第22章 衰退

第22章 衰退

静かなノックの音にセバスチャンは机から顔を上げ、ドゥーガルが開いた扉の向こうに立っているのを認めた。
「今日はどんな様子だ?」と彼は尋ねた。彼とドゥーガル、そしてシスター・マウラは、アンダースが四日前に倒れてからずっと、毎日交代でメイジに食事をさせ、身体を綺麗にし、床ずれが出来るのを防ぐため姿勢を変えさせていた。セバスチャンはどのみち仕事を終えれば大体はまっすぐ寝室へと行くので夕方から夜を受け持ち、他の時間はドゥーガルとシスター・マウラが交代で分担していた。

ドゥーガルは微かに眉をひそめた。
「前と同じです、サー。ただもう少し食べさせることが出来れば……彼がやせ衰えていく速さは怖ろしいほどです。もし知らない者が見たら、僅か四日間十分に食べていないどころか、二週間ぐらいは飢餓状態にあると思う事でしょう」

セバスチャンは憂鬱そうに頷いた。
「恐らく、彼がグレイ・ウォーデンであることと何か関係するのは間違い無い‐彼らは皆恐るべき食欲を持っている。彼はいつも普通の二人前かあるいは三人前の食事をあっさり片付けて、それでようやく健康的な体重を保つに足りる量なのだ。彼が何とか飲み下すだけの量の食事では、十分というにはほど遠いだろう」

ドゥーガルは頷いた。
「それを除けば、まだ十分良い状態なのですが。彼はあの塩にも反応しますし、小水も出します。しばらく前に…ええと、排便もいたしました、ですから身体的な健康状態はまだそれほど悪化し始めてはいません。ですが、もし飢餓状態に陥るようだと……」
ドゥーガルは顔をしかめると、首を振った。
「もしそうなると、彼の健康状態に悪い影響が出るのはそれほど先の事では無いでしょう。その後は、あまり希望が持てるとは思えません」

セバスチャンは冷静に頷いた。
「出来る事をするしか無い。お前はもうすぐ診療所に戻るのだな?」

「はい。昼からはシスター・マウラを交代で寄越すようにいたします」

「判った」とセバスチャンは言うと、立ち上がった。
「何にしてもそろそろ昼食の時間だ、彼女が来るまで私が見ていよう」

ドゥーガルは頷くと立ち去った。セバスチャンは呼び鈴を鳴らして昼食の用意をさせると、アンダースの様子を見に寝室へと立ち寄った。彼は片側を下にして横たわり、再び目を開けていた。セバスチャンは側によってベッドの端に座ると、優しくまぶたを閉じてやり、彼のやせ細った手首を手にとると脈を見た。未だ力強かった。

「メイジ、皆がお前の事を心配しているぞ」セバスチャンは静かに言った。
「ドゥーガル、シスター・マウラ、それに私も……お前と私は友人では無いかも知れないが、だからといってこんな風にお前がやせ衰えていく姿を見たかったわけでは無い」

彼は手を伸ばすと、指の甲でアンダースの頬に触れた。温かいが熱は無く、乾いていた。
「シスター・マウラは毎日お前のために祈っている。チャントリーのシスターがお前の、メイジのために祈りを捧げていると知ったら、お前はどうするかな。笑い出すか、それとも唾を吐いて怒るか?」
彼の唇は苦笑いに歪んだ。
「少しずつ両方だろうな、多分。お前はいつもひねくれたユーモアの持ち主だった。ホークと一緒に冒険に出ていた時に、お前が悪魔や狂人を前にして笑っていたのを私は見た。それに、お前が何かに怒った時には、相手の面前でその行いを非難していた‐例え大司教や騎士団長の前でさえ。必要な時には、お前は勇敢な男だった、アンダース‐なぜ今になって恐怖に身を任せようとする?それとも、あれは全部ジャスティスの勇気だったのか……」

彼はしばらく眉をひそめながら考えに沈んだ。
「いや、そうだったとは思えないな。何しろここに来て、私に降伏する勇気があったのだから。どれだけ私がお前に対して怒っていたか考えれば、あれは本物の度胸が要っただろう。ともかく、メイジ、私はもう怒ってはいない。もし私が怒っているとしたら、今では別の理由からだ」

彼は居間で召使いが彼の昼食を準備する音を聞き、溜め息をついた。
「さて、昼食だ。シスター・マウラがもうすぐお前を見に来てくれるぞ」
彼はそう言うと立ち上がって居間の方へ向かった。彼はこのメイジが、カークウォール時代の記憶にある活力溢れる男から、今の衰弱した姿に変わったのを見て、ひどく悲しんでいる自分に気づき驚いていた。


セバスチャンはその午後、衛兵隊長セリンと一緒に城の敷地を一周しながら顔をしかめた。隊長は衛兵の巡邏方法を変える提案について彼と相談したがっていた。その新しい巡邏方法なら、あのテンプラーと傭兵達のように誰からも気づかれずに城に忍び込むのは、ずっと難しくなると期待出来た。衛兵を殺害した傭兵達はその命で償ったが、セリンもセバスチャンも共にそもそもこの事件が起きたという事自体に腹を立てており、そして主犯がのうのうと生きながらえたという事についてもそうだった。

「スタークヘイブンはあまりに長い間平和を保っていたので、皆油断していたのかも知れません」
セリンは城の外壁の胸壁に沿って歩きながら険しい顔で言った。
「我々はこの数十年、同じ方法で警備をしてきました。それが最良の方法か、あるいは安全な方法なのかさえ考える事無く、仕事を続けてきたのです。例えば、連中が庭へ向かう途中で殺害した衛兵は単独での巡邏中だったため、彼が居なくなった事に気がつくまで数時間を要しました。一番腹立たしいのは、これから先必要となる城の適切な保安に関して、幾つかの問題点については私には改善策さえ思いつかない、どうして良いか判らないという事です」

セバスチャンは頷いた。
「図書室の本の中に答えが見つかるかも知れないな。。ヴェイル家が長年集めてきた軍事の歴史と、それに関する論文が大量にある。もしお前が誰か頭の良い、信頼出来る者に心当たりがあれば、彼に調査を命じて何が判るか見てみてもいいだろう。あるいは、避難民の中に過去に軍人や衛兵としての経験のある者がいれば……だが、そう言った男達は必ずしも信頼が置けるとは言えないだろうな」

「はい、そう言った男達はほとんどがただの脱走兵で、精々下級の兵隊です。決まった方式で巡回する事くらいは出来るでしょうが、なぜその方式が良いのかという理由、あるいはそれが正しい方法なのかという事については、知っているとは思えません」
セリンは同意し、彼が感じている失意のいくらかを声に表した。
「こんな事は言いたくは無いのですが、傭兵を雇うことも必要となるかも知れません。こういったことについて豊富かつ幅広い経験を持ち、戦に慣れた、我々に助言出来るような者を。ですがやはり、その男が果たして信用出来るかという問題は残りますし、信用に値しない者の助言に従えばどのような騒動が待ち構えているか、考えただけで身震いがします」

彼らは城壁を一周回り終えて、内壁に沿った階段を降りて、馬屋と衛兵の兵舎の間にある練習場へと降り立った。

「いずれにしても、もっと多くの者を雇って訓練をしなければなりません」とセリンは言った。
「もう単独の巡回は止めます。少なくとも二人一組で、しかもほとんど常に他の誰かの視界に入るようにしなくては。古い給料帳簿を見直したところ、あなたのお祖父様の時代から次第に衛兵の数が減ってきている事が判りました。当時は少なくとも今の倍の数がいたようです」

「年輩の部下と話をしてようやく判りましたが、前の衛兵隊長は傭兵隊が押し入って、あなたのご家族ほとんど全てを殺害したあの事件の後でさえ、何も変えなかったそうです。そして我々は、それと同じ巡邏方法、疑う余地無く明らかに欠点があると示された方法を未だに使っている。私は……前の隊長が亡くなって衛兵隊長となる前に、もっと良く話を聞いておくことが出来ていたらと思います。私はようやくこの仕事がどのくらい重いか判り始めたところで、適切に行う方法を知りません‐この地位は棚ぼたで私に落ちてきたようなものです、ご存じの通り」
彼はそう付け加えた。彼の顔は少しばかり恥じているようだった。「努力してこの地位に着いたのではありません」

セバスチャンは彼の方を見て頷いた。
「さて、今までやって来たやり方が間違いだったとして、お前までまた同じ間違いを繰り返すとは思えないな。これまでの働きには満足している。だから私がお前を首にしようと思っているなどとは考えるな、セリン隊長。部下の数を増やして訓練を施すための計画書と、彼らの給与、宿舎、装備、その他諸々についての予算書を作成するように」と彼は言った。
「雇い入れる方については直ちに許可しよう。しかし増やさねばならない数から考えると、訓練を受けていない男達を一度に雇い入れるより、少しずつ時間を掛けて数を増やす事を考えた方が良いだろうな?」

「はい、殿下。一時に数名ずつがよろしいでしょう」とセリンは同意した。
「もしも軍隊での経験があるような男を雇えれば、それも助けになるでしょう‐彼らは武器の取り扱い方と、巡邏と立哨については知っているでしょうから。それにしても、我々が本来あるべき姿に戻るまでには、しばらくの間時間が掛かると思います」

セバスチャンは頷き、別れの挨拶をすると、馬屋を通り抜けて近道をする事にした。その途中で彼は足を止め、馬房にいる馬たちを感心して見つめ、時折鼻先を撫でてやった。

本当に、定期的に馬に乗るようにしなくては。収穫祭の時に少しばかり馬で旅をしただけでどれ程辛い事になったかを思い出して彼はそう思った。乗馬に慣れていた昔に戻らなくてはいけなかった。とは言うものの、最近のごたごたとアンダースの健康問題が片付くまでは待たなくてはいけないだろうが。

彼は格段に素晴らしい鹿毛の去勢馬の側で立ち止まると、馬房の扉の上から頭を出して彼の匂いを興味深げに嗅ぐ馬の、温かな鼻先を優しく叩いてやった。その時隣の空の馬房で、何か動く物が彼の注意を引いた。馬屋で飼われている猫だ、彼はそう気づいた。雌猫と未だ小さい子猫の一群が、皆長い脚と気違いじみた活力で、藁の中で遊び回っていた。彼は馬房の開いた扉の近くに立つと、屈み込んで片手を出してみた。馬屋の猫たちは大体野性的で警戒心が強かったが、それでも特に子猫の間は時折親しげな、あるいは好奇心旺盛な様子を見せる事があった。子猫のほとんどは藁の中に潜り込んで彼を疑わしげに観察し、もし危険と判れば即逃げ出す用意をしていたが、そのうち彼の指の臭いを嗅ぎに二匹がやって来た。

彼は笑みを浮かべ、それからアンダースが描いた幾頁もの猫のスケッチを思い出した。間違い無くあの男は、この小さな獣に愛着を持っている様だった。
「どれか一匹、彼に持って帰ってやろうか」と彼は静かに言った。
「ひょっとすると興味を引くかも知れない」

彼の側に来た二匹の内、一匹は彼の声に驚き逃げ去ったが、別の一匹はしばらく身を伏せて一瞬驚いただけで、また立ち上がると片足を彼の膝に掛け、もう一方の足は胸の前で曲げて、興味深げに再び彼の匂いを嗅いだ。

セバスチャンは低い笑い声を漏らした。
「それで、お前が立候補するというわけか?」と彼は聞くと、ふと思いつきでその子猫を持ち上げ、手に持ったまま立ち上がった。怖がって飛び降り逃げ去るかと彼は思っていたが、予想に反して子猫は興味津々の様子で彼を見ると、手の中で喉を鳴らした。彼は猫をしげしげと眺めた。雄猫で、大きな緑色の目と先端だけ黒く色が付いた銀灰色の毛皮をしていた。猫の中でも可愛らしい子猫のようだった。唐突に、彼はこの猫をアンダースのところへ連れて行こうと決めた。何にせよ、害にはならないだろう。


彼が居室に戻った時、シスター・マウラはちょうど立ち去ったところで衛兵が彼に何時彼女が戻ってくるかを告げた。彼女はメモをテーブルの上に残していて、アンダースがどれだけ食べたか‐やはり十分にはほど遠い量‐と、最後に排泄したのは何時かを書いていた。それを読みながらセバスチャンは微かに歪んだ笑みを唇に浮かべた。彼の一生の間に、アンダースの消化器官の状態が、どれ程微かではあっても彼の興味を引く事柄になろうとは考えたことすら無かった。

そこから連想して、彼は胸に抱えた灰色の毛皮の子猫を見ると眉をひそめた。
「トイレの方は上手くやってくれよ、おい」と彼は猫に言った。
「もうこれ以上汚れ物を増やすのはごめんだからな」

彼は猫を寝室へ持って行った。いつの間にかアンダースは再び背中を下にして横たわっていた。男は目を閉じていて、セバスチャンはひょっとすると彼が眠っているのかもと思ったが、本当に眠っているにせよ、単に横になって目を閉じているだけにせよ、実際ほとんど違いは見られ無かった……彼は溜め息をつくと、子猫をベッドの端に置いた。子猫はしばらくの間そこで動かずじっとしていたが、やがてアンダースを見るとそっと彼の方に忍び寄り、頭を伸ばして興味深げに彼の手の匂いをフンフンと嗅いだ。それから頭の方に徐々に移動し、合間合間に身体の匂いを嗅いではしげしげと眺めた。子猫はアンダースの顔の横に一度頭突きをすると、それから枕の側で数回回り、背中を彼の首と肩の間に押しつけ丸くなって目を閉じた。満足げにゴロゴロと言う音が微かに聞こえてきた。セバスチャンは短く笑うと、部屋から出て行った。

夕食の後、彼はアンダースに食事を与えるために寝室に戻ってきた。ベッドに向かう途中で、彼の足は突然止まった。子猫はアンダースの胸の上に居て、前足を身体の下に折りたたみ、頭を上げたまま半眼を閉じていた。アンダースの手が、子猫の後半身を抱えていた。今の夢遊状態に陥ってから初めて、彼は自ら身体を動かした。

セバスチャンが眼を覚まさせようとしても、やはり反応は示さず、苦心して手ずから食べさせる必要があったが……それでも最悪の状態は脱したように思われた。初めて、セバスチャンはメイジが今の状態から本当に回復出来るという希望を持ち始めた。


日本語では馬は馬だけど、英語では(去勢されていない)雄馬、雌馬、去勢馬、子馬それぞれに固有名詞があるのは有名な話。無理矢理日本語にすると「黒毛でたてがみが巻き毛の去勢されていない雄馬」(Stallion with black-curled hair)とかやけに説明臭くなるので、適当に端折ることにする。

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