第54章 突然のつまずき
夕食時になって、扉の向こうに現れたアンダースを見て、セバスチャンは驚くと少し眉を上げた。メイジは今晩のために少しばかりの手間暇を掛けてお洒落したのは間違い無かった。清潔な肌からは微かにバルサムの香りが漂っていて、服装はごく慎ましやかであったが、色の取り合わせは実に良く考えられていた ‐ あずき色の毛織物のズボンに、濃茶の平底の室内履き。ほとんど白に近いクリーム色のリネンシャツと、首元からはデーリッシュの金色のスカーフが覗いていた。手の爪はきちんと切りそろえられ、頬は滑らかに剃ってあり、髪の毛も櫛を入れて整えた後いつもの短いポニーテールに結んであった。
セバスチャンは急に彼自身の、昼からずっと書類の山と格闘した後のだらしない姿が気になり始めた。彼は書斎を離れてからしわくちゃのシャツさえ着替えておらず、髪に櫛の一つも入れていなかった。彼が思案をまとめる時にはいつも髪の毛に指を差し込んで掻き回す癖があることからすると、今の彼の頭はぐしゃぐしゃの鳥の巣状態になっているのは間違いなかった。今更、何をどうしようも無い。彼はメイジを出迎えて頷くと、いつもの席に座った。アンダースも彼のいつもの席に座り、彼らはフェンリスによる希釈効果無しの重い気詰まりを感じつつ、黙りこくったまま料理を取り分け始めた。
セバスチャンは上品に肉を切り分け、野菜と一緒に一口食べると、テーブルの向かいに座っているアンダースにちらっと眼をやった。メイジは下を向いて彼の猫を見つめ、肉か何かを食べさせているようだった。ろうそくの温かな光が彼の白い肌を艶やかに輝かせ、彼の赤みを帯びた金髪と、より深い金色のスカーフを引き立たせていた。その時メイジがふと顔を上げ、セバスチャンと一瞬眼を会わせてから、二人とも慌ててお互い眼を反らせた。
彼は自分も微かに顔が赤くなっているのに気付いて驚き、メイジを再びこっそりと眺めやって、その頬も微かに赤らんでいることを、よく判らないながらも歓迎する気分だった。もし彼がアンダースと二人だけで夕食を摂ることに居心地悪さを感じているのなら、アンダースも同じように感じていても、少しもおかしくはないはずだ。彼はワイングラスを手に取ると惜しげなく飲み干し、再び料理に戻った。
「そのワインは気に入ったか?」アンダースもグラスを大きく傾けたのに気付いて彼は尋ねた。
「うん、とても良い味だね」とアンダースは慌てたように言うと、自分の言葉を強調するかのようにもう一口飲んだ。
「これは私の荘園で造っているものだ」セバスチャンは嬉しく思いながら言った。
「とは言っても、この銘柄はそのブドウ畑が私のものとなるより、ずっと以前に作られたものだけどね。食後のデザートと一緒に飲む白も、やはり同じ荘園で造られている」
アンダースは皿をじっと見つめたまま頷いた。二人の男は再び黙々と食べ始め、セバスチャンが彼の取り分けた料理を不必要なまでにゆっくりとつついている間に、ほとんど職人芸とも言える集中力でグレイ・ウォーデンはその飢えを撃退していた。
メイン・ディッシュが終わったところでセバスチャンは立ち上がり、暖炉の側の椅子に向かうと、アンダースにそばの椅子に座るよう促した。二つの椅子の間には低いテーブルが置かれていて、二つの小さな皿に半球状の蓋がしてあり、その間には小さな白ワインの瓶が緩やかに溶けつつある雪の中で冷やされ、大きな銀製のゴブレットが二つ置いてあった。アンダースは椅子に座りながら僅かに不思議そうな顔をした。
セバスチャンは瓶を取り上げて乾いた布で拭くと、注意深くコルク栓を開け始めた。
「これは非常に珍しいワインで、私の荘園でも毎年ほんの少ししか造っていない。ここでは『冬のワイン』*1と呼んでいる、実を収穫して果汁を搾る前に、木に生った葡萄が凍り付くまで放っておく必要があるのでね。生産されたワインのほとんどが城内での消費に回され、それ以外の販売量は僅かなものだ」
彼はワインを少しずつ二つのゴブレットに注ぎ分けると、再び雪で冷やした容器に戻した。「とても甘いワインでね。今日はこれと一緒に食べる特別なデザートがある。バターと卵、クリームに、はるばるドナーク*2から輸入されたカカオを加えた、とてもこってりしたケーキだ」
彼はそう説明すると彼の皿の蓋を取って、どうにもケーキのようには見えない、濃褐色の菓子らしき一切れを示した。
アンダースも自分の皿の蓋を取って、前屈みになって注意深く匂いを嗅ぐと、恐る恐るフォークでケーキの端を少しばかり切り取った。口に運んだ瞬間、彼の眼は驚きと喜びに大きく広がった。セバスチャンは笑みを覆い隠すと彼自身のケーキを一口食べ、とろけるような食感とカカオの深く豊かな香りを満喫した後、極上の甘いワインを一口啜って口中をすすいだ。
再び部屋の中は沈黙で覆われたが、今回は決して居心地の悪いものでは無く、男達が共に特別なご馳走に正当な敬意を払っているしるしであって、二人の間には打ち解けた雰囲気が漂っていた。セバスチャンは彼自身がこの希なデザートを楽しむのと同じくらい、アンダースの顔に浮かんだ喜びの表情に幸せを感じていた。しばらくして、アンダースは小さく溜め息を付くとゴブレットを抱えるようにして椅子に深く腰掛けた。寛いで幸せそうな様子で、もし彼が猫だったら間違い無く喉をゴロゴロ鳴らしていることだろうとセバスチャンは思った。
彼は再びワインの瓶を取り上げ、自分のグラスに少し注ぎ足すと、アンダースの方に瓶を向けて尋ねるように眉を上げた。男は急いでグラスを差し出し、セバスチャンがその甘いワインを注いだ。
「ありがとう、これは本当に……素晴らしいよ」とアンダースが言った。
「カカオの話は聞いたことはあるけど、実際に食べたことなんてなかった」
セバスチャンは頷いた。
「需要の高さに比べて、この南東の地まで供せられるカカオは本当にごく僅かだ。ほとんどはテヴィンターとオーレイで消費されるからね。アンティーヴァがそれらを少し輸入して、その更に一部がここへ輸入される。そしてこのワインは南方でないと作れない。だからこのケーキとワインを共に楽しむことが出来るのは、全テダスでも本当に僅かな人々だ。とはいえ、少なくともこのワインは私の荘園で作られたものだから、多少の費用は節約出来たがね」
セバスチャンは白い歯を見せて機嫌良く笑いながら、そう付け加えた。
アンダースは鼻を鳴らすと、ニヤリと笑った。
「このデザートにどれ程の値打ちがあるのか、知りたくないような気がするな、何となく」
「止めておいた方が良いだろうな」とセバスチャンは同意すると椅子に心地よくもたれ掛かり、彼らは先の打ち解けた沈黙に戻った。こうやって二人一緒に、ただ座っているのは意外にも快い気分で、彼らの居心地の悪さは少なくとも一時的には解消されたようだった。アンダースは椅子の背中に頭をもたせかけ、時折ワインを啜っては静かに暖炉の炎を見つめていて、そしてその男の姿を、セバスチャンはじっと見つめていた。
アンダース程魅力のある男性も珍しい、彼はまた自分がそう考えていることに気付いた。とりわけ今のような姿は。暖炉の火と数本のろうそくだけの明かりに照らされて、彼の瞳は大きく広がり、頬には微かな赤みが差していた。彼が情熱を掻き立てられた時もこのように見えるのだろうか。そして彼の心は、このメイジがシャツを脱いで庭仕事をしている時に眼にした、普段は服の下に隠されている細身だが思ったより筋肉質の身体を思い描いていた。それからメイジが夢遊状態だった時に、セバスチャンが風呂に入れてやり、身体を洗った時の裸の姿。それから彼の寝顔、穏やかで予想外に若々しく、より繊細な表情。
彼の思考が向かう方を歓迎するかのように彼自身の身体のある一部分が、全く予想外にぴくりと動いたのに気付き、セバスチャンは僅かに顔を赤らめると、椅子に腰掛けたまま身体を少しよじった。この男に対してそのような邪な考えを抱いてはならないと、彼は厳しく自らを戒めた。何より彼自身の純潔の誓いが、そういったいかなる関係も禁じているからには。
彼は眉をひそめると自らのワイングラスを見つめて考え込んだ。それでもし、彼が全ての誓約を取り消したとしたら?それならどうなる?いや、このメイジはそれでもなお……そういった関係を持つには不適切な人物だ。彼がセバスチャンの囚人である間は。彼がセバスチャンに対して感情的に強く執着している間は。彼がカークウォール教会を破壊し、大勢の人々を、エルシナ大司教を殺害したメイジである間は。
今回に限って、カークウォールの事件やエルシナの悲惨な死のことを考えても、セバスチャンの胸中にはいかなる怒りも沸き起こらず、そのことが彼を動揺させた……彼はそうも簡単に、この男がしでかした不正義を忘れてしまったのか?いや、そうでは無かった。彼は忘れては居なかったし、許したわけでもなかった、しかし……あの街での一連の出来事が、外面と内面の両方からこのメイジに極度の重圧を与え狂気の行動に至らしめたということが、今では彼にも理解出来た。
彼はグラスに残ったワインを飲み干すと、瓶の残りの半分を自分のグラスに注ぎ、残りをアンダースの方に差し出した。セバスチャンが考えに沈んでいる間に、メイジは椅子の上で長い足を組んでいたが上半身を起こしてグラスを差し出した。セバスチャンが残りのワインを注ぐ間お互いの眼が会い、彼が贈った金色のスカーフが男の眼と髪の色を引き立たせている様子と、彼の紅潮した頬に気づいて、彼の手は微かに震えた。アンダースの下唇を軽く噛むと俯いて眼をそらした姿に、セバスチャンは突然、自分が彼に歩み寄り、身を屈めてその口を、その唇を味わいたいと切望していることに気づいた。
彼は空になった瓶を横に置いて、自分のグラスを手に取りながら呼吸を整えた。
「フェンリスが何事も無くサークルキープに到着していれば良いが。荷馬車の進みが雪で遅れるとは言っても、暗くなる前には到着しているはずだ」
アンダースは頷いた。「そうだと良い。カイラもあそこが気に入れば良いけれど。それと、君があんなに子供の扱いが上手いとは知らなかったよ」
セバスチャンは温かく微笑んで、彼の椅子に深く座り直した。
「いつもそうだった訳ではないが。私が教会に入れられて最初の頃、私の務めの一つにあそこのヒーラーの付き添いというのがあってね。それはもう凄まじい老女で、愛情表現といったら鉄のフライパンが飛んでくることだった。しかし彼女はロータウンの貧民の間で長いこと多くの善行を行っていた、特に産婆としてね。そういった、女性の、その……むき出しの場面に私が本当の役に立てるわけは無かったから、彼女が産褥に付きそう間はいつも、他に子供達が居ればその子等の面倒を見るように言われた。中には怖ろしいほどの大家族も居て、それにもちろん君は知っていると思うが、出産というのは早くても数時間、長い場合には下手をすると数日掛かるものだ。その務めから解放されるまでには、私は小さな子供達の面倒を見て、彼らを機嫌良くさせておく実地訓練をたっぷりと積むことになった」
アンダースは鼻を鳴らすと微かに笑った。「随分ためになる経験だったように聞こえるね」
「全くだ。教会で経験した数多くの務めの、ほんの一つだよ。時折私は、エルシナ大司教は私が経験したことが無いと知っていて、そういう仕事を私に割り振ることに特別な喜びを感じているのでは無いかとさえ思ったものだ」
アンダースの表情がふと真面目なものに変わると、彼はうつむいてほとんど空になったグラスを見つめた。セバスチャンは、このメイジに彼がしでかしたこと、彼が殺した女性のことを思い出させた自分を、心の中で厳しく叱りつけた。
「さてと、もう夜も遅いしそろそろ切り上げるとしようか」と彼は言った。
アンダースは頷くと、最後に一口残ったワインを飲み干してグラスをテーブルに戻した。二人とも椅子から立ち上がると、扉の方へ歩き出した。
寝室の扉。セバスチャンの心が持ち主を裏切って彼にそう告げ、彼は突然決まり悪さと、理解しがたい興奮に襲われて顔がほてるのを感じた。二人が歩いて部屋に入ったその時、振り向いて彼に何か言おうとしたアンダースが分厚いカーペットの端に突然つまずき、驚いた声と共に倒れ込んだ。
セバスチャンが片腕で彼をつかまえて引っ張り上げると、メイジは倒れ込む勢いと腕の引っ張り上げる力から彼の方によろめいて、支えようとしたセバスチャンの両腕が自動的に男の身体の後ろへと廻った。アンダースは最初は驚いて眼を見開くと彼を見ていたが、やがて何かに怯える眼に変わり、それからメイジは身体を傾けて彼にキスをした。
彼は衝撃と驚きに一瞬固まったが、それから彼の両腕は更に固くメイジの身体を抱き、その方に身を傾けると男の口の中に残るワインの微かな甘みと、更に微かなカカオの苦みを自らの舌で味わい、そして自分に押し付けられる男の身体の重みから、彼は急激に興奮が高まるのを感じた。アンダースも同様に興奮しているのを感じ、どういうわけか彼にはそれが当然のように思われた。
セバスチャンがメイジの身体を壁に押し当てると、しばらくの間彼らはただ身体全体を押し付け合い、お互いの膝が太腿の間に割って入り、唇はまだ離れがたく合わさっていた。彼は左手を挙げて男の顎に当てると、より望ましい角度に優しく頭を傾け、更にキスを深めた。そしてその時不意に、これがどれ程正しくないことであるかについて、さっき彼が考えていたことが全て蘇った。彼はメイジを抱きしめた腕を離すと、壁に押し当てた右腕を伸ばして自らの身体を押しやり、左手はアンダースの顎から首の付け根へと滑り落ちて、その手の下で激しく脈打つ鼓動を感じていた。
彼はアンダースの驚きに大きく見開かれた琥珀色の眼をしばらくの間見つめた後、頭を横に向けると眼を閉じ、額を壁に押し付けた。永遠とも思える長い間、彼らはただそこに身動き一つせず立ちつくし、アンダースの温かな身体がすぐ側にあるのを痛いほどに感じ、彼の鼻腔は微かなバルサムの香りと、更に微かな男自身のムスク臭で満たされ、指先は喉元の脈動と、アンダースが不安げに喉をごくりとさせた時の喉仏の動きを感じ取り、かすかな息づかいさえ聞き取れた。
彼は大きく息を吸った。再び男の方に顔を向けて、二人の頭を隔てるほんの僅かな距離を狭めるのは、本当に容易いことだろう。明るい赤金色の髪に顔を埋め、メイジの滑らかに剃った頬に唇を押し当て、そこから喉元にキスをして、また甘いワインの唇を味わう。彼をすぐ側にある自分のベッドへと導くのは、本当に容易いことだったろう。そして彼自身の欲情の波に我を忘れ、長年味わうことを許されなかった官能的な快楽を、彼の思うがままに満足させる。メイジがそれに抵抗しないというのは何よりも明らかだった、今夜の美しい装い、近頃の彼の落ち着かない様、そして頬を赤らめる様子、全てがアンダースがそういった行動を望んでいると示していた。セバスチャンを欲していると。
そしてセバスチャンも彼を欲していた。
彼の欲求と自制心の戦いに身震いしながら大きく息を吸い込み、その息が更に男の爽やかな香りを更に引き入れ、込み上げる欲望の波に大きく揺さぶられるのを感じた。彼の手はメイジの喉元から離れ、男の頬をかすかに撫でた後、セバスチャンの身体の横へと降ろされた。
「行け」彼は身体を回して、メイジに彼と壁の間から抜け出るための空間を作ると、擦れた声で命じた。
「私が、誓いを忘れる前に」
アンダースは何も言わず、ただ顔を背けると立ち去り、セバスチャンの視界から消えた。セバスチャンは隠し扉の閉まる音を確かに聞くまで身動き一つせずにじっと待っていたが、それから彼の身体を更に回して背中を壁に付けるとゆっくりと床の上に座り込んだ。彼は膝を引き寄せ、肘を付くと両手の指を髪の毛に差し込んだ。
こういう時には笑えばいいのか、それとも泣くべきか、彼には判らなかった。あるいは罵るべきか。どれも十分では無かった。彼はその代わり、股間の張り詰めた疼きがゆっくりと消えていくのを無視するようにただ黙って座り込み、そして彼の胸の疼きと心の混乱も、そのように容易く静まってくれることを願っていた。
*1:アイスワインと同じ製法である。原作者のMsBarrowsさんはカナダのオンタリオ周辺にお住まいのため、直にこのワインの製造する所を見たことがあってもおかしくない。続編の”Birds before the Storm”にはこのワインの品質と希少性を保つため、大公家が所有していた荘園でしか生産を許さず、かつ生産量も厳しく管理しているという一節がある。
*2:現代風に言えばチョコ生ケーキだろうか。ドナーク(The Donarks)はアンダーフェルスの更に北西、濃い緑色で塗られた部分。恐らく熱帯地方だろう。
せんせー、大公様が覚醒しましたーw
アイスワインといえばドイツのラインヘッセン!
トロッケンベーレンアウスレーゼ!でしたけど、今では
カナダのほうが生産量も輸出量も多いんですねえ。
ハンガリーのトカイワインにしろ高すぎて手が出しにくい
のが玉にキズ。
そしてフェンリスが炭酸水扱いw
コメントありがとうございます(^.^)
彼は覚醒してからが長いつーか……またそれをアンダース(とゼブラン)が虐めるしwww 大公殿下は的確にマイポイントを突いてきますねw
フェンリスだけが癒やし系。
昨日デパ地下で見てみたらカナダ産しか置いてなかったです>アイスワイン
多分ドイツ産は高いから置いてないのかも?結局カナダ産リースリングを買ってきました。後で飲むべ。