第23章 覚醒

第23章 覚醒


何かが彼の顎を舐めていた。こそばゆかった。彼は無視して、それまでのようにフェイドの周縁で平穏に漂い続けようとしたが、しつこく舐められ続けて無視出来なかった。それから、ゴロゴロと喉を鳴らす音が耳元で聞こえた。

彼が眼を薄く開けると、灰色の毛皮の子猫が彼の胸の上に屈み込み、半目を閉じて彼の顎を一心不乱に舐めている姿が目に入った。驚いて息を吸い込むと、子猫はピンク色の舌の先端を出したまま凍りつき、大きく目を開けた。子猫はしばらくの間じっと、大きな緑色の眼で彼の琥珀色の眼を覗き込んでいたが、再び顎を舐め始めた。

彼は短く笑い、自分の声のひび割れた音に驚いた。子猫も驚いて空中に跳び上がると彼の脚の方に着地し、四肢を大きく広げて爪を毛布に食い込ませながら、肩越しに彼の顔を振り返った。彼は片手を身体の側から持ち上げて、ほんの僅かな距離手を動かすのが大層な仕事に思える事に驚きつつ顎をさすると、何か粘り気のある物が手に付いた。グレイビーソースだ。

彼は周囲を見渡し、見覚えのない部屋であることに気付いて眉をひそめた。大きな部屋の壁は上等の板で張られ、大きなタペストリーがあちこちに飾られていた。巨大なベッドが部屋の反対側に置かれていて、天蓋から垂れ下がる豪華な刺繍の施された飾り布で覆われ、床には分厚いカーペットが、部屋のほとんどの部分に敷かれていた。枝分かれのあるろうそく立てには上等の白ロウ*1で出来たろうそくが立てられ、部屋のあちこちに置かれていたが、今は灯は点されておらず、二つの窓から差し込む早朝の光が明るく部屋の中を照らし出していた。彼は頭を振って更に見回し、見覚えのある鎧が扉の横の鎧掛けにあるのを見つけた。その上の壁には弦を張っていない弓が数本掛けられていた。
セバスチャンの鎧と弓だ‐するとここは、セバスチャンの寝室に違いない。

それで、僕はここで一体何をしているのだ?

子猫はアンダースが身体を動かすのは脅威ではないと見なす事に決めたようで、再び彼の脚の上を歩いて来て腹の上で立ち止まると、そこで座り込んで頭を上げ、彼の顔を興味深げに見つめた。彼は指を一本突き出して子猫の方に近づけながら、彼の手と手首がひどくやせこけて見えることに驚いた。子猫は顔を突き出して指の臭いを嗅ぎ、それから頭を彼の手の下に押しつけた。彼は笑みを浮かべ、驚く程困難な仕事、つまり指で子猫の耳の後ろを引っかくという作業に集中した。

寝室の扉が開き、セバスチャンが両手に盆を抱えて入ってきた音を聞いて二人とも僅かに飛び上がった。セバスチャンは急に立ち止まると、アンダースが彼を見ているのに気付いて大きな笑みを浮かべた。
「目が覚めたか!」と彼は大喜びして叫び、アンダースはこの男は一体何がそんなに嬉しいのかと驚いた。
「気分はどうだ?」セバスチャンは心配げに尋ねつつ、大股で部屋を横切ってくると盆をベッドの側の低いテーブルに置き、自分もアンダースのベッドの端に座った。

アンダースは眉をひそめてしばらく考え込んだ。「腹が減った」と彼はようやく言葉を紡ぎ出した。

セバスチャンはそれを聞いてニヤッと笑った。「当然だな。みんな心配したぞ、おい。お前はおおかた一週間、ずっと横になっていたのだから」
彼はそういうと、真面目な顔つきになり、微かな皺が彼の額に浮かんだ。
「お前がもう起き上がれないのではないかと、皆思い始めていたところだ。さあ、座るのを手伝ってやる、それからちゃんとした食事が摂れるか見てみよう」
彼はそう付け加えて、アンダースを起き上がらせるとテキパキと枕を身体の後ろに詰め、起き上がっていられるよう支えにした。

アンダースは彼がいかに無力かという事に気付いて少しばかり恥ずかしくなった。自分で食事を摂ることさえ出来ず、紅茶を飲む間もセバスチャンがカップを口元で支えてやり、それから柔らかな食物を一匙ずつ口に入れて貰わなくてはいけなかった。同時に彼は、持ってきた食事をアンダースがゆっくりと全て平らげるのを見て、大公殿下がニコニコと上機嫌で笑っている様子に落ち着かない物を感じた。セバスチャンが、彼が何かをする事で喜んでいるというのは……何とも当惑させられる気分だった。

「全部食べられたな」とセバスチャンはしばらくして言った。「もっと食べるか?」

アンダースはどうにか頷いて、「頼むよ」と言った。

セバスチャンは盆を持って大急ぎで出て行くと、数分後に今度は大皿を持って戻ってきた。
「私の朝食がまだ片付けられていなくて良かった」と彼は言った。
「もう少し実のある物が食べられないか見てみよう」彼はそう付け加えて、大皿をテーブルに置いた。大皿から立ち上る美味しそうな食物の匂いにアンダースの鼻腔は広がり、口にはつばが湧き出してきた。アンダースの腹の上で丸くなっていた子猫は即座にベッドへ飛び降りると、匂いの元を探しにテーブルへ近づいた。

「こら!鼻をくっつけるんじゃない、お前の食べる物じゃないぞ」とセバスチャンは子猫を叱りつけると、器用にソーセージを一口大に切り分けて一つずつアンダースの口元へ運んだ。

食べ物を噛むのは、今まで想像したことがないほど大変な仕事だった。明らかに、彼は重体だったに違いなかった。
「一体何があったんだ?」と彼は一切れずつ噛む間に尋ねた。

セバスチャンは眉をひそめた。「お前が最後に思い出せる事は何だ?」と彼は注意深く尋ねた。

アンダースは深刻な顔つきになり、ため息をついた。彼はヒーラーとして同じような質問をこれまで幾度もしたことがあり、その回答が重要な意味を持つと言うことも良く知っていた。彼は過去を振り返ってよくよく考えた。最後に思い出せる事、ここで目が醒める前の、彼が見た一連の奇妙な夢の、更にその前……もっと前……
「診療所で働いて、家に戻った…しばらく絵を描いていたと思う。それから夕食を食べたのは覚えている、それからベッドに入ったに違いない……」
彼はそういうと、眉をひそめた。他にも何か起きなかったか?悪い夢を見たんだ、多分……彼は突然、自分が震えていることに気付いた。
「何か悪いことが起きたに違いない」と彼は囁き声で言った。「何があった、セバスチャン?どうして僕はここに?」

セバスチャンはスコーンを二つに割ってバターを塗りながら顔をしかめた。アンダースが一口ずつかじる間スコーンを指で支えてやり、その後でようやく彼は答えた。

「テンプラーが二人、内一人はシーカーだったが、他の傭兵と共に城の敷地に侵入してお前を捕まえようとした。お前はどうやってか、この部屋とコテージを結ぶ隠し通路を見つけて、連中から逃げ延びた。その晩のお前はひどく怯えていて、その後に起きたまま眠っているような状態に陥った……」

アンダースは身震いした。「……少し思い出した」と静かに彼は言った。
「窓に映った影、クローゼットの中の壁、壁が開いて…」彼は唐突に言葉を切ると、その時の彼の様子を思い出した。恐怖に半ば正気を失い、自らの汚物にまみれた姿……彼は大きく息を吸い込んだ。
「その夜の僕の様子と来たら、きっとびっくりするような有様だったろうな」彼はユーモアで誤魔化そうとしわがれた声で言ったが、もちろん上手く行かないのは判っていた。

セバスチャンは口を歪めて笑った。「まあ、そう言っても良いだろうな」
「お前が壁の中から、ひどい様子で這い出してきた時には驚いたものだ。その後お前は少し気を取り直して、テンプラーがコテージに居ると伝えたので、私が衛兵を呼んだ。侵入者は全員、捕らえられたか殺されるかした」と彼はそう言うと言葉を切り、何処までアンダースに話すべきかと考えた。

ちょうどその時、扉を静かにノックする音がした。「入れ!」とセバスチャンは肩越しに振り返って叫んだ。

扉が開き、ドゥーガルの姿が見えた。彼は一足部屋に入ると突然立ち止まって、セバスチャン同様大きな笑みを顔に浮かべた。「彼が起きた!」と彼は叫ぶと、足早にセバスチャンの側に来て、顔を輝かせてアンダースの顔を見た。「目を覚まされたか!」

「うん、みんなそう言ってるね」とアンダースはあっさりと言うと、男に向かって笑みを浮かべた。彼が起きたのを見て、また別の人物がこうも喜んでくれるという事実が、どれ程彼を温かな気分にさせるかに気づいて彼自身も驚いていた。

「目が覚めて、よく食べた」とセバスチャンは満足げに言った。
「この大皿からもっと食べさせられないか、やってみてくれないか。私はギルドマスターとの会合が一時間後にあるから、そろそろ風呂に入って着替えないといけない。それと、出かける前にまた話をしよう、アンダース。お前が起きていたら、もちろん戻ってきてからも」とメイジの方に向き直って、彼はそう付け加えた。

ドゥーガルは頷き、二人の男は素早く位置を入れ替えると、セバスチャンは急ぎ足で部屋を出て行った。ドゥーガルは食べ物を一かけアンダースの口に入れながら、まだ笑みを浮かべていた。

「一体何日寝ていたんだ?セバスチャンはほとんど一週間とか言っていたが……」とアンダースは尋ねた。

「六日間になります、サー、夢遊状態に陥られてから。それからずっと私達であなたの世話をして参りました‐シスター・マウラと、私と、ヴェイル大公自らも」

アンダースは顔を赤らめた。その間、彼がどういった類の世話を必要としたか十分想像が付いた。彼自身、他人のそう言う世話を嫌と言うほどした事があった。しかしながら、他の人物が彼の世話をして、食事を与え、身体を綺麗にしたというのは……何かしら更にひどい事のように感じられた。

子猫が頭を、動きの止まったドゥーガルの手に押しつけて、ミャオと一声鳴いた。ドゥーガルは笑みを浮かべ、ソーセージを一かけら転がしてやった。
「一かけくらいは何の害にもなりますまい」と彼は澄まし顔で言った。

「全くその通り」とアンダースは同意すると、子猫がシーツの上にしゃがみ込み、顔の横の歯でソーセージの端をかみ切ろうと奮闘する様子を見て、思わず笑みを浮かべた。
「こいつは可愛いな。どこから来たんだ?それともセバスチャンは、彼の部屋にいつも子猫を住まわせているのか?」

ドゥーガルは微笑んでいった。「殿下が連れていらっしゃったのですよ、確か一昨日に‐少なくとも昨日の朝私が来た時にはもう居ましたが、その前の日にシスター・マウラが立ち去る時には、居なかったようですから。良い影響があったようですな、あなたはご自分で、昨日数回身体を動かされましたから」

アンダースは笑顔を浮かべ、唐突に彼の目頭が熱くなるのを感じた。
「彼が僕を起こしてくれたんだ、今朝」と彼は答えた。
「僕の顎を舐めていた。何かグレービーソースを使った食事を食べさせて貰ったようだな」

ドゥーガルは笑うと、アンダースの顔を覗き込んだ。「ああ、ここにまだ付いていますな」と彼は厳かに言うと、また微笑んだ。
「食べられるだけ食べた後で、今度はちゃんとした風呂に入っていただけそうですな。それからひげ剃りも」

「今度は?」アンダースは落ち着かなさげに言った。「という事は、僕はもう風呂に入れて貰ったのか?」

ドゥーガルは厳めしい顔つきをした。
「はい、二回ほど。ですからあなたの服の下がどうだろうと気になさらんで下さいよ、もう承知してますから。壁を通って登ってきた時は大変なご様子だったようですな、その晩は大公殿下自らが身体を洗われました。その後、殿下と私でもう一度風呂に入れて差し上げました。ここの浴室は是非見て頂かないと‐王族というのは、こと居心地を良くする事に掛けてはやはり大したものです。私が診療所で身体を洗っている部屋とは、えらい違いです」
彼はニヤリと笑って付け加えた。

アンダースは眉をひそめて、また食べ物をかじった。どうやら、セバスチャンは先週の間、随分彼の世話をしてくれたようだった。あの男が彼の世話を、とりわけ無力な身体が必要とする、およそ洗練されたとは言えない類の世話をしたというのは、どうも想像が出来なかった。彼の思い描く男のイメージとはおよそかけ離れていた。

大皿に乗っていた食べ物をおおかた半分食べたところで、突然彼はもう一口も食べられない事に気付いたが、しかしまだひどく喉が渇いていた。ドゥーガルはすぐ紅茶を持ってくると言って、大皿を持って立ち去った。

彼は静かに横たわり、指を一本曲げ伸ばしして、それに子猫が飛びかかり抱え込むのを見ていた。扉がまた開き、風呂から出たばかりで全身をピンク色に染め、腰にタオル一枚を巻いただけのセバスチャンが入ってきた。
「ドゥーガルがお前のために湯を入れ替えている」と彼は衣装棚に近寄って幾つか服を選びながら言うと、服をベッドの上に並べ、タオルを取って着替え始めた。アンダースは慌てて顔を背けたが、大公殿下の背面はその前にしっかりと目に入っていた。彼の反逆心旺盛な心が即座に指摘したように、その姿は精気溢れる背中の見本と言って良く、男の筋骨逞しい様子を余すところ無く伝えていた。

「おおっと」しばらくして、セバスチャンがそう言って彼の方に近づいてくる音が聞こえた。彼は頭を戻して、男がベッドのそばに立ちシャツの襟元を整えながら、僅かに顔を赤らめているのを目にした。
「すまない、お前がここで寝ているのに慣れすぎてしまったようだ……」と彼は謝った。

アンダースは口元が思わず緩むのを感じた。
「別に目新しい物は何も見なかったよ」と彼は淡々と指摘した。
「収穫祭の時に君が付けていた腰帯と来たら、さっきのタオルよりまだ覆っている部分が少なかった」と彼は付け加え、それを聞いてセバスチャンの顔が更に赤らむのを見て楽しんだ。タオルが取られた時に彼がどちらの方を向いていたかについては、彼は注意深く言及を避けた。

それからセバスチャンがニヤッと笑うと顎をしゃくった。
「まあ、そうだな、これで身体の恥ずかしいところを見た分についてはお互い様だと言って良いだろう」と彼は指摘し、今度はアンダースが顔を赤らめるのを見て更に笑みが広がった。
「とにかく、もう出かけなくては。ギルドマスター達にお前の提案した、ここの避難民の中に居る、優れた職人の再起を助けるというアイデアを売りつけに行ってくる。戻ってきたら、上手く行ったかどうか知らせるよ」

アンダースは頷き、彼が急ぎ足で出ていくのを見送った。


セバスチャンはその日の午後遅く、疲労を感じながら彼の部屋に戻ってきた。結局のところ物事は上手く行ったが、その前に膨大な討議を必要とした。

シスター・マウラがまだそこに居て、笑みを浮かべながらアンダースが既にとても回復したように見えると言い、彼の食べた量を伝えた。彼はほとんど普段に近い量の昼食と、更に相当な量の軽食を午後に摂っていた。セバスチャンは頷き、改めてメイジの世話について彼女に礼を述べると広間の方まで送って行き、それから自分でアンダースの様子を見に行った。

メイジは身体の側面を下にして横たわっていて、うとうとしている様だった。子猫は彼の腕と胸の間で丸くなっていたが、セバスチャンの足音を聞いて見上げ、舌を突きだしてあくびをした。子猫は立ち上がると小さな尻尾をピンと立てて背中を反らし、それから前脚を伸ばして優雅な伸びをした。セバスチャンは子猫がベッドから飛び降り、彼の方に近づいて来て足下で立ち止まると、大きくゴロゴロと喉を鳴らしながら彼の脚に身体を擦り付けるのを見て笑みを浮かべた。彼は屈み込んで子猫の耳の後ろを優しく掻いてやった。
「何かご馳走を持ってきたと思ってるんだろう?」と彼は静かに言った。

アンダースが鼻を鳴らした。眠っていた訳では無く、単に目を閉じて休んでいただけと言うことに彼は気付いた。アンダースは目を開けると子猫に笑いかけた。
「こいつは君のことが気に入ったようだな」と彼は言った。
「もう名前は付けたか?」

「どうして私が?彼はお前の猫だよ、アンダース」

「本当かい?」と男は頭を上げて尋ねた。彼は少しばかり大げさに喜んでいるように見えた。

「ああ、お前のために持ってきた。気に入るかも知れないと思ってな」彼はそう言うと、慌てて付け加えた。
「ほら、お前がカークウォールで、一度ホークに話をしていたのを思い出したからな、どれだけお前の猫を懐かしく思っているか……」*2

アンダースは子猫から目を放さずに頷いた。彼は身を伸ばして、片手をベッドの側面に降ろし、指を擦って音を立てた。
「こいつにぴったりの名前があるんだ」子猫が彼の方に飛んで来た。彼は子猫の背中を撫で、手に沿って背中を反らすのを見て笑みを浮かべた。
「アッシュさ」と彼は澄ました顔で言った。

「この毛皮の灰色から?」とセバスチャンは興味深げに尋ねた。

アンダースは大きく笑みを浮かべた。「まあ、それもあるね。だけど僕が考えているのはアンドラステス・アッシュ、聖なる遺灰のことさ。それがこいつの本名だ。だけどアンドラステは女性だからね、単にアッシュと呼ぶことにするよ」

セバスチャンは眉をひそめた。「そいつは少しばかり……不敬に値しないだろうか」

アンダースの笑みは更に広がった。「だけどこいつが僕を目覚めさせてくれたんだ、そうだろう?だからまさしくぴったりの名前だ。何と言ったって、病の者を癒すというのがアンドラステの聖灰の効き目なんだから。それとも君たちは、先のブライトの間にフェラルデンで、聖遺灰の入った壺が見つかったという話を聞いた事が無いとか?」

セバスチャンは更に眉をひそめた。「確かに、そう言った噂は聞いたことがあるが……信頼すべき話のようには思えなかった、それにチャントリーからはその件に付いては何も聞いていないし……」

アンダースは静かに子猫を撫でながら、セバスチャンに向かって笑みを浮かべた。「本当の事だよ」と彼は確信ある者の声で言った。

「僕はその骨壺を見つけたグループを率いた女性を知っている。彼女たちはまさにアンドラステの聖遺灰を一つまみ手に入れる権利を勝ち取って、死の病の床にあった男性を救ったんだ」
彼はそう言うと、ニヤリと口を歪めて笑った。
「一番愉快なところはね、彼女はヒューマンですら無かったってことだ‐デーリッシュ・エルフだった。メイカーやアンドラステの信者でさえ無かった。デーリッシュの不信心者の成果が、チャントリーの信仰にどう言う意味を持つと思う?」と彼は尋ねた。
「チャントリーが聖遺灰が発見されたと世界中に触れ回ってないのは、多分そのせいだろうさ……骨壺を見つけたのは彼らではなく、デーリッシュと、アポステイトの魔女と、クナリと、ドワーフの一団だった。チャントリーが何世紀にもわたって探し求め、見つけられなかった物を見つけたのは不信心者の集団だったと、どんな風に言えば良いんだ?彼女の聖遺灰を手に入れるのにふさわしい者として、当然そうであるべき者、チャントリーの真の信者ではなく、他の者が選ばれたと知ったら……」

セバスチャンは眉をひそめた。
「そうだな……私には判らない」と彼は渋々認めた。「しかし、そのエルフが言っている事は本当なのか?彼女がお前に嘘を付いたのかも知れないぞ……」

アンダースは頭を振り、明るい笑みを唇に浮かべた。
「この女性に限ってそれは無いよ」と彼は心からの信頼を込めて言った。「彼女は絶対、嘘を付かない。ともかく、誰かにバレるような嘘はね」

セバスチャンの眉はつり上がった。「それで、その正直の権化は一体誰なんだ?」と彼は尋ねた。

「ソリア・マハリエル」とアンダースは静かに答えた。

セバスチャンは難しい顔で考え込んだ。「その名前は聞いた覚えがある……待った!フェラルデンの英雄じゃないか!お前は英雄と会ったことがあるというのか?」と、彼は驚いて尋ねた。

アンダースはすまし顔で笑った。「もちろんその通り。僕がグレイ・ウォーデンなのはそもそも彼女のせいなんだからね。彼女に徴用されたんだ」と彼は言って、一つため息をついた。
「もっとも、僕に残された他の選択肢と言えば、僕を護衛していたテンプラーを殺害した罪で連行されて殺されるだけだったから、理論的には彼女は僕の命の恩人ということになるな」

「それで、お前はそのテンプラーを殺したのか?」とセバスチャンは尋ねたが、明確な答えが返ってくることは特に期待していなかった。

「いいや」アンダースは静かに言った。「ダークスポーンが殺した。だけども連中が死ぬのを見て、僕の心が痛んだとは言えないね。連中が僕を捕まえた後、大変優しく扱ってくれたとは到底言えないから」
彼はそこで言葉を切ると、大きくあくびをした。抑揚のないぼんやりとした声で、彼は続けた。
「おかしな話さ。僕とジャスティスが……一緒になる前は、故意に人を殺したことなど無かった。もちろん、ソリアと一緒にアマランシンにいた時分にも人を殺した事はあるよ、だけどそれは全部自己防衛のためだった。野盗やマレフィカラム、誰一人僕たちに『一緒に座って、温かい紅茶でも飲みながらお話しませんか』と尋ねる選択肢なんて残そうとしない連中さ。知ってるだろう、ホークと一緒に冒険した時に、そう言う連中を嫌と言うほど見たのはメイカーもご存じだ……」

彼の声はやがて眠気を帯び、瞼がゆっくりと閉じていった。セバスチャンが見守る中、メイジは腕をベッドにしまうとため息をつき、眠りに引き込まれていった。子猫もまた飛び上がって、男の身体の横で丸くなった。彼はしばらくの間アンダースを見つめ、その言葉を考えていたが、それから静かにその場を立ち去った。

セバスチャンは、アンダースの言ったことが本当だろうかと考えていた。と言うよりも、何処までが本当だろうかと。ソリアを知っていること、骨壺のこと、聖遺灰、彼の徴用……何よりも、ジャスティスと一緒になる前は殺人の罪を犯したことは無いというのは本当だろうか。

しかしながら彼の話した全ての事の中で、セバスチャンにとってそれが一番信じられる気がした。スタークヘイブンに到着してからと言うもの、アンダースに関して彼が見た全ての事柄が、この男は生来のヒーラーであって、殺人者ではないと示していた。あの精霊の影響下で彼が人々にもたらした死の重みが、その事で更に重くなったように思われた。


*1:洋ろうそくなので蜜蝋が材料と考えられる。そのままでは蜂蜜の臭いのする、褐色のねばねばしたロウ(ワックス)であるが、幾度もろ過・洗浄など精製を繰り返すと、ほぼ純白で無臭のロウになる。お金持ちのセバスチャンが使っているのはこちら。

*2:召使いに命じて詩や絵の書き損じをコテージから回収させている事は、アンダースには秘密。

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