第13章 少女

風呂に入って頭のてっぺんから足の先まで綺麗になるのは、実に良い気分だとフェンリエルはしみじみと思った。フェンリスが、彼の部屋にある服の中から何枚か貸してくれて、身体だけでなく服の方も綺麗になった。エルフの部屋には、美しい服がぎっしりと詰まったクローゼットがあり、どれも高価な布地で、手の込んだ刺しゅうや美しい細工が施されていた。

「セバスチャンからの贈り物だ」とフェンリスは、これといって気に掛ける様子も無く言った。
「彼と会う時に、服装で気後れするような事があってはいけないと言ってな。ここに全部残してある。旅の間に着るには上等すぎる」

フェンリスの続き部屋も、服と同じくらい上品かつ上等な設えで、壁とタペストリー、カーペットにベッドは全て明るい青と緑、そして淡いクリーム色の色調で整えられ、そこここに置かれた繊細な木製のテーブルや椅子は濃いクリーム色をした、樺かトネリコのようだった。城壁の銃眼の上下に彫り込まれた、深い大きな縦長の窓から差し込む日差しが、彼の居間と寝室を明るく照らし出していた。

驚いたことに浴室にも一組の細い窓があって、メイジがこれまで見たこともない程大きな浴槽に、ドワーフが技巧を凝らした配管設備から湯が注ぎ込まれた。フェンリエルはその浴室をもっとゆっくりと眺めて、棚に並ぶ様々な石けんや浴槽に落とす香油を試してみたいと思った。だがフェンリスが当然先に浴室を使って、その間メイジは居間に並んだ本棚を大いに関心を持って眺めた。テダスの地図や旅行記だけでなく、用兵、薬草学、魔法に関する本まで実に幅広く、興味深い本が集められていることに彼は気付いた。
フェンリスが浴室から出てきた時にはもう半時間ほどしか残っておらず、フェンリエルは慌てて風呂を使うと身体を拭き、フェンリスから借りた服に着替えて、それからセバスチャン・ヴェイル大公の私室で昼食を取るために、エルフの後に付いていった。

大公の私室は、フェンリス自身の部屋からそれほど離れてはいなかった。これほど近くに部屋を与えること自体、大公がこのエルフに大いなる信頼と高い評価を与えている証拠と言って良かった。衛兵達は何も聞かず彼らを通した。表の扉の奥は、美しく飾られた小さな待合室だった。そしてその奥に更に扉があり、大きなアーチ状の通路が大公の居間へと通じていた。

すぐ側の扉が開き、召使いが一人出てきた。彼はフェンリスを見るやいなや深々と頭を下げた。
「食事はただいま準備中です、サー・フェンリス――セバスチャン様は書斎におられます」

「ありがとう」とフェンリスは男に頷いて見せ、大きな暖炉の反対側にある部屋へ向かうと、一度軽くノックして、返事を待つ間一瞬待っただけで扉を押し開けて中へ入った。

居間に比べれば小さな部屋で、正面奥の窓際に、高々と本と書類が積み上げられた大きな机があった。片方の壁は本棚に埋め尽くされ、もう一方は小さな暖炉と、ゆったりとした背の高い椅子が並んでいた。大公はその一つに腰掛けて片手に大きな本を持ち、その膝には幼い少女が座っていた。多分4才か5才だろうか、愛らしい黒髪の巻き毛に色白の肌をして、鼻梁にそばかすがぽつぽつと浮かび、濃い緑色の目をしていた。エルフの姿を見た彼女の顔に、喜びに満ちた笑顔が浮かんだ。

「フェン!」と彼女は甲高く叫び、セバスチャンの膝から滑り落ちてエルフの足下に飛び込んだ。

「ちびちゃん!」と彼も声を上げると、彼女を抱え上げて温かく抱きしめ、それから彼女の身体を腰に当てて片腕を廻し、その場所に落ち着かせた。彼女は両腕をフェンリスの首に回し、信頼に満ちた目で彼の顔を見上げていた。
「俺が居ない間良い子にしてたかな?」と彼は温かく彼女に笑い返した。
「セバスチャンに面倒は掛けていなかっただろうね。それと君の乳母にも!」

セバスチャンは本を横に置き、二人に温かく笑いかけながら立ち上がった。
「実際、彼女は最近随分良い子にしていたよ」

「メイカー!一体どうやったんだ?賄賂を贈ったとか?」とフェンリスは驚いたフリをして尋ねた。

セバスチャンはニンマリと微笑んだ。
「うむ、ひょっとすると、子猫が絡む賄賂かも知れない」と彼は重々しい口調で言ったが、彼の口の片隅にはえくぼが浮かんでいた。

フェンリスは鼻を鳴らして、少女に向かって厳粛に顔をしかめて見せた。
「ならば彼は、最高の子猫を君に与えなくてはな、ベサニー。さもなければ俺にも考えがあるぞ!」

少女は両腕を組み、口を尖らせて深々と頷いた。その姿にセバスチャンは声をあげて笑いだし、フェンリスも笑顔になった。フェンリエルも、微笑んでいる自分に気が付いた。

どこか近くで優しいベルの音が鳴った。
「昼食の用意が出来たようだ」とセバスチャンが言って、扉の方に手を振った。
「冷めないうちに席に着くとしよう」

フェンリスは頷き、ベサニーを床に降ろした。彼女は即座に扉に向かって掛けだし、スカートが背後ではためき、大人達はよりゆっくりとした歩調で後に続いた。彼女は皆が居間に入る頃には既に席に着いていて、年配の男性の召使いが重たげな銀の蓋を持ち上げ、大皿の中身を彼女に見せていた。彼女は嫌そうな顔をして頭を振った。男は蓋を降ろすとまた別の蓋を持ち上げ、今度は少女はにっこりと微笑んで頷き、召使いが注意深く皿の中身をひと掬い、彼女の皿に取り分けた。

「少し野菜も食べさせるように、ウレン」とセバスチャンが少女と向かい合う席に座りながら召使いに向けて言った。フェンリスは彼の右側に、そしてフェンリエルは最後に残った大公の左の席に座った。
愕然とした表情を浮かべた少女に向けて、セバスチャンは「さもないと子猫は無し」と言った。彼女は溜息を付いたが、召使いが先ほど閉じた蓋から豆と野菜をひと掬い、彼女の皿に載せた時にも不平は言わなかった。

ベサニーの皿を盛りつけた後で、召使いは礼をして立ち去り、セバスチャンとフェンリスはそれぞれ大皿から自分で取り分け始めた。フェンリスはフェンリエルにも、同じようにするよう示した。

「他に誰も居ない時は、私達はごく気軽に食事をすることにしている」とセバスチャンはフェンリエルに言うと、フェンリスの方に振り向いた。
「それで、最後にここに来てから君は一体何をしていたのかな?今回戻ってきたのは何の用で?」

「色々あるが」とフェンリスは言った。
「ここを出た後で、俺はしばらくあちこちを訪ねて歩いた。まずマイナンター河を船で河口まで下り、バスチオンへ向かった。たまたまそこで、俺達の古い友人と出くわした」と彼は言って、ワイングラスを掲げながら微笑んだ。

セバスチャンはニンマリと笑った。
「当てて見せよう――イザベラだろう?」

フェンリスは頷き、ワインを一口すすった。
「まさに。彼女はしばらくの間、彼女の船に乗るように誘ってくれた。それから数ヶ月の間、彼女と共に旅をした。リアルト湾で、アンティーヴァとリヴァインの間を行き来していたが、一度はグワレンまで足を伸ばして、それからまたウェイクニング海の西奥深くまで入った。彼女はカンバーランドで大量の木材を積み込んだが、その下にはオーレイ海軍の目を盗んでネヴァラへ届ける約束の、大量の武器を隠していた。ネヴァラとオーレイの国境紛争が、また激しくなっていたからな。その後でなら、どうにかしてネヴァラの貴族から私掠免許 1を掠め取れるだろうというのが、彼女の目論みだった。俺は武器の密輸にも、海賊にもあまり興味は持てそうになかったし、それにどことなく身体に不調を感じていて、彼女がオーレイ海域へ入る前に補給を済ませるために立ち寄った、ハイエヴァーの街で降りることになった」

フェンリスは一瞬思いに沈む様子で顔をしかめた。
「俺の好みよりずっと寒いことを除けば、興味深い国ではあったな。俺はカレンハド湖まで足を伸ばし、アリスター王が再建したという、そこのサークルを眺めた後で引き返した。それから東へ向かって、首都デネリムから北へ戻る船に乗ろうと思っていた。だがその時には、既に身体の各所に痛みを感じるようになっていた」
彼はセバスチャンを見つめて静かな声で言った。
「俺のリリウムに、毒性を発揮させないようにしていた魔法が、消えかけていた」

セバスチャンは青ざめると顎を引いた。彼は大きく息を吐き、不安げに話し出した。
「消えかけていたというのは……今は、もう良いのか?それとも今でも……」

「もう今は違う」とフェンリスは頷いて、フェンリエルの方に振り返った。
「彼のお陰だ。俺がカークウォールに辿り着いた時には、俺は死にかけていた。アヴェリンとドニックが俺を迎え面倒を見てくれたが、その時は皆、これで最後だろうと思っていた。それからフェンリエルが俺の元にやって来て、身体を癒してくれた。彼は命の恩人だ」

セバスチャンはフェンリエルに振り返った。
「ならば私も、君に恩があることになるな。我が友フェンリスに、私は言葉では言い表せないほどの恩義を負っている。その彼の命を君は救ってくれた。もし君に対して何か出来る事があるなら、言ってくれ。私の力の及ぶ限り成し遂げよう」

フェンリエルは彼の真摯さに、少しばかり圧倒されるものを感じて顔を赤らめた。
「僕はただ、出来ることをしただけだよ、フェンリスが僕を助けてくれたお返しに」

「いずれにしても、私の言葉は変わらないよ」

「まだ話はある」とフェンリスが口を挟んだ。
「君がフェンリエルの名前を覚えているなら……彼の特別な力も覚えているだろうか?あるいは、ホークはその件は言わなかったか?」

「いや、覚えている」とセバスチャンは慎重な口調で答えた。

「俺はそのことを、ここしばらくの間考えていた。あるいは、彼はアンダースの心をいくらかでも、あるいは全て癒せるかも知れない。夢を通じて彼の心を取り戻し、どうして彼がトランクィルに対抗したかを説明出来るようになるまで。そして果たして、その方法でホークを癒せるかどうかも」

セバスチャンは凍り付いたように動きを止め、やがて一抹の希望を顔に浮かべて、フェンリエルに向き直った。
「本当に、そんなことが出来るだろうか?」

「まだ判らない」とフェンリエルは認めざるを得なかった。
「フェンリスからその話を聞かされたのは、ついさっきのことだから。少し考えてみないといけない、色々試してみないと……だけど少なくとも、やって見て害にはならないと思う」

セバスチャンは突然立ち上がり、数歩食卓を離れると彼らから背を向けると、長い間黙っていた。フェンリエルは彼の肩の緊張と、きつく握りしめた震える手を見ていた。
「もし……もし君がマリアンを癒せるとしたら、私は何でもしよう」と彼はやがて、ひび割れた声で言った。

「どうしたの?」とベサニーが不穏な空気に怯えるような声を上げて、フェンリスとセバスチャンの背中を見比べた。

「何も無いよ、ベス」とフェンリスは優しく、安心させるように微笑んで彼女に言った。
「何も気にすることはない。この話は後にしよう」と彼は、不安げな少女を慰めようと急ぎ足で食卓に戻ったセバスチャンに向けて言った。

「ああ……後にしようか」とセバスチャンは努めて明るい声で言うとすぐに話題を変え、次の日にベサニーがフェンリスに着て見せるつもりの、ひときわ可愛らしいドレスと、どんな子猫が良いかについて話を続けた。ベサニーはすぐに機嫌を取り戻し、とりわけセバスチャンが彼女にデザートを特別に二回取り分けてくれた後では、上機嫌で笑い出した。その後乳母がやって来て彼女を自室に連れ戻った。セバスチャンはまだ仕事が残っていたが、別れ際に今日の夕方、この話の続きをすると約束していった。フェンリスとフェンリエルは二人ともずっしりと疲れを感じていて、少し休むためにエルフの部屋に戻った。

「あの少女――彼女はホークの娘か?」とフェンリエルは、部屋の中で二人だけになった後で、勇気を振り絞って尋ねた。

フェンリスは溜息を付いた。
「ああ」

「それで……父親は…」

「セバスチャンではない。俺達はその男が、あの日、俺かセバスチャン、あるいはアンダースが殺した内の一人だったという以外は知らない」とフェンリスは言うと、窓際に歩み寄り、長い間外を見つめていた。
「彼女が妊娠していることが判った後で、セバスチャンはホークに、子供を生かしておくかどうか望みを聞いた。彼女は、妊娠を故意に終わらせるのは危険を伴い、子供の命は失われる、そのような事をする理由は無いと答えた。トランクィルである者から、それ以外の回答が戻ってくるはずも無いことを、俺達は予想しておくべきだっただろうな。彼女の名付け親はホークで、産まれた後しばらく彼女はベサニーの面倒を見さえしたが、だが……当然ながら、彼女が真の愛着を娘に覚えることはない」

彼は再び黙り込んだ。もう話は終わったのかとフェンリエルが思った後で、唐突にエルフは、ささやきよりも僅かに大きな声で言葉を継いだ。
「結婚した後も子供は持たず、セバスチャンの後継ぎにはまだ生き残っている遠戚の中から養子を取ると、二人はそう決めた。彼女の人生で一家に起きた苦難の後では、彼女自身に色濃く流れるメイジの血脈を、呪いを、ヴェイル一族に流し込む事は望まなかった。セバスチャンはベサニーを、彼自身の娘であるかのように愛し、育てている。だが彼女は跡継ぎではない。もし――いつか――ホークが回復した時に、ベサニーのことをどう思うか、俺には判らない。彼女にとって、別の苦痛の種とならない事を願うだけだ。もう彼女は充分過ぎるほど、辛い目に会っている」

その後は彼は何も言わず、ただ壁に深く彫り込まれた窓辺に座って壁にもたれたまま、静かに外を見つめていた。

Notes:

  1. 戦争中に限り、この免状を持つ民間船は敵国の船を自由に攻撃・拿捕できるという、近世の習慣。有名なのがイギリス海軍のドレーク提督で、彼は元々この免許を持った『合法的な海賊』だった。
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第13章 少女 への4件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    登場人物みんな可哀想ってどんなん(´・ω・`)

    ところで遅くなりましたが一発描いてみましたw
    というかちょっと前に描きあげてたのに、ウィスプさん
    光らせるの忘れてて慌てて加工したww

    http://emanonix.tumblr.com/post/49442081949/in-dreams-by-msbarrows

  2. Laffy のコメント:

    30kmの渋滞を乗り越え帰って参りました><
    ま、途中のPAで寝てたから厳密には巻き込まれてないけどw

    うひょひょひょ(^.^)ありがとうございます!この前の途中っておっしゃってた絵の完成版ですね。
    これ、ここのお約束のと張り替えてもよろしゅうございますか?

    >>登場人物みんな可哀想ってどんなん(´・ω・`)
    まあそれを言うとDA2本編もそーなんで(´・ω・`)
    でもホラもうじき脇役は幸せになる予定でっ!フェンリスも多分幸せですっ!
    ここに登場するクースランドはいい人だ。うむ。

  3. EMANON のコメント:

    >これ、ここのお約束のと張り替えてもよろしゅうございますか?

    ああもお煮るなり焼くなり炒めるなりLaffy様のお好みでwどうぞw

  4. Laffy のコメント:

    わああいありがとうございます(^.^) 早速差しかえed。

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