第12章 初日

第12章 初日


アンダースは不安げに掌を太腿の側に擦り付けると、彼の寝室にある小さな鏡を覗き込み、髪の毛がきちんと撫で付けられていて、頬も滑らかに剃ってあるのをもう一度確かめた。彼はちゃんとした格好で診療所の初日を迎えたかった。
彼は着ている服を心配そうに眺めた‐清潔で、きちんとした上等な服だが‐アンドラステの美味そうな尻に誓って、彼がどれほどあの古い懐かしいローブを着たいと思ったことか。あれを着ていればもっとずっと落ち着いていられただろうに。

コテージを出て、庭の小道に沿って門へと歩きながら、もし上手く頼めばローブを着させて貰えるだろうかと彼は考えた。多分駄目だろう。セバスチャンは間違いなく歓迎しないだろうし、ひょっとするとアンダースがかつての反抗的な、地下に潜むメイジとしての彼に戻りたがっている印と受け取るかも知れなかった。聞かない方が良い、彼は陰鬱な気分で結論づけた。

深く息を吸い込むと彼は庭の門扉を押し開けた。明らかに待ちくたびれたという様子の護衛達が彼を迎えた。アンダースは笑みを浮かべながら彼らに頷いて見せたが、話しかけようとはしなかった。彼に割り当てられた護衛達は既に、彼は診察と治療に必要な範囲を超えて話をしてはならず、誰とも一切親しくなるような事があってはならないという、セバスチャンの命令をはっきりと口にしていた。

コテージの掃除をしにやってくる召使い達でさえ、台所の保存食料の好みや、食事を自分で作るか、あるいは城の調理場から持ってこさせるかと言った決まり切った事柄以外で、彼と口を聞いたり物を尋ねようとはしなかった。彼は朝食と昼食は自分で用意し‐紅茶とパン、チーズ、季節の果物、時にはポリッジ#1やベーコン、ハムといった簡素な物‐夕食は城から運んで貰う事にしていた。

もし彼の助手と一切話をさせて貰えなかったらどうしようと、彼は心配になり、思わず苦笑いをした。話す事を禁じられた誰かと共に仕事をするのは大層大変だろう。彼は診療所の扉を開けて中に入ると立ち止まった。セバスチャンが既に中にいて、年かさの男と話をしていた。セバスチャンは彼が入ってきたのにすぐに気付いて振り返った。

「アンダース。初日がどんな様子か自分でも見ておこうと思ってね。それとお前の助手を紹介しよう」彼はそういうと、鉄灰色の髪をした男に頷いて見せた。

「こちらはドゥーガル。ドゥーガル、彼がアンダースだ」

ドゥーガルはアンダースに向かって頷いて挨拶した。二人の男はお互いをじっと見つめた。

彼の新しい助手は、40代かあるいは若く見える50代、短く刈り込んだ鉄灰色の髪と、ほとんど黒に見える濃い茶色の目で、良く日に焼けた顔には目尻と口角に深い笑み皺があり、力強い角張った顎と幅広の鼻をしていた。実務的な男の様だとアンダースは思った。

「ヴェイル大公殿下から、あなたはヒーラーだと伺いましたが?」ドゥーガルは興味深げに尋ねた。彼は以外にも深い静かな声をしていた。

「ああ」アンダースは答えた。「僕は魔法と、伝統的な方法の両方で訓練を受けている。セバスチャンは、君が衛生兵として経験があると言ったが?」

ドゥーガルは頷くと、楽な姿勢を取った。
「はい、傷を縫い合わせたり、膏薬を塗ったり、折れた骨を固定したり、そういった事でしたら」

アンダースは頷いて言った。
「もし運が良ければ、僕達がする仕事はその範囲の事で済むだろう、ほとんどはね。魔法の助けを得る以外に患者を助ける方法が無いような場合を除いて、大抵の場合は、魔法で無理に治療を速めるよりも、身体が自然に治癒するのを助けるだけに止めておく方が良いんだ。それにもちろん、魔法でさえ為す術が無いような事も沢山ある」

真面目な顔で、彼はそう付け加えた。

ドゥーガルは頷き、セバスチャンに注意を戻した。
「他に何か私が知っておくべき事はございますか、殿下?」と彼は尋ねた。

セバスチャンは首を振り、アンダースの顔を見た。
「さて、私はこれで席を外してお前達に仕事をさせる事にしよう。塔の衛兵達には、診療所に用のありそうな者が現れ次第、くぐり門を通じてここに入れるように命じてある」

彼はそう言うと大部屋を出て、小部屋へと改装された元の馬房を見て歩いていった。

大公殿下の退出と同時に、アンダースの護衛の一人が彼に近づいてきて、彼がそこに居ることと、とりわけドゥーガルと仕事以外の余計な会話をさせないよう見張っていると言うことを無言の内に示した。もう一人の護衛は戸口の側に立ち、壁にもたれて外と中を見ていた。

アンダースはとりあえず彼らの存在は無視することにして、手術用のテーブルにもたれて楽な姿勢を取ると、ドゥーガルに彼の経験の範囲から始まり、様々な軽傷や感染症に対してどう手当を行うかについても、様々な質問を行った。男がそれなりに豊富な知識を持っていることを知って彼は喜んだ。彼の答えは筋が通っており、課題と質問に対する考え方は論理的で、容易くうろたえるような事は無かった。ダークタウンで長い間診療所を開いていた間に、アンダースはこの類の人物が大抵優れた助手になる事を良く理解していた。彼はセバスチャンの人選に大層満足している事を認めざるを得なかった。

戸口に立っていた衛兵が咳払いをして彼らの注意を引いた。
「どうやら最初の患者が来たようです、サー」

セバスチャンは屋根裏部屋へ上がる階段の一番上で壁に背をもたれて立っていた。ここからだと下の大部屋が見渡せて、アンダースの行動も全て見て取れた。彼はメイジがドゥーガルに質問するのを聞き流しながら、彼が選んだ男があのアポステイトの目に叶いそうだと知って喜んでいた。あの男にアンダースが満足するかどうかと特別気に懸けていた訳では無いにせよ、あのメイジについて一つ言えることがあるとすれば、彼が極めて優れたヒーラーであるという事だった。

彼が見守る内にも、手に赤く腫れ上がった切り傷を抱えた、心配そうな顔をした農夫がアンダースの診察を受けていた。彼はアンダースが診察をドゥーガルの教育の場としても利用していることに気づいて喜んだ。アンダースは彼の助手に傷口を十分観察させ、適当と思われる手当てについて意見を聞いた後、化膿した傷口の清浄方法について更に適切な方法を説明した。それから彼は不安げな農夫に向き直ると、一言二言冗談を言って気分を紛らわせた後、彼自らで傷口を処置し、さらに側で手当ての方法をつぶさに見ていたドゥーガルに、傷口を縫い合わせて包帯を巻く所までやらせていた。これでアンダースが、そういった処置に関する助手の腕前を確認出来たのは間違い無かった。

アンダースはその農夫に、傷口を清潔に保つ事の重要性と、もう一度戻って治療を受ける必要があるか、あるいは縫い糸を抜糸出来るかどうか判断するための徴候について手短に説明した。農夫は感謝の印に深く礼をすると、元来た道を戻っていった。

アンダースとドゥーガルはしばらくの間、アンダースが使った手法について熱心に議論し、それから肩を並べて今や薬品庫となった元馬用具置き場に足を運ぶと、彼らが必要とする品々や、ドゥーガルがポーションや湿布薬の調製について経験があるかについて話をしていた。

あいにく彼にはほとんどそのような経験は無いようだった。彼は貯蔵品が無くなった場合にエルフルートをすり潰して生の湿布薬を作る位は出来たが、それから作れる他の薬品については、適切な調製方法を知らなかった。
驚いたことに、アンダースは次にその男がどのくらい料理が出来るかを尋ねた。その質問の目的が一瞬セバスチャンには理解出来なかったが、助手の答えを聞いてアンダースは微かな笑みを浮かべながら頭を残念そうに振った。

「もし君が頑張っても煮出した紅茶と焦げたベーコンしか作れないという事だと、残念ながら君に薬剤の調製技術を教えるのは止めておいた方が良さそうだな」とアンダースはその男に向かっていった。
「台所と薬部屋で必要とされる技能は、不幸なことにかなり似通っていてね」

ドゥーガルはそれを聞いて笑った。
「ぜひ止めておいた方が良さそうですね、それだと」と彼は機嫌良く答えた。

そして次の患者は、喉に大きな腫れ物のある老婦人だった。ドゥーガルが興味深げに、そして女性が恐怖で大きく目を見開いて見つめる内に、アンダースはその腫れ物を魔法を使って処置した。その後喉の腫れが大きく引いているのを感じて女性は笑みを浮かべた。アンダースは彼女に、その腫れ物を完全に取り除くまでは何回か処置が必要だから、しばらくの間は数日置きに通ってくるようにと指示した。

「今のこそ、私に教えて下さる事が出来れば思いますな」と、ドゥーガルは少しばかりの畏怖の念が混じった声で言った。
「普通のヒーラーにはどうやっても真似の出来ない事です」

アンダースは大儀そうに頷いた。そのでき物を処置するために力を費やしたせいで、彼は見るからに疲れ果てた様子だった。
「ああいう癌腫に対しては時には魔法ですら役に立たない事もある」と彼は認めた。

「さっきのように、かなり表面に近い所に腫れが見られる場合は運が良いけど、他の場合は……中には体中に種を撒き散らすような物もあって、もし最初の徴候を見逃すと、もはや治療は不可能になる。まるで小さな火元と、野原を覆い尽くす大火を比較するような物で、最初はバケツ一杯の水で消せても、後には救いようの無い事になってしまうんだ」

ドゥーガルは頷くと、眉をひそめた。
「お疲れのようですね」と彼は言った。

アンダースは再び頷き、近くのベンチに座り込んだ。
「ああ。短い時間に引き出して使う事が出来る魔法の力というのはごく限られているんだ。それにああいう治療魔法は沢山力を使ってしまうからね。しばらくの間休むことが出来れば、また力が回復して元通りになる。もし緊急事態ならリリウムポーションを飲むことも出来るが、多用すると危険だ」

ドゥーガルはしばらく考え込む様子だったが、やがて頷いた。
「おっしゃる意味が判ったと思いますよ。小さな泉で出来た池の側でキャンプするようなもので、水はある程度しか湧き出てきません。もし大勢が一斉にお茶を沸かして、沢山の馬やロバに一時に水を飲ませようとすれば、池はほとんど干上がってしまうでしょう。ですがしばらくそのままにしておけば、また池には水が溜まります」

アンダースは笑みを浮かべて頷いた。
「その通り。もし何かの理由でそうする必要があれば、水の入った樽から空の池に水を戻して、素早く一杯にする事も出来る。だけど最初から池の水を使い果たすようなことは止めておいて、水位が自然に回復するのを待つのが一番良いんだ」

彼らはその後、予定していた診察時間の二時間が過ぎるまでに、発熱した子供やまた怪我をした別の農夫など数名の患者を治療した。それからアンダースとドゥーガルは心を込めて別れの挨拶をすると、ドゥーガルは彼の荷物をまとめて診療所の二階へと姿を消した。彼は公式に、ここで働く助手としてアンダースに認められたのだった。

セバスチャンは屋根裏から下に降りた。
「初日は上手く行ったな」明らかに彼の存在を忘れていた様子のアンダースが驚く顔を見ながら、笑みを隠して彼はそう言った。
「昼食につき合え。お前が昨日書いて送ってきた衛生に関する覚え書きについて、もっと尋ねたい事がある」

「もちろん」アンダースは心配そうに頷いて同意した。


#1:ポリッジ:エン麦の挽き割りまたは押し麦(オートミール)の粥で、イギリス系文化圏では一般的な食事のメニュー。牛乳または水で煮て味付けをして食べる。牛乳を入れて甘くして、シナモンやナツメグを掛けると熱いままでも冷めても美味しい。日本の粥と一緒で作り方は色々。

恐らく、フェラルデンやスタークヘイブンでは日常的な食事の一つだろう。

 

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