第36章 良い考え

第36章 良い考え


ここに到着してからずっとアンダースがひどく緊張していることにセバスチャンは気付いていた。男はそれなりに表情を隠していたが、大勢のテンプラーの存在に、このメイジが深く動揺しているのは明らかだった。砦の中庭に一行が入るに従いアンダースの顔が青ざめ、緊張した様子で落ち着かなげに周囲に目を泳がせているのを見て、彼は男を旅行に誘う前に、この件はよく考えておくべきだったと遅ればせながら気付いた。

それでも、荷馬車から降りるのを手伝いながらメイジを勇気づけてからは、多少は動揺も収まったかに見えた。犬達もすぐ側に居て気持ちを落ち着かせる手助けになっているようだった。

しかし彼らが塔の視察を終えて下の階へ戻ってきた時、彼は再びアンダースの顔が青ざめていることに気づいた。額には汗の粒が浮かび、アッシュを抱えている手は見るからに震えていた。

「さて、皆様がよろしければ、この後少しばかり休息を取りたいと思います」セバスチャンはごく気軽な様子で騎士団長に述べた。
「これほど長いこと馬の鞍に座っていたのは随分久しぶりなので、私の脚が休みたいと言っていましてね。今晩私が泊まる予定の部屋を教えて貰えますか?お話はまた夕食の後に出来ると思いますが……」

「もちろんですとも」とロレンスは言った。「恐縮ですが、大公殿下と護衛の方々以外にいらっしゃることは予想しておりませんでした……ご友人の方々は衛兵と一緒に泊まられるか、それとも別の部屋を準備させた方がよろしいでしょうか?」

「ああ、お気になさらぬよう、彼らは私の部屋に一緒に泊まりましょう。余分の寝床をおける位の大きさはあるでしょうから?」

「まず間違いなく」騎士団長はそう頷くと、彼らをその部屋へ案内した。部屋は確かに、余分の寝床を二つ置いてもまだ余裕のありそうな大きさだった‐部屋の一方の端に置かれたベッドは床面積の半分にもならず、空の鎧掛けと側の小さなテーブルの他はそのベッドがこの部屋にある唯一の家具だった。騎士団長は、寝床が荷馬車から降ろされ次第すぐに運ばせると約束して、別れの挨拶をすると部屋から立ち去った。

「ほら、座れ、アンダース」とセバスチャンは言うと、メイジを腕で支えてベッドの方へ、床を除けばこの部屋で唯一座れる場所へ連れて行った。*1アンダースは感謝の印に頷いて腰を下ろすと眼を閉じ、しばらくの間黙って身を震わせていた。

「大勢のテンプラーが居る所にお前を連れて来るのは拙いということ位は考えておくべきだった。何か他に出来ることはあるか?何か欲しい物は?」と彼は心配そうに尋ねた。

アンダースは眼を閉じたまま首を振った。「いや……一人にしないでくれ、頼む」と彼は微かな声で言った。
「僕も考えておけば良かった、またテンプラーの側に居るのが……どれ程辛いか」彼は言葉を切ると、続きを飲み込むかのように唇を噛みしめた。

セバスチャンもベッドの端に腰を掛けた。ガンウィンはベッドに飛び上がり、アンダースの背中に寄りかかると頭を彼の横顔に押しつけ匂いを嗅いで、犬の下半身とパタパタと振れる尻尾が反対側の肩に当たっていた。犬が長い舌でべっとりと彼の顎を舐め、アンダースは驚いて短く笑い声を上げると再び眼を開けた。彼の顔にゆっくりと血色が戻りだした。彼は深く息を吸い込むと扉の側に静かに立っているフェンリスにそっと視線を走らせて、それからセバスチャンの顔を見た。
「すまない」と彼は静かに言った。

「謝ることは無い」とセバスチャンは言った。
「夕食までここで休んでいることにしよう、その後でお前はまたこの部屋に戻ってくればいい。私は恐らく、しばらく騎士団長と話をすることになるだろうが、犬達はここでお前の側に居て良いし……もし私もここにいて欲しいなら、何か適当に疲れているからと言い訳しても良いが?」

「夕食の後は俺が一緒に居よう」とフェンリスが静かに言った。「テヴィンターについて更に話が出来るだろう」

アンダースは頷いた。「ありがとう、誰か一緒にいてくれたら嬉しい」と彼はささやくように言った。

その時扉をノックする音が聞こえ、セバスチャン自身の衛兵が寝床を持って入ってきた。彼らが寝床を整えて退出した後、アンダースはベッドから寝床の一つに移動して仰向けに横たわり、アッシュが早速腹の上で丸くなった。ガンウィンも即座に寝床に這い上がり、彼の脚の上に長々と横たわった。ハエリオニは優雅に寝床の側で座り込むと、アンダースの腕の辺りの匂いを嗅いでから頭を下げた。

フェンリスは彼の剣を外して彼の寝床の隅に立てかけ、それから腰を下ろして篭手を取りベッドの上に並べた。彼は一瞬メイジの方を見てからセバスチャンの方に向き直った。
「アンズバーグのメイジとその番人達にとって、この砦は良い選択だったようだな」と彼は言った。

セバスチャンは頷いた。「ちょうど適当な場所が有って良かった」と彼は同意した。
「彼らが既に落ち着く様子を見せているのもありがたい。今日持ってきた補給物資でここがより快適になるのは間違いないだろう、とはいえ平均的なサークル・タワーの標準にまで持って行くには、まだまだ長い道のりとなるだろうが」

「例えば、図書室も無いし」とまだ眼をつぶったまま、アンダースが指摘した。彼の顔色は良くなっていてかなり元気を取り戻したようで、アッシュの背中をゆっくりと繰り返し撫でる手も、もう震えてはいなかった。

「当分の間は無理だろうな」とセバスチャンは言った。
「どこか他所で本を複写させて、ここへ送らせるには相当な費用が掛かるし、現在の情勢下では、そもそも本の複写を行わせるために人員を割ける余裕があるサークルは殆ど無いだろう」

「君の図書室に有る本を何冊か複写させられないのか?」フェンリスは僅かに戸惑った様子で尋ねた。
「その方が外から本を送って貰うより安くて済むだろう?」

「確かに、だが二つほど問題がある。一つには、メイジ達が学習のために必要とするのはほとんど魔法に関する書物だろうが、そういう本はヴェイル家の図書室にも、あるいはスタークヘイブンの教会にもほとんど所蔵されていないだろう。そして二つ目は、そのような複写をさせる充分な数の写字生*2を集めるという問題だ。ホークは君に読み書きを教え始めていたのだったな?簡単に学べるように見えたか?」

「そうしようとしてくれたが、授業は一回で終わってしまった」とフェンリスは言うと顔を赤らめ、少しばかり恥じ入る様子に見えた。
「読むのも書くのも実に難しく、俺は次第に苛々してきて、彼にそれをぶつけてしまった……その後彼は二回目の授業をしようとはしなかった」

「ああ。まあ普通は、写字生になれるほど読み書きに上達するまでには何年もの訓練が必要となる」とセバスチャンは説明した。
「教会には概ね小さな写字室があって、自分たちの図書室の補修や写本に写字生を携わらせているが、これは聖職者の多くが幼い頃から聖職あるいは写字生を一生の仕事とするために訓練を受けているという利点が有ってのことだ。彼らのほとんどは教会で育てられた孤児だからな。彼らの就くべき職業が知らされたあとは、すぐ訓練に入れる」
「それと世俗の人々にも写字生は居て、教会出身者か、あるいは私のように貴族の子弟で若い頃から正式に教育を受けた者だが、数はそれほど多くは無い。そしてそれらを除けば、ごく基本的な読み書き以上の作業をこなせる者はほとんどいないから、このような仕事をさせるために人を雇うのは非常に難しい。貴族の子弟でこういった退屈でつまらなそうな仕事に興味を持ったり、あるいは必要に迫られるのはごく希にしか居ないし、教会の者も自分たちの仕事をこなすだけで通常手一杯だから、本の複写のために必要な時間、訓練された写字生を雇おうと思うと高額な費用が掛かってしまう」

フェンリスは眉をひそめて頷いた。
「なるほど。だが、メイジ達は読み書きを教わっているのだろう?そもそも図書室は連中のためなのだから、その仕事の大部分をやらせても良さそうだが。少なくとも、スタークヘイブンで手に入る本で連中の図書室にふさわしいような本は」

セバスチャンは何か言おうとしたが止めるとしばらくの間、そこに座ったまま考え込んでいた。アンダースはしばらくして眼を開けると、肘を付いて半身を起こしセバスチャンの方を見た。

「良い考えだな」とセバスチャンはゆっくりと言った。「私が考えるに、そのようなメイジ達に仕事をさせる際に唯一の障害となりそうなのは、街の中へメイジの一群が入ってくることを周囲の人々がどう見なすか、という危険だけだ。彼らの中にはメイジに対して激しい感情を持つ者もまだ多い。しかしあるいは……静かに、ごく少数の人数から始めるとすれば…」

「それなら、君が写字室を始めれば良いじゃないか」とアンダースは言うと、ゆったりとした笑みを浮かべた。「あるいは教会がやっているように、メイジ達に他の人々に読み書きを教えさせることだって出来る。君の学校を創るんだ」

「学校を創るって?」セバスチャンは少しばかり驚いた様子で尋ねた。「一体何のために?」

「何でも?」アンダースは片方の肩をすくめた。「仕事のない避難民が大勢いるけど、彼らの中にも読み書きや、算数だって覚えられるだけの頭を持つ連中がいるのは間違いない。いったん教育を受ければ彼らも事務員や書記、あるいは写字生になれるかも知れない。本は高価だけどいつだって欲しがる人は大勢いるし、君のあの怪物級の図書室には、きっととても珍しい、あるいはとても優れた本が沢山有るだろう……充分な写字生が居れば、そういう皆が欲しがる希少な本を、販売するために複写させる仕事を与えることだって出来るし、メイジ達のために本を複写するための費用だって下げられるに違いない」
「それに、希な書物の中には複写しておかなくてはいけないものだってあるはずだよ‐アンズバーグのサークルが燃え落ちた時に、一体どれだけの知識が失われたかを考えれば」
彼は寂しそうにいうと、一瞬悲しげな顔を見せた。
「あるいは元々あったスタークヘイブンのサークルの図書室にしても‐それも焼けてしまったんだろう?ギャロウズの図書室がそれより上等かどうかは、怪しいものだ」

「あるいはカークウォールの教会にあった図書室も」とフェンリスが冷ややかに指摘した。

アンダースは一瞬怯む顔を見せたが、同意して頷いた。
「そう、それも」と彼は静かに言った。「あそこで一度、しばらく読書して時間を過ごしたことがあるよ。雨の日で、ホークが大司教と何か話をする間、僕をそこに押し込んで行ってね……あそこには素晴らしい薬草の図鑑があった。それにブラザー・ジェニティヴィ旅行記も全巻揃ってた。どちらの方が羨ましいか、僕にはよく判らなかったけど」

セバスチャンは声を出して笑った。
「かの善良なブラザーの著作なら、私自身もほぼ全部持っている」と彼は言った。
「あの『怪物級の』図書室のどこかにあるはずだ、私の部屋にこっそり溜め込まれている分を除けば」

「旅行‐なんだって?」とフェンリスが当惑した表情で尋ねた。

「ブラザー・ジェニティヴィがあちこちへ旅行した際の出来事を書き記した記録だ」とアンダースが説明した。
「彼が行った場所、彼が見聞きした事柄やそこで出会った人々、興味深い民族の習慣や衣装や……もしどこかに君自身で旅行出来ないとしたら、彼の本はその代わりになる。最も、いくつかの話で彼は自分の体験を誇張しているんじゃないかと僕は疑っているけどね。例えばだよ、アンティーヴァに行って、一人のクロウにも会わなかった、なんて旅行記は書けたものじゃない」彼は楽しげな笑みを浮かべて言った。
「当然読者は、君がクロウの一員にただ出会ったと言うだけじゃなくて、何かしら巨大な陰謀の一部とその結果の暗殺を目撃した、というのを期待する。だから時には、僕が思うに、彼は多分……ちょっとは作り話を混ぜたんじゃないだろうか。より話を面白くするために」

「イザベラとヴァリックの『友人の冒険記』と同じくらい怪しげに聞こえるな」とフェンリスは指摘した。

アンダースは肩をすくめた。
「彼らの書いた物だって価値はあるよ、ちゃんと読む方が判ってればだけど。それに判らないよ、彼らのお話が今から何百年も後になっても、読む人を喜ばせる伝承になっているかも。ヴァリックはいつも、彼の『ハイタウンの難事』は長く読まれる続き物になると断言していた」

彼はそう言うと苦笑した。
「どんな知識にだって、どこかの誰かには価値があるさ。例え性に関する知識にしたって、皆の好みに合う読み物では無いにしてもね」

「イザベラの、異国風隆起物の官能的な使用方法*3というのは、私に聞こえる所で話して欲しくなかった知識なのは間違いないな」とセバスチャンは素っ気なく言った。
「あれこそ無くても用の足りる知識だ」

アンダースはそれを聞いて大笑いし、フェンリスでさえ笑みを浮かべた。


*1:床に座っていても良いのは動物と、小さな子供と、ワインを抱えたフェンリスだけのようである。彼はたまに暖炉の前で寝そべっていたりもする。猫扱いか。

*2:”Scribe”、本を複写する人。

*3:”The erotic uses of exotically shaped tubers”
もちろんイザベラ著 “One Hundred and One Ways to Use a Phallic Tuber”のこと。

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第36章 良い考え への2件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    >床に座っていても良いのは動物と、小さな子供と、ワインを抱えたフェンリスだけ

    と、フェンリスを抱えたゼブランだけなんすねわかりますわかります(違

    • Laffy のコメント:

      うんにゃ、ソファにゆったり腰掛けたゼブランのふくらはぎにフェンリスが頭を押しつけて、手は太ももに置いて、スリスリするんです。猫か(笑)。

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