第55章 事後
隠し階段の下にたどり着き、クローゼットから転がるように出て震える手で後ろの扉を閉めた時には、アンダースの頬からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。彼はベッドに倒れ込むと出来るだけ小さく身体を丸め、両手を顔に押し当てて、激しい呼吸をどうにか整えようと苦闘した。
アンドラステの真っ赤なケツに誓って、どうしてこうも僕は馬鹿なのか!
セバスチャンに不適切な感情を抱くだけでも充分なのに、まさかその男に本当にキスするとは!ただのうっかりで彼の腕の中に飛び込んだのだから、軽く笑いとばして冗談の一つも言うだけで良かった、それを突然の気違いじみた衝動に負けてキスするなんて、何という馬鹿者か!
彼は背を下にベッドに仰向けになると、下唇を噛みしめ片手でマットレスを殴りながら、思いつく限りの蔑称で自らを叱りつけた。しかしそうしていてさえも、彼の心はあのキスを ‐ あの素晴らしく、待ち望んだ、貪るようなキス ‐ そしてセバスチャンが彼を壁に押し付け、彼の膝がアンダースの足の間を割って入り、二人の張り詰めた股間が互いの身体の間で閉じ込められ、彼を強く抱きしめる男の熱気をすぐそこに感じる、それら全てを繰り返し再生していた。
彼は答えてくれた。セバスチャンは本当に、彼の愚かな行動に答えてくれた。本当にその瞬間全てが希望に溢れ、こんなにも簡単なことだったのかと、ちょっとつまずいて、彼が抱き留めて、そしてキス……それからセバスチャンは、身を硬くすると彼から離れた。その瞬間これは上手く行かないということが判って、彼の心に恐れと恥ずかしさが食い入り、彼は凍り付いた。セバスチャンはそこに、側の壁に向かって長い間身動き一つせず立ちつくし、彼の喉元に触れる大公の指先だけが二人を繋いでいた。彼はその指のかすかな震えが、セバスチャンの中で荒れ狂う嵐の印だと知っていた。彼ら二人の関係が唐突に変化したことに対して、大公の達する結論が何であれそれを待とうとして、彼自身も可能な限り動きを止め立ちつくした。
最後に彼の頬に微かに触れた指先の感触と、彼に行けと命ずるセバスチャンの荒く軋んだ声を思い出し、彼は更にあふれ出す涙を抑えようと瞬きを繰り返した。
セバスチャンは彼を拒絶した。
その思いに彼の胃はひっくり返り、中身を全て吐き出す前に彼は浴室の便器にどうにか辿り着いた。彼は繰り返しえずき上げ、最後に口の中に残った汚物を吐き出した。側のバケツから灰を汚物の上に振りかける彼の手は震え、彼の心は、今夜のデザートの希少価値についてセバスチャンが語った内容をふと呼び起こしていた。一体何枚の金貨に値するご馳走が、たった今無駄になったのだろうか。
身を翻してその部屋を出ようとした時、手に付いた灰を見てようやく彼はアッシュのことを思い出した。何しろ彼は夕食の赤と、その後の冬のワインで気分良く酔っ払っていて、今晩に限ってセバスチャンの居室を出る時に彼の猫を回収することを思いつかなかったのだった。アッシュはまだ、隠し階段の上のどこかに居るはずだ。
彼は長い間じっと立ちつくし、あの猫が与えてくれる慰めに対する圧倒的な要求と、同等の強さで彼を責め立てる、たった今セバスチャンの側に戻ることを拒否する心の間で揺れ動いた。彼は二度クローゼットの方へと向かい掛けたが、その度に去れと命じたすぐ後に戻ってくることへのセバスチャンの怒りを想像して、彼の足は独りでに止まった。
それに今現在の、顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れ、恐らくは嘔吐物の臭いのする彼の姿をセバスチャンがどう思うかと考えただけで、彼は耐えられなかった。その考えそのものが、再び大粒の涙を溢れさせた。
彼は服を脱ぎ捨て、清潔な寝間着を引っ被ると、彼が夕食のために上階に上がってから、ずっと表に居た犬達を中に入れるためにほんの短い間居間に降りた後、再びベッドに転がり込んだ。
彼はただそこに横たわり毛布の中に小さく丸まって、2匹の犬が彼の隣で身を押し付けてた。ハエリオニは彼の背中にどっしりと横たわって暖かみを送り、ガンウィンはアンダースの頬を一舐めした後、冷たい鼻を押し付けて彼の胸元で丸くなると、身を震わせながら静かに泣いていたアンダースがようやく疲れ果て眠りに引き込まれるまで、キューンと微かに鳴き続けていた。
暖炉の側の椅子に座って、夕食のテーブルから半分残っていた赤ワインを片付け、ブランディを開け始めた時ようやく、セバスチャンはまだ客が残っていたことに気が付いた。その灰色の影が、ずっと横たわっていた長椅子の端から突如腕の中に飛び込んできた時、彼は危うくグラスを取り落とすところだった。
「お前、私に心臓発作を起こさせる気か?」彼は猫に尋ねた。
「もうほとんどそうする所だったぞ」
彼は猫を見て眉をひそめると、ブランディを更に一口飲んだ。
「ここに居たら駄目だろう」と彼は指摘した。
アッシュはその言葉を理解したように、彼の腕からスルリと降りると優雅な動きでセバスチャンの脚によじ登った。彼は半眼を閉じて低くゴロゴロと喉を鳴らしながら、前肢でセバスチャンの太腿を揉み始めた。それは愉快な仕草だったが、やがて猫は鋭い爪を出し始め、セバスチャンが驚いて罵り言葉を発すると、猫も驚き怯えたように飛び退いた。
彼は姿勢を正すと、側の床にうずくまって彼の方をじっとりと不満げに見る猫に向かって顔をしかめた。
「お前はあのメイジの側にいなきゃ駄目じゃないか」と彼は猫に言うと、ゆっくりとグラスを側のテーブルに置こうとしたが、間違い無くグラスがそこに落ち着くまでに少し時間が掛かった。彼は自分がかなり酔っていることに気が付いた。
彼は脚を前に放り出し、元の位置にドスンと座り直した。足下で毛繕いしている猫をしばし見つめた後、彼はふらふらと立ち上がり、寝室に向けて歩き出した。そこの扉を開けるやいなや猫はダッシュして彼を追い越し、隠し階段の入り口に掛かっているタペストリーの真ん前で座ると、期待するように彼の顔をじっと見あげ、声を出さずに一声鳴いた。
彼はゆっくりそこへ歩いて行くと、猫を見おろして溜め息を付いた。
「彼にはお前が必要だろう」と彼はひどく静かな声で言うと、タペストリーを押しやって隠し扉を開けた。階段は暗かったが、ろうそくを取りに行こうとはせずただゆっくりと注意深く、足元で一段一段を感じ取り、右手を荒い石壁に沿わせながら下へ降りて、ようやく階下に辿り着いた。彼はクローゼットの裏の羽目板を開けると動きを止め、表の扉に手を当てたままじっと長い間そこに立ちつくしていたが、ようやく手に力を込めてその扉を開けた。
暗闇に慣れた彼の目がベッドに横たわるアンダースの姿を見て取るには、窓から差し込む月明かりだけで充分だった。犬達が彼を守るかのように側に横たわり、二匹ともセバスチャンを注意深く見つめていた。そして、メイジの頬にくっきり残った涙の跡が彼の目に入ると、突然セバスチャン自身の喉に塊が込み上げてくるのが感じられた。
アッシュはベッドに飛び上がり、メイジの髪を鼻先でつついた。アンダースは溜め息を付くと固く丸まった姿勢を僅かに伸ばし、猫を抱こうと手を動かした。アッシュは数回ぐるぐると回った後メイジの枕元に落ち着き、背をアンダースの頭にもたせかけた。猫の低いゴロゴロという喉音がそれ以外に音の無い部屋に広がった。
セバスチャンは静かにクローゼットの扉を閉めると、暗闇の中を自分の部屋に戻っていった。彼自身が眠りに着くまで、相当長い時間が掛かった。