第125章 忌まわしい誤算

暗闇の中閉じ込められ、身動き出来ないまま目覚めた彼は、一瞬ひどく狼狽えた。同じ姿勢を長時間取らされたせいで身体中の筋肉が痛み、不自然な方向に固く伸ばされた腕は強ばり、足首と膝をきつく固定した革紐に彼の脚はほとんど麻痺していた。夢も見ずに熟睡していた彼が何故突然目覚めたのか、原因を認識するまでにはしばらく掛かった。すすり泣き哀願する声――すぐ側からのブライディの声だった。突然バンと、拳か爪先で木を叩く音がした。

「黙れ、女!」レイナードの唸り声。ブライディは沈黙し、声をひそめて泣く者のしゃくり上げる息の音だけが聞こえた。
「やつを起こせ」と彼は付け加えた。

その『やつ』が彼を指しているとアンダースが気づいた時には、既に彼の箱の上蓋が投げ上げられ、二人のテンプラーが彼の上に屈み込んでいた。彼は恐怖に喘ぎ、彼らが縛り付ける革紐の金具を手荒く緩めて肩に手を掛け箱から引きずり出す間、身体が震えるのを抑えることが出来なかった。脚は自らの体重を支えきれず、アンダースの身体は二人の間でぶら下がった。もし彼らが箱から出して引きずって行かなかったら再び床に崩れ落ちていたことだろう。
彼はぐったりと肩を掴む手に持たれたまま、顔に被さる前髪の隙間から周囲を見渡した。暖炉には再び小さな火が熾され、テンプラー達は起き上がって寝床を片付けて鎧を着始めていたが、外界から漏れ込む光は無くまだ空は暗いものと思われた。

レイナードが別の箱の側に、イライラした様子で立っていた。彼は部屋の隅を指さした。
「やつを治せ」と彼は鋭く命じて、部屋を大股で出ていった、恐らくは彼がこのがたがたの廃墟のどこかで一夜を過ごした場所から、荷物を取ってこようというのだろう。

アンダースはその隅の方へのろのろと振り返り、冷たい石の上に倒れているフィリップの姿を見るや否や歯の隙間からシュッと息を飲んだ。若い男は身体中を青あざに覆われ、片眼は異様に腫れあがり、唇も裂けて大きく膨らんでいた。彼の身体を覆う薄い毛布の至る所に乾いた血の染みが付いていた。彼の呼吸も正常では無かった。少なくとも肋骨が一本は折られて、恐らく肺に突き刺さっているだろうとアンダースは思った。
彼は罵り声を上げ、テンプラー達の掴んだ腕を振りほどくと大急ぎでフィリップの側に膝を付き、そして治療しようにも本来の力がまだ戻っていないことに悪態をついた。こうまでひどく痛めつけられた男を本格的に治療するには、到底力が足りなかった。

彼は毛布を捲り上げて、男の酷い怪我の有様に思わずたじろいだ。全ての治療は無理だった。最悪の、命に危険を及ぼしかねない傷だけを治療して、後は男が自ら回復する可能性にかけるしかない。もし彼に充分な食べ物と、充分な手当てが与えられるなら。もし再び殴られることが無く、横になって休養が取れるなら。このテンプラー連中の元ではどれも有りそうに無いと、アンダースは苦々しく考えた。

しかし彼はヒーラーだった。出来るだけのことをしよう。彼の手には治療魔法の青白い光が現れ治療に取りかかった。痛めつけられ痣だらけの男の上に屈み込み、彼は周囲の状況も全て無視して、怪我の最も酷い場所から始め彼に残る力を一滴残らず男に注ぎ込んだ。
魔法の力を貯めて置いても何の意味も無いと、治療を進めながら彼は考えた。間違い無くレイナードはこの作業が終わり次第、再び彼から力を抜き取るだろう。ならば彼自身で使い切ったほうが、テンプラーの手の中で霧散するより少しでも役に立つところに注ぎ込む方がまだマシだ。
そして彼は全ての力を使い果たし、気を失った。

それほど長く気を失っていた訳では無いようだった。彼が揺り起こされた時にはまだ数分も経っていなかっただろう。一人の大柄なテンプラーが彼の側に屈み込んで腕を揺すっていた。昨晩フィリップに毛布を掛けていた少し親切な男だと、彼はぼんやりした頭で思った。

「飲め」とその男は水袋を差し出して言った。アンダースが手を上げる力さえ残っていないと判った時、彼は唸りとも不平ともつかない声を出しアンダースの上半身を起こして座らせると、水袋を支えて飲ませてくれた。その後彼は再びメイジを寝かせて、ぶらぶらと他の男達が冷たい朝食をがっついているところへ戻った。
しばらくして彼は皿に幾らかのパンとチーズを盛って戻ってくると、側にどっしりと座り込み、指で小さくちぎっては一つずつアンダースの口元へ運んだ。

アンダースはそれを食べながら訝しげに彼の方を眺め、なぜこの男だけが他の連中には無い親切心を示そうとするのかと不思議に思った。パンの最後の数切れをアンダースに食べさせながら、そのテンプラーはフィリップを指さした。
「彼は生きるか?」と彼は尋ねた。

アンダースは小さく肩を竦めて正直に言った。
「判らない。全部の傷は治せなかった」
テンプラーは明らかに彼の言葉を理解するのが困難なようで、難しい顔をした。
「多分」 仕方なくアンダースはそう言い添えた。

大柄なテンプラーは頷いた。その言葉は理解出来たようだった。彼は最後の一切れを食べさせた後で再び水袋を腰から外して飲ませた。その時にはアンダースも自分で座っていられる位は回復していた。水を飲んだ後で、テンプラーは彼を半ば引っ張り上げて立たせた。
「トイレ」と彼はアンダースに言うと、再び宿屋の外の溝へと連れて行った。空はちょうど明るくなり始めたところで、明け方の空に響き渡る合奏の最初の数節を早起き鳥がさえずっている他は、皆灰色に静まりかえっていた。

彼らが宿屋に戻るとそのテンプラーは彼を箱の方へ連れて行った。アンダースは箱に近付いて行く間、再び中に閉じ込められると思うと恐怖に身体が震え出したが、しかし男は蓋をつま先でバタンと閉じその上にアンダースを座らせた後で、自分の朝食を探しに立ち去った。
アンダースはそこに座って身を震わせながら、何とか落ちついて呼吸を整え気を静めようとした。正気を保っていなくてはいけない、と彼は自分に言い聞かせた。もし逃亡の機会が訪れたとしても、肝心の彼自身がそのチャンスを取り逃すほど取り乱していては、何の意味も無かった。
しかし、もしまたあの箱の中に閉じ込められたら果たしてどれ程の間正気を保っていられるだろうか。彼は静かに座ってゆっくりと数を数え、一定間隔で息を吸って吐くことだけに集中して可能な限り平静さを保とうとしながら、眠るフィリップを見つめ、別の箱からのブライディの激しい不規則な呼吸の音を聞いていた。

シーカーがまたしかめ面をしたままその部屋に戻ってきた。彼は大股で近寄ってくるとフィリップを見下ろし、つま先で毛布をちらりと持ち上げるとアンダースの方を振り返った。
「やつは馬に乗れるか?」と彼は顎をしゃくって言った。

アンダースは疲れた表情で男を見やり、最初に思いついた三つの答えをぐっと飲み込んだ。疲労と緊張はしばしば彼から皮肉屋の一面を引き出したが、シーカーがそのような答えを聞いて喜ぶとは到底思えなかった。
「長くは保たない」と彼はようやく言った。
「怪我に負担を掛けるし、座っていられないだろう」

シーカーは悪態を呟き、不吉な表情でブライディの箱を眺めやった。彼はまだこの男には利用価値があると踏んでいるに違いないとアンダースは考えた。あるいは少女に、ブラッドメイジに対する支配力を失うことなど無いとは確信出来ないでいるのか。しかしもしそうだとしたら、なぜこの男は昨晩部下達にフィリップを半殺しにさせて、あからさまに自らの加虐性を満足させようとしたのだろうか。

「ギュローム!」とシーカーはまるで怒鳴りつけるように叫んだ。

アンダースを助けた大柄なテンプラーが振り向き、訝しげにシーカーを見つめた。
「ウイ、シーカー・レイナード?」

レイナードはフィリップを指さした。
「今朝はそのメイジの箱にやつを入れておけ。お前は、」と彼は振り返るとアンダースを指さしていった。「今日は馬に乗ることになる」

アンダースは頷き、箱から立ち上がって側に退いた。その間にギュロームは、一番若手のテンプラーと一緒にフィリップを血に染まった毛布でくるんで持ち上げると箱へと運び、ほとんど優しいと言っても良いくらいの手付きで箱の中に降ろした。そのテンプラーは箱の中の革紐を締める時も、拘束するというよりむしろ男の身体が箱の中で揺れ動き、傷をさらにひどくすることの無いように最小限に留め、それから蓋をしっかりと閉じた。

その後で皆中庭に連れ出され、馬達が裏庭から引き出された。彼らと同行していた荷馬を二匹並べて背の上に荷台を誂え、テンプラーが四人がかりでフィリップとブライディの箱を持ち上げてその上に載せるのにかなりの時間が掛かった。それからアンダースを馬に載せて――昨日とは別の馬に――また鞍に縛り付けた後で、彼らはようやく廃墟を出発し南方へ向かう道を進み始めた。


空からようよう暁の光が薄れつつある頃、エルフ二人と衛兵の一行はその荒れ果てた宿屋に辿り着いた。彼らの獲物がここに居たこと、そして既に出発した後なのは明らかだった。

「ここでしばらく待て」とゼブランは命じ、彼の手綱をフェンリスに放り投げて馬から滑り落ちると急ぎ足で馬の足跡を遡って宿屋の後ろへと向かった。フェンリスは鞍上に座ったままで周囲の森を用心深く監視しながら待ち、衛兵達も辛抱強く待機した。

数分もしないうちにゼブランが再び視界に現れ、厳しい顔付きで走り戻ってきた。彼は鞍によじ登り手綱を受け取るや否や話すよりも先に一行を前進させた。
「間違い無く連中はここに居た、それもごく最近――暖炉の石炭を見たところでは、まだ一時間も経っていない」とゼブランはようやく言った。

フェンリスは振り返り、彼の方をちらりと見た。
「それで?」と彼は尋ねた、他にも何かあるのは間違い無かった。

ゼブランは彼に鋭い視線を向けた。
「それと、床の隅に血痕があった。大量の。誰かが怪我をしたんだ、それが誘拐犯の一人だとは僕には思えない」

フェンリスは頷き、彼自身の表情も厳しいものに変わった。彼らは南へと続く道路に沿って、先行する馬の足跡を出来る限りの速度で追いかけ始めた。


ヴィンマーク山脈の麓で、彼らが再び休憩のために止まった時には既に正午も近かった。そこは既に落葉樹と常緑樹の入り交じる、深い森の中だった。オーク、カエデ、ヤナギの淡い緑の葉、それにマツやモミ、トウヒの濃い緑色、彼らが辿っていく小道を一歩離れるとそこはもう深い藪となっていた。彼らは小さな空き地で馬を止めた。シーカーは箱を降ろすように命じ、それが終わるまで二人のテンプラーがアンダースの側で見張りに立ったが、今回に限って彼らは馬から降りる前に彼の――そしてブライディの――魔法の力を抜き去ろうとはしなかった。

フィリップはまだ生きていた、今朝出発する前に治療を施した傷口はどうにか午前中も悪化せずに済んだようだった。アンダースは朝と同じく、命に関わる体内の怪我の治療を強化するようにしたが、身体の表面の傷についても男を楽にしてやるため少しばかり治療した。今度も彼は、回復した僅かな力を全て治療に注ぎ込んだ。朝方のように失神するまでは至らなかったが、治療を終える頃には立ち眩みと震えがして来た。めまいと空腹から少しどころでは無い吐き気を感じて、彼は箱の側で座り込むと膝に頭を付けて休んだ。

女の悲鳴に、彼は素早く頭を上げてあたりを見渡し、二人のテンプラーがブライディの箱の上に屈み込んでいるのを見た。一瞬、彼らがまた少女をどうにかして拷問しているのかとアンダースは思ったが、それから彼らが彼女を縛り付けている紐を解いているのに気付いた。彼女はひたすらもがき、箱から出せとほとんどヒステリックに叫び続けた。

シーカーが別の二人のテンプラー達と話をしていたところから振り返って大股で彼女の箱に近付き、ブライディの髪の毛を掴んで顔を持ち上げると頬を殴りつけた。
「黙れ!」と彼は少女に怒鳴った。一瞬彼女は大きく口を開いて喘ぎ、それからその視線がフィリップに、別の箱にひどく静かに横たわる男に落ちた時、娘は甲高い悲鳴を上げて髪を掴む手の中で身をよじった。
彼女はレイナードの頬を引っ掻き、爪先が男の顔を抉って血を滲ませた。シーカーは驚いて顔を引くと少女の頭を放して後ろに跳び退り、罵り声を上げながら手を上げて頬に触れた。彼は自らの指先を見て瞬き、一瞬そこに付いた血を見つめた後、唐突に自らの置かれた危機に気付いて顔を蒼白にすると剣を抜いた。もはや正気を喪ったブラッドメイジの前に流された、新鮮な血。

アンダースはテンプラー達が悲鳴を上げる女に一斉に走り寄る中で、フィリップの箱の影に這いずり込んだ。どちらの方がより怖ろしいかすぐには判断が付かなかった、テンプラーか、ブライディか。どちらにしても、彼も彼の患者も何もかも危険に近すぎた。彼は箱に掛かったロープを両手で引き、踵を土に食い込ませて箱を引っ張り上げた。一瞬箱はそこに止まったまま力が拮抗したが、それから箱の頭の方が少しばかり持ち上がり、足の方を引きずって砂利の多い小道の上を重い箱がずるずると滑り出した。彼は急いで後ずさり、体内を駆け巡るアドレナリンとグレイ・ウォーデンの力が、その箱を戦いの場から空き地の外の茂みへと引きずり込ませた。

重い衝撃波に、彼はテンプラーがサイレンスかスマイトをブライディに放ったのに気付いたが、新鮮な血が彼女に力を与え続け、もはや通常のメイジ程容易に動きを止めることは出来なかった。レイナードの顔のひっかき傷から流れ続ける血に加えて、彼女は自らの腕にも爪を立て、細かな血の赤い渦巻きが彼女の回りに現れ、テンプラー達を容易には近寄らせなかった。

それでもテンプラー達は散開し彼女を取り囲んだが、彼女が手振りをすると一人のテンプラーが突然彼女から顔を背けて隣の男に襲いかかった。血の奴隷だと、アンダースは気づき背筋を冷気が走り抜けるのを感じた。かつてジョハンナがセバスチャンを操り彼らを襲わせたように、この男は彼の同僚と、彼または彼女が殺されるまで戦い続け、彼が与える傷は全てブライディの力の源となり、彼が殺す者は更に大いなる力を彼女に与える。冷酷な方程式はただ一つの答えを導いた。彼の同僚のテンプラーはためらうこと無く彼を斬り倒した。例え彼女の力が一人分の血で増大しようとも、その他の全員の相乗効果を与えるよりはまだ良かった。

アンダースは更に激しさを増す戦闘を見て胸がむかつき、頭がぐるぐると回り出すのを感じて膝を着いた。そして彼は唐突に、テンプラー全員がブライディとの戦いに集中して、誰一人彼に注意を払っていないことに気が付いた。彼はもう一度ブライディを見つめ、そして無力に横たわるフィリップを見おろして、一瞬彼の患者を護ろうとする欲求と、ここから逃げだそうとする欲求の間で揺れ動き悪態をついた。しかし実際のところ、彼がフィリップを護ることは不可能だった。今出来ることと言えばこの場から逃げ出して、シーカーが追跡を焦るあまりこの男を放置して行くことを願うしか無かった。

僅かばかり彼が与えられる最後の保護として、それでもアンダースは箱の蓋をしっかりと閉じた。それから身を翻すと、彼が居なくなったことにレイナードと彼の部下が気付くまでにしばらく時間がかかり、追跡を始めるまでには更に手間取ることを願いながら深い藪を掻き分け走り出した。

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