第12章 悲嘆

フェンリエルはその場に凍り付いて、目を見張っていた。ホークの平静な視線が、フェンリスから彼の顔に移った。彼女の表情は、一切変わらなかった。好奇心も、疑いも、驚きもなく、彼を見ると言うより彼を通して背後の壁を見ているようだった。彼女の視線は、再びエルフへと戻った。

「こんにちは、フェンリス」と彼女は、奇妙に平坦な調子で言った。トランクィル特有の抑揚のない口調だった。そして彼女は振り向き、ふたたび彼を見た。
「こんにちは、フェンリエル」

「ホーク」とフェンリスは再び、ひどく優しい声で言って一歩前に進んだ。
「元気だったか?」

「元気でした」

daisy「今は何をしているのかな?」とフェンリスは尋ねると、彼女の刺しゅう枠を覗き込める所まで近づいた。フェンリエルも数歩近づいて、同じくその枠の中身を見た。花の模様だった。デイジーだろうか、深い緑色の生地に、白とクリームと黄色の糸で精緻な模様が描き出されていた。

「別のクッションです」

「もう沢山有るようだが」とフェンリスが言って、部屋を見渡した。

「こうすれば私の手を忙しくしておけます。私が使わなくとも、誰か他の方が使うと思われます」

フェンリスは頷き、彼女の側で片膝を着いて屈み込むと、両手首を膝に休めて彼女の顔を探るように見上げた。彼女は、全く感情の動きを見せず、平静な顔で彼を見返した。

その平静さに、フェンリエルは肌がぞっと粟立つのを感じた。その感情の欠如に。これは、彼の姿だったかも知れなかった。もしカークウォールでの出来事が、少し違ったように進んでいれば。そしてそうなったのは、たとえ短い間だったにせよ、彼と深く関わった人物だった。彼女の笑顔を、考え込む様子を、怒りの表情を、鋭く計算を巡らせる顔を、そして怯える顔さえ、彼は見たことがあった。決然たる様子。愉快そうな表情。

それら全ての感情が、彼女らしさを作っていた全てが……消し去られていた。

フェンリスは何も言わず、ただそこに屈み込んで、じっとホークの顔を見つめていた。ホークはしばらくして振り向き、まるで彼らがそこに居ないかのように刺しゅうを再開した。まるで、彼らが単なる家具と何ら変わりない物であるかのように。あるいは、それは真実だったかもしれない。

フェンリスがようやく立ち上がって彼女に背を向けた。
「行こう」
彼はしわがれた声で言うとフェンリエルに先立って部屋を出、背後でそっと扉を閉めた。

「少し待ってくれ」と、彼らが廊下に出た所でフェンリスが言い、数歩メイジから離れた。彼はただそこに立って何も言わなかったが、その肩の微かな震えと、時折鼻をすすり上げる音に、フェンリエルはエルフが出来る限り静かに泣いているのが判った。
それを見た彼の胸も、突き刺すように痛んだ。エルフのために、そしてホークのために。彼女はもはや、誰かが彼女のために泣いているということを気にも掛けないだろう、そう知っていても。

やがてフェンリスは、彼の頬を手の甲で拭うとフェンリエルに振り向いた。
「こっちだ」と彼はさび付いた声で言った。
「他にも、会っておきたい者がいる」
フェンリスは今度は階下へと降り、一階の曲がりくねった廊下を通って広々とした厨房に入った。数多くのコックと助手の少年少女が忙しく働き、昼食の準備に掛かっていた。フェンリスは平然とした様子でその中に入り、幾人かのコックに頷いて挨拶を交わすと、通りがかりに甘パンを二つ、テーブルの上から取り上げ、一つをフェンリエルに手渡して、更に三つ目を取り、部屋の反対側の扉へと彼らを導いた。

彼らが朝食を取ってからもうかなりの時間が経っていたし、甘パンはまだオーブンの熱で温かく、心地よいスパイスの香りが立ち上っていて、上面には砂糖と蜂蜜の衣が掛かっていた。また別の階段を下りながらフェンリエルは一口かじり、砂糖漬けの柑橘類の皮が練り込まれた生地の、豊かな風味を楽しんだ。
彼はフェンリスが、一体どこへ向かおうとしているのかと不思議に思った。地下室のどこかなのは、間違い無さそうだったが。ひょっとするとこの辺は半地下というのが正しいかも知れないと、いくつかの扉を通り、更に別の階段を下りながら彼は考えていた。

その下はひんやりと冷気が漂い、ほとんど寒いと言っても良いくらいで、ひどく静かで、騒がしい台所の音も既に消え去っていた。そして暗かった。階段にはランプがともされていたが、この部屋の中の明かりと言えば、フェンリスが入る前に火を移した松明だけだった。エルフは松明を頭上にかざし、べたべたする甘パンを二つ、反対の手に抱えていた。
その部屋はまるで洞窟か地下の聖堂のようで、巨大な柱が幾本も建ち並び、頭上の石で出来たアーチ型の天井を支えていた。狭い廊下が幾本も放射状に伸び、その隙間を大量の木箱や袋、あるいは樽が埋めていた。何が入っているのかは判らなかったが、どうやらここは城の備蓄庫のようだった。フェンリエルはエルフが先に行ったのに気が付き、慌てて後を追いかけた。この静けさと暗闇の中で取り残されるのは、どうにも気が進まなかった。

フェンリスは唐突に立ち止まると、一歩脇へ逸れ、側の巨大な柱に取り付けられた鋳物製の松明掛けに松明を置いた。
「ここで待っていろ」とフェンリスは静かに言った。
「彼は見知らぬ者には、危害を及ぼすこともある」

「誰が……?」とフェンリエルは聞いた後、ただ黙ってフェンリスの裸足の足が、彼らを取り囲む物品の間の狭い通路を、更に奥へと進んでいくのを見守った。エルフは少しばかり先の、光の届く範囲ぎりぎりの所で立ち止まった。揺らめく青い輝きが突然彼の周囲に現れ、彼がリリウムの紋様を発動させたことを示した。

「俺だ」とフェンリスは声を挙げ、そして待った。

しばらくの間何も怒らなかった。やがて、フェンリスの更に向こうの、暗闇の中で何かが動く物音がした。布の擦れる音、床を擦る足音。

「食べ物を持って来た」とフェンリスは再び、穏やかに話しかけるような口調で言うと、数歩フェンリエルの方へ、明るい方へと後ずさった。片手に甘パンを持ち、もう一方の手で別の一個を口に運ぶと、一口かじってかみ砕き、飲み込んだ。
「これは旨いぞ」と彼は、優しい声で言った。

フェンリエルの目に最初に入ったのは、松明を反射して暗闇の中に光る二つの目だった。それから、光が届く範囲のすぐ外側で、ぼんやりと人影が見えた。フェンリスは辺りを見渡し、側の樽の上に甘パンを置くと、更に数歩フェンリエルの方へ下がり、彼らの側にあった木箱に向かって手を振った。
「座っていろ」と彼は命じると、再び注意を近寄る人影へと戻した。

長い間日光を浴びていない肌に特有の、ロウのように透き通って青ざめた顔が見えた。その顔に垂れかかる、伸び放題の金髪の背後から、ギラギラと光る目が覗き、顔の下半分はモジャモジャと髭に覆われていた。その人影は、やせ細った肩の廻りに毛布を引っかけて全身を覆っていて、頭と足先だけが毛布の外に出ていた。男性だろう、その長身と姿勢からフェンリエルはそう推測した。そこに立って彼らを不安げに見つめる男は、まるで野生動物のように今にも逃げ出しそうだった。それから彼は一つ瞬きをすると、少しばかり背筋を伸ばして、光の方へ近づいた。

フェンリエルはようやく、この男が誰だか気付いた。ホークの仲間の、もう一人のメイジ。彼を奴隷商人の手から奪い返し、フェイドから救出してくれた男。
「アンダース」と彼は小さな声で言った。

「ああ」とフェンリスは同様に静かな声で答えたが、彼の眼は男から離れることなく、まるで近寄っても大丈夫だと宥めるようにじっと見つめていた。

全身を覆った毛布の中から、手が一本突き出た。その手は外観も、動き方もどこか奇妙だった。甘パンを取り上げる間も、無様にこわばった不器用な動きをしていた。アンダースは甘パンの匂いを嗅ぎ、そして口に運んだ。彼は嬉しげな言葉のない音を立てると、ほんの数口で半分を飲み込み、それから落ち着いてゆっくりと噛み始めた。

「もう一つ有るぞ」とフェンリスは静かに言って、彼の囓ったパンの半分を差し出した。

アンダースは不安げにフェンリエルに目を向けて、それからにじり寄った。ちょうど手の届く範囲の外側で男は立ち止まると、ゆらゆらと頭を動かして彼らの顔を見比べた。髪の毛がその動作で動き、男の額が露わになった。フェンリエルは驚愕のあまり息が止まった。その額には、トランクィルの焼き印が、それも一つどころではなくいくつも見えた。しかしそれでも……男の顔には、様々な感情があった。彼は、トランクィルでは無かった。

「これって……一体彼に何があったんだ」とフェンリエルは、驚愕と恐怖の交じった声で尋ねた。

「待て」とフェンリスが言った。
「すぐに説明する」
彼は甘パンを持った手を振って、メイジの方へと差し出した。アンダースは突然飛び跳ねるように近づき、彼の手からパンを取ると、フェンリスの足下の床にしゃがみ込み、二つ目のパンをゆっくりかじりながら、二人をしげしげと見つめた。

フェンリエルも、男の様子を近くからはっきりと見ることが出来た。彼の奇妙な手は、どこかの時点でひどく傷つけられ、潰され、折れ曲がっていた。掌は歪んで固着し、指はねじ曲がり、全てを曲げることは出来ないようだった。彼が見守るうちにも、メイジはもう片方の手を、毛布の下から滑り出させて――この手も、最初の手と同様歪んでいた――フェンリスの膝に置いた。エルフはその手を彼の両手に取って包み込むと、メイジの顔を何も語らずにしばらく見つめていた。

やがて、フェンリスは溜息を付いてフェンリエルの方に向き直った。
「カークウォールでの出来事に端を発した、長い、痛ましい話だ。ホークがそこに居たのは知っているな。君はセバスチャンと会ったことは無かったと思うが。彼はチャントリーのブラザーで、ここの大公一族だった家族に、追放されたようなものだった。それから、彼の一族全員が殺され、その復讐の過程で彼はマリアン――ホークと出会った。彼女が代わりにその復讐を成し遂げた。それから二人は友人となった、とはいえ、共にいる時間の半分以上はチャントリーや、メイジや、あらゆることについて激論を交わしていたが」
フェンリスの顔に、微笑み未満の表情が浮かんだ。

「それから二人は、奇妙な事に、激しい恋に落ちた。二人にとってはひどく厄介な話だった。彼女はアポステイト・メイジで、彼はチャントリーの一員としてその生活に留まりたいという欲求と、スタークヘイブンに戻り大公位を継ぐという義務の間で引き裂かれていた。だが結局の所……二人は離れて過ごすのは耐えられないということで同意し、セバスチャンはスタークヘイブンに戻って正当な大公位を取り戻して、それから彼女と結婚するという計画を立てた」

フェンリスはそれから長い間押し黙り、再びアンダースの方を向いた。
「有る事件が、起きるまではの話だ」と彼はようやく、ひどく小さな声で言った。
「アンダースが、カークウォールのチャントリーを爆破した」

フェンリエルはハッと息を飲んだ。彼はそこがメイジによって破壊されたという噂を耳にしていたが、詳細を聞いたことは無かった。その時の大騒ぎを、マジスター達が楽しげに噂していたのを彼は思い出した。

「セバスチャンが母とも思っていた大教母も、その爆発で死んだ。彼は激怒と悲嘆のあまりアンダースの死を求め、ホークはそれを拒絶し、そしてセバスチャンはその場を去った。そのことを、彼は今に至るまでずっと後悔している、なぜ彼女の側に留まらなかったのかとな。ホークはアンダースを立ち去らせ、数少ない生き残りのメイジ達を守るために、その長い夜を戦い抜いた。そして最後には、リリウムの毒に犯され狂気に陥ったメレディス騎士団長を倒したが、俺達も皆その後でカークウォールから逃げざるを得なくなった。俺達は離ればなれとなり、俺はここへ、スタークヘイブンへ来た。セバスチャンは俺がカークウォールに居た時代に、本当の友人だと思った数少ない人々の一人だった。それで俺は、彼が大公位を奪い返すのを手伝った」

エルフは溜息を付き、前屈みになると、俯いて背中を丸めた。
「彼はずっとホークを愛していた。大公位の件が片付いた後で、彼は俺と数名の衛兵を連れてホークを捜しに向かった。彼女と思われる人物が、ここより南東の、マークハムの近くに居るという知らせがあって、俺達はそこへ向かった」

長い、長い沈黙。アンダースが微かな喉音を立て、フェンリスの握りしめる手の中で彼の手がぴくりと動いた。エルフは再び溜息を付いた。
「だが遅すぎた。彼女はどこかの時点でアンダースと再び遭遇し、二人で共に逃げていたようだった。そしてテンプラーが彼らを捕まえた、俺達が彼らに追いつく、ほんの1日か2日前に。あれは……酷い有様だった」
彼の声はしわがれ、アンダースの手をきつく握りしめていた。再び彼が話しだした時、その声はこれから語る内容の意味を考えまいとするように、抑制された、感情の一切こもらない淡々とした口調に変わっていた。悲嘆と苦悩、怒り、それら全てに押し流されまいとするように。

「テンプラーが彼らを捕まえ、サイレンスを放って魔法を使えなくした。アンダースを縛り上げ、彼の眼の前でホークを暴行し、それからトランクィルとした。彼はその時に拘束を引きちぎって、それを止めようと彼らに襲いかかり、少なくとも一人を殺し、何名かのテンプラーを負傷させた。連中は彼に再びサイレンスを放って縛り上げると、彼もトランクィルにしようとした。だが、効かなかった。彼は再び何もかも引きちぎり、彼らを襲った。連中は彼をどうにか押さえつけ、再びトランクィルの儀式を行った。しかし、何の違いもなかった。
なぜ連中が、その場でアンダースを殺さなかったのかは判らないが、恐らくは彼をヴァル・ロヨーへ引き立て、見せかけの裁判に掛けて処刑するつもりだったのだろう。それとも殺そうにも殺せなかったのか。ともかく連中は恐れをなした。それまで失敗することなど無かったのだからな。そして、三度目も効かなかった」

フェンリスがアンダースの手を握りしめる力を緩めると、メイジはその歪んだ手で彼の膝をハタハタと叩いた。
「それから連中は恐慌状態に陥ったようだ。彼らはテンプラーのやる事とも思えない、ひどく愚かな行動を取った。魔法を掛ける仕草が出来ないよう、アンダースの指を折り掌を潰した。魔法の言葉を呟けないよう、舌を切り落とした。実際には、それらの行いには何の効果もない、魔法は意志の力によるもので、まじないの仕草や呪文ではない。彼らはアンダースの動きを止め、何度も魔法の力を抜き去ったばかりか、力の限り殴り、痛めつけ、幾度もトランクィルの処置を繰り返した。彼の身体と心を徹底的に破壊し、もはや如何なる方法でも、彼らに立ち向かう行動が取れなくなるまで」

彼は深い、震える息を付いた。
「その後で、俺達がその場に到着した。あの瞬間を、血に染まったあの洞窟の惨状を、俺は二度と忘れる事はないだろう。ホークは……まだ縛られたまま、部屋の隅で人形のように転がっていた。その傍らでテンプラー達が、泣き叫ぶ血まみれの、かつてアンダースだったものを取り囲み、連中もアンダースへの恐怖にほとんど正気を失って、口々に悲鳴を上げていた。俺はむしろ、彼がまだ生きていたことに驚いた。セバスチャンは……彼自身ホークの有様を見た時、平常心を喪った。俺も、まあ似たようなものだった。俺達はテンプラーを、立っていた者も傷ついた者も、全て殺した。一人だけ、すでに死にかけていた男を除いて。そこで何があったのかを俺達に白状した後で、彼も死んだ」

フェンリスは片手を伸ばして、軽くアンダースの額に触れた。
「君は知らないだろうな。俺は、彼が大嫌いだった。アンダースと俺は一度も友人だったことはない。俺はその場で、悲惨な苦しみから彼を解放するつもりだった。だがセバスチャンは……彼の中に、一筋の希望を見いだした。トランクィルの儀式は彼には効かなかった、一度だけでなく、幾度も。ならばこの壊れた、アンダースの殻の中に、何かホークを元の姿に戻す術が見つかるかも知れない。それで俺達は、二人をここへ連れ戻って治療した、少なくとも肉体的には。
かつて俺達が互いに憎み合っていたのを考えれば、随分奇妙な話だが、当時のアンダースが怖がらない人物は俺だけだった。彼はまだ魔法が使えたが、それは怯えた犬が噛みつき、驚いた猫が爪を立てるのに似て、何か脅威を感じると不意に魔法が放たれた。それで俺が、最初の数ヶ月間は世話役になって彼の面倒を見た、その内に彼は他の人々にも懐くようになったが。俺は、もう彼を憎むことは事は出来ない。ただ哀れに思うだけだ。かつての彼は欠点があったにせよ、優れた治療の力を惜しみなく使う、親切な、機知に富んだ男だった。だが今の彼は、動物とほとんど変わらない。フェラルデン人の愛するマバリほどの知性さえ、見せることはない」

メイジは目を閉じて、まさにそのマバリ犬のように、フェンリスの足に重く寄りかかり、頭をエルフの手に預けていた。フェンリスは彼の額に掛かる長い金髪を払いのけ、そこにいくつも見られる焼き印をそっと手で触れた。その額が、乱雑に互いに重なり合って押された焼き印でほとんど覆い尽くされているのが、フェンリエルにも見えた。いくつかは生え際にも重なっていた。

「ここに来る途中で、ひょっとしたら君が彼を救えるのでは無いかと、俺は考えていた。彼はまだ、この壊れた殻のどこかに居るはずだ。かつてアンダースとして俺が知っていた男が、彼の頭の中でどこかに閉じ込められては居ないか。傷つき怯えた姿で隠れているのではないかと、俺は思っている。
もし君が……もし、彼の夢の中を見たとしたら、彼を見つける事が出来るだろうか?彼を癒す事が?少なくとも、なぜトランクィルの儀式が幾度も失敗したのか、その原因を探ることが出来ないだろうか」

フェンリエルは驚いてフェンリスの顔を見つめ、それからもう一人のメイジに注意を向けて、思わず身震いした。彼にはエルフの語る、恐ろしい光景をありありと思い浮かべることが出来た。
「判らない」と彼は言うと、唇を噛みしめてしばらくの間考え込んだ。
「だけど、やって見て何も悪いことは無いと思う。少し考えさせてくれ」

フェンリスは黙って頷いた。

「どうして彼はこんな地下に?」

「彼が、ここの方が気に入ったようだ。最初は俺達は上階の、ホークと同じような部屋に彼を入れた。だが、自分で動き回れるようになるやいなや、彼は逃げ出した。大体の場合は、どこか暗く狭い場所に隠れていて、俺達が見つけてその部屋に戻したが、すぐにまた逃げ出した」

微かな笑みに、エルフの唇が曲がった。
「居たくないと思った場所から逃げ出すことに掛けては、彼は俺達より一枚上手のようだ。俺達は最初、もし誰かに怯えた彼が、魔法で攻撃したらどうなるかと心配した。だが、その内彼はここへ降りる道を見つけ、ここで……おとなしくなった。あるいはダークタウンの、彼のかつての隠れ家を思い出させるのかも知れない。この広い貯蔵庫のどこかに彼は巣をこしらえ、普段はそこに隠れている。大抵の場合、誰かがここに降りてきても出てこようとはしない。彼が懐いたほんの数名の召使い達だけが、彼を静かに怯えさせないよう扱うことが出来る。彼らが食事と水を定期的にここへ運び入れ、毛布と服を与え、汚物の入った桶を持って上がる。時には大きなタライの中で、身体を洗ってやる事も出来ている」

フェンリエルは黙ってアンダースを眺めた。自分がまだ甘パンの半分を握っていた事に気付いて、彼はためらいがちにそれを差し出した。メイジは不安そうに甘パンと彼の顔を見比べた後、ゆっくりと手を伸ばして甘パンをはたき落とし、床から拾い上げた。彼はすぐにそれを口にしようとはせず、片手に持ったまま立ち上がると、再び現れた時と同じく静かに、元の暗がりの中へ戻っていった。

フェンリスは大きく息を吸い込み、溜息を付いて、いくらか緊張を解いたように見えた。
「俺達の部屋へ戻ろう。セバスチャンとの昼食の前に、まだ着替えをして身体を洗う時間はあるだろう。後でゆっくり話をしよう」と言うと彼は立ち上がり、松明を手に取った。

フェンリエルは頷き、彼の後について城の上階へと戻った。

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