第69章 知覚の変化

もう夜も更けていたが、セバスチャンは少しも疲れを感じていなかった。彼はその夜ほとんどずっと暖炉の前に座って、薪が緩やかに燃え尽きていくのをただ眺めていた。彼の肘の高さのテーブルには封の切られたワインが一本置いてあったが、ワイングラスは彼の手の中に忘れられ、その夜を通じて彼はワインをほんの数回啜っただけで、酔うにはほど遠かった。

暖炉の中の薪がとりわけ大きな音を立ててはじけ、赤々と燃える石炭の上に崩れ落ちた。セバスチャンは瞬きをすると、それから溜め息をついて彼のグラスを置いた。

図書室から、何か無味乾燥で退屈な本を取ってこよう、彼はそう思った。座ってしばらくそれを読もう。多分その内に眠くなるだろう。彼は立ち上がると、この夜分遅くには図書室は既に消灯されていると知っていたので、ろうそく立てを暖炉の上の棚から取ると、器用に暖炉から直接火をろうそくに移した。彼は居室から廊下に出ると、そこに立っている当直の衛兵に頷いて見せた。
「ここに居ろ」と彼は命じた。「図書室へ行くだけだ」

図書室の扉は彼らの立哨位置から見えたため、彼らは頷くとその場に留まった。セバスチャンは図書室に向かって数歩歩き出してから、そこに別の衛兵が一組、辛抱強く見張りを続けていることに気が付いた。彼はその二人に見覚えがあった。アンダースの護衛だ。彼は近付くとその前で立ち止まった。
「アンダースはこんな遅くに、まだ図書室の中に居るのか?」

その一組のうち年長の方の衛兵が頷いた。
「はい、閣下。サー・フェンリスとの授業が今日の午後に有りましたので。彼はここに夕食を運ばせました。最後に見た時には、まだ読書していました」

セバスチャンは、メイジの邪魔をするのは気が引けて一瞬ためらったが、それから昼食の後でゼブランと交わした会話を思い出した。結局、アンダースと話をしなくてはいけないのかも知れない。彼は先に進むと、図書室の扉を彼のために開けた衛兵に軽く頷いて礼を言った。

アンダースは前はそうしていたとしても、もう今は本を読んではいなかった。

壁一面の書架が見下ろす洞窟めいた巨大な図書室の中は、突き当たりにある細長い縦窓に中央を合わせて据え付けた机の上の、一本のろうそくが灯す微かな、小さな光の輪を除いてすでに暗闇に閉ざされていた。セバスチャンは静かに前進し、彼のろうそくも同じような微かな灯りの輪を彼の回りに描いていた。
机のすぐ側に近付づくまで、彼はその縦長の窓に向かって立つ人影が眼に入らなかった。机のろうそくが放つ光の輪のぎりぎり向こう側で、その人影は窓の外の雪景色を見つめていた。アッシュがろうそくのすぐ側の机の上で丸くなり、眼を閉じ顎を胸毛に埋めたその雄猫の姿は、まるで小さなライオンのようで、猫の低いゴロゴロという喉声と、静かに歩くセバスチャンの柔らかな室内履きが床に擦れる音だけがその部屋に響いた。

彼は猫から人影に視線を戻し、静かに佇むメイジの向こうにある窓の外を見た。また雪が降っている、と彼は気付いた。ゆっくりと、しかし絶え間なく降りつもる雪。大きなフワフワとした雪片が、次々と滝のように舞い落ちていた。彼は突然、自分が幼い子供だった時分のある夜、この図書室の同じ場所で彼の祖父の大きな椅子にもたれ掛かり、雪が窓の外に渦を巻いて落ちてくるのを二人で見ていたことを思い出した。
絶え間なく落ちてくる雪片が時折彼に与える、まるで雪が上から落ちてくるのではなく城全体がゆっくりと昇っているような、奇妙な浮遊感覚。少しの間、彼はその奇妙な知覚の変化がもたらす目眩に近い感覚を味わっていた。

彼は机の側で立ち止まった。そこからは自分自身が窓に映ったおぼろげな影を見ることが出来た。
「アンダース」と彼はそっと言った。

アンダースはびくっと驚いて振り向き、そこにいるのが誰かを悟るまでほとんど怯えているようにさえ見えた。
「セバスチャン」と彼は静かに答えると、灯りの輪へ一歩近付いた。

その男の姿を見て、セバスチャンの胸は強く締め付けられた。ろうそくの光が彼に微妙な陰影を投げかけ、その男の服の皺一本一本にくっきりと陰影を投げかけ、彼の肌はほのかな金色に輝き、赤みを帯びた金髪が微かに煌めいていた。
微かな光に二人の瞳は大きく開き、暗い青色と濃い蜂蜜色の眼が一瞬出会った時、セバスチャンはこの男が彼にとってどれ程大切なものとなっていたかを悟って口の中が乾くのを感じた。自分がどれ程彼に触れたいと思っているか。彼を抱きしめたいと思っているか。

「すまない、こんなに遅くなっていたとは気付かなかった」とアンダースは言うと、素早く目線をセバスチャンから逸らせた。「もう行かないと」

「いや……ここに居てくれ」とセバスチャンは優しく言った。
「つまり……お前と話をしないといけない」と彼はためらいながら付け加えた。

彼の方にちらりと眼をやりながら、男の顔に微かに心配げな影が過ぎった。
「何について?」とアンダースは、セバスチャンよりむしろ猫の方を見ながら尋ねた。

セバスチャンは溜め息を付いた。「色々なことについて」と彼は言うと、周りを見渡してろうそく立てを机の上に置き、それを中央へと押しやって机の端に軽く腰掛けた。
「座ってくれ、もし良かったら」と彼は机の後ろの椅子を手で指しながら言った。

アンダースは彼の頭を極小さく振った。
「ここでいい」と彼は言った。

セバスチャンは頷いた。彼はアンダースを一目見てから、視線を移して雪の降り続く窓の外をじっと見つめ、暗闇に閉ざされた部屋で唯一の光が届く範囲にいる二人の奇妙な親密さに、居心地の悪さを感じていた。
「ゼブランが、お前はソリアと共に旅に出るか、あるいは望むならアマランシンへ戻る選択肢もあったのに、それにも関わらずスタークヘイブンへ戻りたいとお前が言ったと教えてくれた。なぜだ?」

アンダースは驚いた顔つきで彼を見ると、また唐突に顔を背け彼同様に雪の降る様子を眺めた。
「理由の一つは、君も知っている」と彼は低い、傷ついたような声で言った。

「ああ、そうだな」とセバスチャンは静かに答えた。彼は男の背中を、肩を丸め消沈した様子を見ていたが、それから彼の注意を、僅かに歪んだ窓ガラスに映ったアンダースの姿に向けた。ろうそくの向こう側、窓のより近くに立っている彼の姿は、ろうそくの側に座っているセバスチャン自身が映った影よりも、ずっと暗くぼんやりしていた。
「だが私には、それだけが理由とは思えない。あの後では……」彼の言葉は途切れると、自分を落ち着かせるように大きく息を吸った。
「間違い無く、その他にも理由があるだろう?」

しばしの間、彼らの間に重い沈黙が降りた。それからアンダースは俯いた頭を上げ、ほんの少し首を回してセバスチャンが後ろで机の端に座っている方を見た。彼は片手を上げるとそっと窓ガラスに触れ、指が降り続く雪片の軌跡を追うかのように下へと動いた。二人とも彼の手を見つめた。

「ああ、他にも理由がある」と彼は低い、穏やかな声で答えた。彼は大きく息を吸うと、更に言葉を続けた。
「ここには友人がいる――フェンリス、ドゥーガル、シスター・マウラ、それに何人かの僕の護衛達も。それにアッシュと犬達。それに、君は僕にやるべき事、役に立つ仕事を与えてくれた、病の者を癒やし、あるいは全ての人々が自由に生きるための方法を探ると言ったような。君と協力して、君が迎え入れたサークルメイジ達にも良いことをしたと思う、カイラのような若いメイジ達にとっても。僕はこれがどうなるのか見てみたい。あるいはそれによって僕が犯した害悪の一部でも、償いが出来るかも知れない」

アンダースは眉をひそめると、ゆっくりと言葉を継いだ。
「その他にも……カークウォールの後では、僕は自分の判断が信じられなくなった。時々、僕は恐ろしくなる、いつかジャスティスが戻ってきて、僕はまたかつてのようにこの世界を、無数の灰色の濃淡で彩られた本当の姿では無く、黒と白しかない姿で見るようになるのだろうか。また僕は……彼は……僕達は害を為すのだろうか。僕達がカークウォールでそうしたように」

彼はしばらく黙り込むと、ガラスに映る曲がった線の形を、一本の指で優しく追った。
「君が、僕に何をすべきか教えてくれると、僕は信じた」彼はとても静かな、かろうじて囁きよりは大きな声で続けた。
「もしジャスティスが戻ってきたら、君とフェンリスがきっと……」彼は言葉を切ると、窓の外の暗い空を見上げ大きく息を吸った。
「きっと僕が誰にも危害を加えないようにしてくれると思った。それがどんなことであっても」

彼は再び手をガラスに添えると、その上で緩く握った。
「だけど君の存在が、やはり僕が戻ろうと思った最大の理由だ。僕は……君が好きだ。とても、好きだ」
彼はひどく静かにそう言い終えると、まるで凍り付いたかのように立ち尽くし、ただ手を窓ガラスに置いたその場所を眺めていた。

セバスチャンは大きく息を飲んだ。それから深く息をついた。
「私もお前が好きだ」彼はとても優しくそう言い、その言葉を聞いたアンダースの全身を走り抜ける微かな震えと、ガラスに当てた手が大きくぐいっと動いてから、また元の位置に戻るのを見た。そして唐突に、彼は二人が立っている角度から、アンダースの手が触れていたのはガラスに映る彼の影であったことを悟った。あのガラスの上の小さい慈しむような指の動きは、アンダースが彼自身の姿をなぞっていたのだった。彼は大きな塊が喉に込み上げるのを感じた。

彼は手を大きく差し出した。
「アンダース。ここへ来い」と彼はかすれた声で言った。

アンダースの手が窓ガラスから落ち、大きく見開いた怯えた眼で肩越しに振り返った。

「お前を傷つけたりはしない」セバスチャンはささやいた。「ここへ来るんだ」

メイジは身体を回すと、彼らを隔てる数歩の距離を縮めると、手の届くちょうど外側で立ち止まった。セバスチャンは机に腰を掛けたまま身体を前に傾けて、手を取るとアンダースを引き寄せた。両手の中にあるアンダースの片手を見おろし、冷たいガラスに当てられていた部分の手の冷たさと、それ以外の温かさを感じていた。彼は今始めて見るかのように、その手をじっと見つめた。長く力強い指、幅広い掌、手の甲には血管と腱と、古い傷跡が盛り上がっていた。彼は言うべき言葉を探したが、しかし見つけられなかった。

「メイカーは癒しの手をお前にお授けになった」と彼はようやく言った。
「他の人々がそう思ったとしても、私はメイジの力がメイカーの呪いだとは信じてはいない。魔法は単なる道具に過ぎない、その存在からではなく使われ方によって善き物にも悪しき物にもなる」

彼は勇気を奮い起こして視線を手から上げ、アンダースの眼を見た。メイジは静かに立ち尽くしたまま彼をじっと見つめていた。アンダースの片手を彼の手で握りながら、彼はもう一方の手を上げてそっと優しくアンダースの頬に触れた。それから彼の指でメイジの赤み掛かった金髪を梳くと首筋へと撫で下ろし、あの運命の夜と同じように掌の下で響く鼓動を感じていた。

「私も、お前のことが好きだ」と彼はさっきの言葉を繰り返した。
「お前も知っているように、たとえあらゆる理由からこれが……愚かな愛着だとしても。私は……」
彼は言葉を切ると、息を飲んで幾度か大きく瞬きをした。
「私とずっと一緒に居て欲しい、アンダース。少なくとも、友人として。それ以上はまだ何も約束できない。今はまだ。それでも良いか?」

アンダースも幾度も瞬きをしていた。彼の肩と背中が、ゆっくりと真っ直ぐに伸びた。
「ああ。それで良い」と彼は優しい声で答えた。

セバスチャンは彼の手を離すと真っ直ぐ立ち上がり、とても注意深く両手を男の身体に回して、彼の方へと引き寄せた。彼は額をアンダースの肩に当て、そしてメイジの腕がためらいがちに彼の身体に回されるのを感じた。長い間彼らはただそこに立ったまま、静かにお互いを優しく抱き、再び大部屋はアッシュのゴロゴロ鳴らす喉音と、彼らの深くゆっくりとした息づかい以外は沈黙で満たされた。

「ありがとう」とセバスチャンはようやく言うと、男から腕を放した。アンダースは頷き、彼の片手を上げるとセバスチャンの額に手を軽く当て、親指が頬骨に軽く触れた。彼の眼には……セバスチャンは彼の眼に浮かぶ表情を現す、充分強い言葉を知らなかった。歓喜、とでも言えば良いだろうか。メイジは静かに上半身を傾けると、彼の唇に軽く、短いキスをするとそれから後ろへ下がった。温かな笑みが彼の唇に、そして同じような温かい光が彼の眼に浮かんだ。

「おやすみ、セバスチャン」とアンダースは穏やかな声で言った。彼はアッシュを抱き上げ、ろうそく立てを手に持つと立ち去った。

セバスチャンはガラスに映るアンダースの影を、男が背を伸ばした確かな足取りで彼から遠ざかるのを見つめていた。彼は微かな笑みを唇に浮かべ、大いなる平穏が彼の心を満たすのを感じた。それから彼のろうそく立てを持つと、自分の寝室へと戻っていった。彼は安らかに、深い眠りに着いた。

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第69章 知覚の変化 への4件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    ……………………………………………………

    くっそうリア充爆発しろwwww

    末永くお幸せにっつーか
    まだ二波乱くらいあるけどな!w

  2. Laffy のコメント:

    コメントありがとうございます(^.^) 
    うははは。上げておいて落とす。これ定番。

    ところでこの二人はほぼ身長一緒ですが、セバちゃんはずっと机に腰掛けているので会話の間少しだけ視点が低くて、しかもここへ来いとか命令してるくせに、じっと手なんか見ちゃったりして、それからアンダースの顔を見上げる訳ですよ。「それでも良い?」って。(*゚∀゚)=3

    次の章でもアンダースのご機嫌っぷりがたっぷりと。
    あとフェンリスの困り顔(・ω・)とか。

  3. EMANON のコメント:

    >あとフェンリスの困り顔(・ω・)

    あんだーす先生のかきかたのお稽古が
    いつのまにやら恋愛講座・初級編になるんですね

    フェンリスにもガムテが必要かなw

  4. Laffy のコメント:

    地底回廊読ませて頂きました(^.^)

    ぬおおおおおホーク頑張れ>< ゲーマーじゃ無いからネタ判らんw
    やっぱり登場ガマの穂。
    切り傷擦り傷全般に効きます日本人なら知ってる因幡の白兎w

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