリスは彼の願いを忌々しく思い出すことになった。船はオストウィックに僅か半日寄港しただけで、そこ宛ての少しばかりの荷物を降ろし、アマランシンあるいはハイエヴァー、さらにジェイダーへ向かう荷を積み込むと、その日の午後には早くも出港した。船はブランデル・リーチの西の海岸沿いを進んでいた。ウェイキング海を渡る際に陸地を見失わずに済むのは、ここか、あとはカークウォールの南西などごく限られた海域で、大海で船の行く先を見失うよりはと、多くの船がこのような海域を好んで航海した。

しかし残念な事にそういった船を獲物とする連中もこういった海域に潜むもので、とりわけブランデル・リーチは海賊――本物の海賊――や略奪者の棲み処として知られていた。翌朝の明け方すぐ、フェンリス達の乗った船の船長は、南側から彼らの行く先を遮る様に二隻の船が現れたことに気づいた。たまたまその日、汚水の入ったバケツを持って上がる当番を受け持ったフェンリスが甲板に居て、船長が罵り声を上げるのを耳にした。

「何か問題でも、船長?」と彼は尋ねてみた。

「そうかも知れん。大体ここらへんには一隻いるんだ――ほら、あっちの小さいのが」と彼は指さした。
「それで俺は大抵、連中にちょっとばかり小銭を払って通して貰うんだが、あの二隻目がいるとなると……今日は小銭では済まないかも知れん」と彼は顔をしかめて言った。

「俺も剣を取ってきた方が良さそうだな?」

「ふーん…あるいは。今のところは表から見えるところに出ないでくれ、揉め事になるのかどうか、俺が見定めるまでは」と彼は言うと、一等航海士と打ち合わせをするため歩み去った。

フェンリスは急いで船室に戻り、二人のメイジに何か有りそうだと警告した後で、再び甲板へ戻った。彼はしかし甲板上には上らず、そこで何が起きているか良く見え、彼らの話し声も聞こえる階段に身を潜めた。

ラヴェル船長は甲板の手すりから身を乗り出して、小さい方の一隻の誰かに大声で何事かを叫んでいた。強く顎を引いた船長の強ばった姿勢から、彼が聞いた答えが気に入らないものだったのは明らかだった。突然彼は身体を翻すと、大声で命令を出した。二隻の船から逃げろ。

船員達は即座に命令に従い、船首を大きく右舷に向けて北西へ廻った。更に多くの船員達が甲板に現れ、船の支索に取り付いて帆の操作を助ける者、また手に武器を持っている者も居た。フェンリスも甲板に登り、忙しく駆け回る船員達の邪魔にならない所に静かに立った。彼の居る場所から、再び他の二隻が良く見えた。大きい方の船が彼らを追跡する間も、最初南側の行く先を遮っていた小さい方の船が、今度は西へと方向を変え、彼らの船が外海へ向かうのを遮ろうとしていた。
もし小さい船をやり過ごすことが出来れば、二隻とも置き去りにすることが出来るだろうが、しかし足止めされるようなことがあれば、大きい方の船が近付いて強襲を掛けるだろうと思われた。フェンリスは彼らの船と、小さい方の船足を経験を積んだ目で見比べると、唇を噛んだ。相当な接戦になりそうだった。

別の昇降口からフェンリエルの頭がひょこりと覗き、すぐ後にアンダースの頭も視界に入った。二人とも共に不安げな表情で周囲を見渡していた。フェンリスは大きく手を振ってアンダースに彼の場所を知らせ、アンダースはフェンリエルの肩を叩いて、エルフの居場所を指し示した。二人のメイジは甲板の上を這うようにそそくさとフェンリスの側にやって来た。船長は彼らに目を留めて少しばかり嫌そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
フェンリスは二人に手短に事の成り行きを語った。アンダースは頭上の帆を見上げ、そして小さい方の船を見て顔をしかめた。もの凄い速さで、彼らの先回りをしようとしていた。彼らの船の風下に海賊船が回り込むことになるため風を奪ってはいたが、それでもまだ彼らの進路を遮るだけの速度がありそうだった。このままでは彼らは進路を変えて陸の方へ戻るか、あるいは二隻の船の間を突っ切るしか無く、どちらも良い選択肢とは言えなかった。

「君たちに何か出来ることはありそうか?」とフェンリスは小声で聞いた。

「うん、もしどうしてもってことになったら」とフェンリエルが答えた。
「だけど正体を明かす必要が無い方がいいけどね」

アンダースは顔をしかめると、若いメイジの肩に手を置いて頭を左右に振り、そして自らの胸を叩いた。
「えい わーぇん ぼうおが いい」

フェンリスはしばし顔をしかめたが、やがてその言葉を理解して頷いた。アンダースはグレイ・ウォーデン――逃亡中とは言え――であるからには、一定の社会的地位があり、メイジで有る事を明らかにしてもフェンリエルよりは安全だと思われた。フェンリエルも気に入らないというように唇をひき結んだが、やがてこっくりと頷いて同意した。

彼らはその場に留まって、静かに成り行きを見守った。小さい方の海賊船が、フェンリスの予想したように彼らの風の影に入り、帆を弛ませた。フェンリスは息を詰めて見守った……しかし小さい海賊船はかなりの速度で進み続け、ほとんど速度を失うこと無く影から抜け出すと再び帆が張りつめ、やがて彼らを追い越すと行く先を遮る航路に入った。アンダースはシュッと歯の隙間から音を立てた。相当な接戦――文字通りの――になるのは、間違いなかった。

「お出迎えの準備だ!」
ラヴェル船長が叫んだ。既に武装した船員達は左舷に集まって海賊船を見守っていた。フェンリスは一歩前に出たが、船長が彼の方に目をやり、一つ頷いた後で初めて彼は左舷に向かった。船員達は彼が剣の練習をする様子を目にしていて、何も言わずに彼のために場所を空けた。

フェンリスはイザベラと共に幾度か海上で戦った時に感じたのと同じ、微かな重い痛みを胃の底で感じていた。彼は海上で戦うのが好きでは無かった。大体の場合、海上よりも更に血生臭い戦闘になった。戦う者の誰も重い鎧を身につけてはおらず、従って彼らの振るう剣はあからさまに肉を切り裂き骨に達した。フェンリス自身も、彼の胸鎧と金属製の腕甲を船室に置いて来ていた。船から落ちた時、鎧ほど泳ぐ邪魔になるものはそうそう無かった。もっとも彼が上手く泳げるわけでも無かったが――イザベラは船に居る間に教えようとしたが、どうにかおぼれずに浮いているのが精々だった。

ラヴェル船長が突然、一連の命令を発した。船員達は大急ぎで従った。船は突然左舷に向かって舵を切り、船員達が畳んだ帆のお陰で速度は急激に落ちて、彼らの船首が小さい方の海賊船の蛇尾にぶつからんばかりの距離をクルリと回った。彼らが後方で向きを変えたことに気付いた海賊船からは叫び声と、どたどたと船の上を走る足音までが聞こえたが、しかしもはや引っかけ鈎や何かを投げて、彼らの動きを止めるには遅すぎた。ラヴェル船長の船員達は既に帆を張り、風を切って進む代わりに今度は東風を背に受けて速度をぐんぐん上げ始めていた。

大きい方の海賊船はのろのろと角度を変え、追跡を再開するしか無かった。小さい方の船も転回したが、しかし今や彼らの方が北にいるため、フェンリス達の船から風を奪うためには大きく南西へと向きを変えて回り込む必要が有った。ラヴェル船長が優れた操船術で一歩先に立ち、更に差を広げようとしていた。戦場は西へと向かい、そして船の追撃戦は長引くのが常だった。運が良ければ、彼らはこのまま追跡者から完全に逃げきることが出来るだろう。

そして、ラヴェル船長が大きな罵り声を上げた。西から、三隻目の船が視界に入った。その船は風を切って彼らの方へと進み、たとえ今から北西あるいは南西へ方向を変えたとしても、彼らを捕まえるのはほとんど間違い無いように見えた。

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第30章 追跡 への3件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    アンダースはどう転んでもアンダース。
    しかしもうちょっと時と場合を選んでも良かったのでは
    ないか?(フェンリスの心の声)

    つーかフェンリエルェ・・・・

  2. Laffy のコメント:

    うひょひょひょ。いやコメントありがとうございます(^.^)。
    新生Brooming Roseにフェンリエルどーすか、アンダースの弟分扱いで。
    もちろん初客はイザベラ姐さんでwww
    ああ、それにセバスチャンは豪勢に4人全部呼んで、アグレジオ・パヴァーリをありったけ入れて、みんな酔っ払った所でフェンリスだけこそっと隅に呼んで口説く、とかw

  3. EMANON のコメント:

    セバスチャン、眠っている間にイザベラねーさんに身ぐるみ
    はがされ、結局Blooming Roseで働く羽目になるんですねわかります。

    フェンリエル入れたらゼブランの座が危うくなるなあw

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