第74章 友情と信頼

セバスチャンは微笑みながら、アンダースが庭に出て冬枯れた草木を片付けようとしているのを見つめた。メイジが一人きりで無いのを見て、彼の微笑みはさらに大きくなった。フェンリスが彼の作業を手伝い、ゼブランもそこにいて、ベンチに座って他の二人が池の周りで働くのを眺めていた。ハエリオニがゼブランの側でまるで彼のお守りをするかのように座り込み、エルフは彼女の耳を優しく掻いていた。セバスチャンは一瞬ガンウィンはどこかと不思議に思ったが、すぐに庭の奥の方へと背の高い茂みを掻き分けて行く尻尾が眼に入った。彼は興味を引くもの全てに鼻先を突っ込みながら、元気良く尻尾を振り回していた。

彼がゼブランに視線を戻した時、エルフが頭を上げまさに彼の方を向いて見ているのに気付いた。彼は一瞬凍り付き、ほとんど窓から後ずさりしそうになったが、アサシンはただ微かに笑って再び庭の方に向き直った。彼はまるで何か悪い事をしているところを見咎められたような気分になって、思わず顔を赤らめた。
確かに、この庭を見下ろす窓のことを知っているのが彼一人というのは、少しばかり奇妙な話だったかも知れない。他の誰にもましてあのアサシンなら、そのことを即座に見抜くだろうと予想しておくべきだった。しかしこの窓から庭を見渡せるというのを、彼が秘密にしていた訳では無かった――大体アンダース本人も、まさにこの部屋に数日以上寝泊まりしていたのだから、ここに居る間に窓から見える景色に気が付いていても良さそうなものだった。単にその……つまり、わざわざアンダースに、庭の壁の外から彼の姿を見ることが出来ると知らせようとは思わなかった、それだけのことだった。

あるいは完璧に名誉ある行いでは無かったかも知れないが、もちろん悪意など無かった。あのメイジの意図がまだ完全に掴めていなかった間は、彼にとって更なる安心材料だった。そしてその後、今となっては……彼が好んで行い、再開出来て嬉しく思う習慣になっていた。とはいえ、アンダースに外から彼の姿が見られていると知らせる方が、より礼儀に適うと思われた。

その適当な方法について考えながら彼は微笑むと、泥だらけになっても構わないような簡素な服装に着替えるため大きな造り付けの衣装棚へと戻った。

「やあ、おはよう!」しばらく後に彼はそう言いながら、コテージを出て庭にいる他の三人に加わった。フェンリスとアンダースは作業の手を止めて彼の方を向くと、アンダースは嬉しそうに微笑み、フェンリスは軽く頭を下げて頷き、そしてゼブランは愉快そうに静かに歯を見せて笑った。
「君たちがみんな外で頑張っているのが、私の部屋の窓から見えてね。今日は午後まで急ぐ仕事は無いから私も入れて貰おうと思ったのだ」
にこやかに皆に笑いかけながら彼は言った。

アンダースの笑みが一瞬消えると、彼の視線はセバスチャンの頭上を彷徨い、そして確かに、天守の壁に彼の庭を見下ろす小さな高窓が一つあった。彼はセバスチャンに視線を戻すと、再び顔に明るい笑みを浮かべた。
「手伝ってくれるなら嬉しいよ」と彼は言った。
「池の周囲の茂みをどうにか片付けようとしているところさ、それから池の中の汚らしいのもね。そうしたらまた綺麗な植え込みに出来るかも知れない」

セバスチャンは頷くと、池の周りにとりわけ酷くはびこるコリヤナギの、小さい花を付けた強靱な小枝を刈り取る作業に手を貸しながら、池の中の水に浸かって腐った植物の残骸をどう取り除くかを相談した。

ゼブランもその内に立ち上がって彼らの方に歩いてきた。
「じっと座っているのはもう飽き飽きしたよ」と彼は言った。
「片手しか使えないし前屈みの作業も出来ないけど、きっと何か手伝えることがあるんじゃないかな?」

アンダースは彼にヤナギを刈り取るのに使っていた剪定鋸を手渡すと、自分は池からなにがしか汚らしい残骸を取り除くため、熊手を取りにコテージの裏へ向かった。フェンリスは小枝を載せた手押し車が一杯になったのに気付いて、堆肥を積み重ねた一角へと車を押して行った。彼は剪定したコリヤナギの細長い枝を、後でアンダースが本当の堆肥の山の上に積み重ねて、あたかも枝を編んだような目隠しとして使えるよう、そこの片隅へと寄せて積み上げた。

ゼブランはセバスチャンをちらりと見た。
「上手くやったね」と彼は静かな声で言った。

セバスチャンは彼に向かってニヤリと笑ってみせると、軽く肩を竦めた。
「庭の中に完全なプライヴァシーがある訳では無いと、とっくの昔に彼は知っていると思っていたが。ともかく……彼の信頼は私にとって大事なもので、どうやらそれを得ることが出来たようだ」
と彼はとても穏やかな声で語った。

ゼブランは頷いた。
「信頼は得がたいだけに貴重な物だ」と彼は言うと、フェンリスが刈り落とした枝をコリヤナギとそれ以外の太い枝の二山に分けて積んでいる方を見た。
「時には時間が掛かることもある。だけどいつだって、それだけの価値はあるのさ」

セバスチャンもフェンリスの方にちらりと目をやった。
「まだ心臓を胸の中に無事抱えているところからみると、君もフェンリスを怒らせては居ないようだ」

ゼブランは大きく口を開けて笑った。
「まさにそう。とても興味深い人物だね、君のフェンリスは」

私のフェンリスでは無いよ」とセバスチャンは速やかに訂正した。
「彼は自立した男だ」

「その通り、そして実に可愛らしくも込み入った男だ。彼の見識の広さと来たら驚くね、とりわけ、ようやく最近になって読み方を習いだしたところと聞いては」

セバスチャンは同意して頷いた。
「私も最初は驚いたものだ。彼は卓越した記憶力を持っていて、彼の知識のほとんどはマジスターと他の者達が話していることを聞いて覚えたという。彼の読み方の技能がもっと向上したら、一体何を学びたいと思うのか是非見てみたいものだ」

ゼブランは考え深げに頷いた。
「良い記憶力も持っていて損の無い技能だね。クロウでもそうするよう教えられるよ、何しろ些細な事柄を覚えていられないようでは、生き延びることは出来ないから」

アンダースが戻ってきて、池の底を熊手でさらおうとした。最初彼は池に溜まった嵩高い物体を掻き上げようとしたが、すぐにその考えを改めて小さな物からほんの少しずつ掻き上げるようにした――水に浸かって腐った草木は重く、しかも底に溜まった硫黄臭い泥の層を巻き上げる度に悪臭が漂った。

フェンリスは手押し車と一緒に戻ってくると、その匂いに嫌な顔をした。
「また野生動物がこの池に住めるようになる前に、一度干し上げて底を攫わないと駄目なようだ。この泥の中でも育つ草はあるだろうが、魚のような生き物が耐えられるとは思えない」

「池に魚が居た方が良いか、アンダース?」とセバスチャンは興味深そうに聞いた。

「うーん、多分ね。何か生きているものが居ないと、本物の池のような気がしない。少なくともカエルか、カメか。それか色の付いた綺麗な魚も良いな」

「例えちょっとした小魚でも良いよね」と言いながらゼブランが近づいてきて、泥だらけの水面を覗き込んだ。
「だけどフェンリスの言うとおりだろうな、一度干し上げて、底まで綺麗にするために掘り直さないと。長い間ほったらかしだったようだし、完全に泥で埋まっていないのがむしろ驚きだね」

アンダースは難しい顔をした。
「そうなると、どうしたら良いのか僕には判らないな」と彼は言った。

「誰かを雇って、その仕事をさせるという手はある」とセバスチャンが提案した。
「種蒔き祭で私達が出かけている間に済ませてしまえば、臭いを堪え忍ぶ必要は無い」

「それが賢明だ」とフェンリスが言い、熊手をアンダースから取り上げて既に池から引き上げた腐った草木を手押し車に掻き寄せると、それから熊手を返し、その悪臭物質をさっさと始末しようと車を押して立ち去った。

「さて、そうすると僕は他にやることを見つけた方が良さそうだ」とアンダースは溜め息を付いて、他に使えそうな道具を探しにコテージの方へ向かった。

その後彼とフェンリスは、野菜畑とする予定の区画とコテージ正面の元花壇を片付けることに決めた。彼らは昼が近付くまで頑張って働き、必要な者が皆――つまりゼブラン以外全員が――昼食の前に綺麗な服に着替える時間の有るように、充分余裕を見て午前中の作業を終えた。

昼食の間中、彼らはアンダースが野菜畑に植えたいと思う植物について話を続けた。午後からは会合があり庭に戻って働くわけには行かないことに、セバスチャンは少しばかりがっかりした。ここの所彼は仕事で座ってばかりだったので良い気分転換になっていた。

今日の激しい肉体労働の後で、今夜彼の身体のあちこちが痛むのは間違い無かったが、それでも彼ら四人が共に働く間にアンダースの見せた笑顔だけでも、その価値は充分にあった。


「今日の仕事は終わったから、後はもう熱い風呂があれば最高だね」とアンダースは溜め息を付くと、二人のエルフに笑いかけた。
「今日は手伝ってくれて本当にありがとう――考えていたより、遙かに作業が進んだよ」

ゼブランは温かく微笑み返した。
「面白い気分転換になったし、一日良い天気だったしね。必ずしも毎日やりたい訳では無いにしても、時々なら楽しいものだ」

フェンリスは同意するように頷いた。
「そうだな。俺もまた時々手伝いに来よう」

「そうして貰えれば有難いね」とアンダースは言った。「じゃあ、さよなら。二人ともまた明日昼食で会おう」と彼は言うと別れの挨拶に手を振って、犬達を口笛で呼び寄せながら彼のコテージへ戻っていった。

エルフ二人も手を振ると、天守へと歩き始めた。
「さて。今晩何か予定はあるかな、友よ?」とゼブランはフェンリスに期待を込めて尋ねた。

フェンリスは頭を振った。
「いいや、今夜は特に何も。セバスチャンは誰か貴族が開くパーティに参席すると言っていた」

「ああ、それなら代わりに僕と夕食に付き合って、その後話でもしないか?」

フェンリスは横目で彼をちらっと見て、はにかむように微笑んだ。
「そうだな、それも楽しそうだ」と彼は答えた。
「と言っても、あのメイジの言うとおり俺も先に風呂に入りたい」

ゼブランは頷いた。
「もちろん。幸い僕の仕事は君達よりはずっと楽だったけど、そうで無かったら僕も現時点で風呂に入りたくて堪らなくて、この忌々しい包帯に嘆き悲しんでいただろうね」

フェンリスは再び彼の方をちらっと見た。
「後包帯が取れるまで、どのくらい掛かりそうだ?」と彼は興味深げに尋ねた。

ゼブランは嫌な顔をした。
「もうすぐってアンダースは言うんだけどね、僕が聞く度に。だけど腕の様子を見ると何時もまだ駄目だって言うんだ。どうも彼と僕では、『もうすぐ』という言葉の定義が一致していないようだよ」

フェンリスは面白そうに笑った。
「それじゃ。風呂に入って着替えたらすぐに来よう」

「待ってるよ」とゼブランは笑みを大きく浮かべて請け合った。

フェンリスが立ち去った後、彼は急いで部屋に戻って召使いを呼び、慎重に考えて夕食を頼むと着替えと入浴のために浴室へ向かった。もちろん彼はまだ一人で風呂に入る訳には行かなかったが、長い療養期間の間に特殊技能、つまり腕一本での着替えには熟達していた。彼は石けんを付けて泡立てた洗い布で、汗臭い代わりに石けんの清潔な香りがするまで身体を拭き取ってから清潔な服に着替えた。

フェンリスは殊の外早い時間に到着した。明らかにこのウォーリアーは、もしゼブラン自身が機会があればぜひ享受したいと思っている贅沢な風呂ではなく効率的な入浴を好むようだった。彼の髪の毛はまだ濡れて額に貼り付き、そして驚くことに彼の鎧の替わりに、素敵な室内着を身に纏っていた。艶消しの黒に近い灰色のレギンスと、黒革の室内履き、それに淡い灰色のシャツの首と手首の縁は美しい銀糸の刺しゅうで彩られていた。

ゼブランは彼に見とれながら笑顔を見せた。
「君が鎧の代わりに普通の服を着ているところを見せてくれるのは、今夜でまだ二回目だね、知ってた?」

フェンリスは少し顔を赤らめた。
「俺は一日中鎧を着ていても慣れているから何とも思わないが、これはセバスチャンと夕食を共にする時に着る服だ。彼が適当な服を俺のために何着か仕立てさせると言い張って――いつも同じ鎧をずっと着ているのを見ると、眼が痛くなるとか、何とか」

ゼブランは声を立てて笑った。
「実に思いやりのある友人だね、彼は」と彼は言った。

「そうだな」とフェンリスは答えた。

ゼブランは彼に近付くと、ゆっくりと手を伸ばして、フェンリスの手首を取ると持ち上げ、縁の縫い取りをじっくりと観察した。
「実に手の込んだ仕上がりだね。僕もセバスチャンに頼んで彼の仕立て屋を紹介して貰わないといけないな。もちろん採寸のために立っていられるようになった後だけど。ヴィジルズ・キープを出る時に綺麗な服は皆置いてきてしまったし、僕は嘆かわしいまでに衣装には凝る方でね」
彼は大きな笑みを浮かべると言った。
「だけどさあ、座って。夕食が来るまで座って話でもしよう」と彼は付け加えると、フェンリスの手首から手を離す前に親指でそっと手の甲を撫でて、それから辺りの座れる場所を指し示した。

フェンリスは微かに顔を赤らめたが、何も言わなかった。彼は暖炉の側の長椅子に歩み寄るとそこに座った。ゼブランも素早く同じ長椅子の、すぐ隣では無いが近くに腰を掛けた。

「庭造りについて多少知ってるみたいだね?」とゼブランは不思議そうにフェンリスを見つめながら聞いた。

フェンリスは頷いた。
「俺が実際にボディーガードとして働いて居ない時や、それ以外のことで忙しく無い時に、色々やらされた中の一つだ。ダナリアスは奴隷を遊ばせておくのは好かなかった。植え付けや草取りはそれほどやったことは無いが、庭の花壇を掘り起こしたり、水を運んだり、およそ知識や技術の要らないことは何でもやった」

ゼブランは頷いた。
「僕も上っ面だけは庭造りに精通していることになってる。単に誰かが庭の汚れ仕事に精を出しているからというだけで、どれだけ多くの人々がそれが誰かを見落とすか、本当に驚くよ。必要な時に誰かをこっそり見張ったり、あるいはもっと不埒な目的のために忍び寄る時には実に役に立つ」

「つまり殺すためだな」

「その通り。僕は何と言ってもアサシンだからね、例えもう厳密にはクロウでは無いとしても」

フェンリスは彼を興味深げな顔で見つめた。
「君は殺すことを楽しんでいるのか?」

「時には、そうだね」とゼブランは微笑むと頷いた。
「誰かを殺すその瞬間、彼の運命をまさしく僕が支配しているという感覚。実に癖になったね、もっと僕が若かった頃は」

「だが今は違う?」

「ああ。もう今は違う。そういう感覚はもう何年も前に無くしてしまったよ。もちろん今でも戦うのは楽しいし、殺すことだって躊躇はしない――何と言っても僕の得意技だから。だけど今となっては、そう命じられたから、あるいはそれで金を貰えるからというよりは、そうする必要があるから殺す方が良いと思うようになったね」

フェンリスはゆっくり頷いた。
「それは俺にも判る。俺に何の選択権も無く、ただダナリアスの言うがままに戦い殺していた時と、俺がそうしたいからホークと共に戦い、しかも大抵は殺す相手にはちゃんとした理由が――盗賊に誘拐犯、ブラッドメイジ、奴隷商人――あった時との違いのようなものだな。例えそれが傭兵団として、報酬の良い仕事という以上でも以下でも無かったとしても」
彼はそう言うと微かに後悔するような顔で微笑んだ。
「そして今、セバスチャンと一緒に居て――俺は彼の元に来てからほとんど戦いらしいことはしていないが、もしそうするとすれば君の言うように、その必要があるからだろうな。こちらの方が……俺の意に適う」

「そうだね」とゼブランも同意した。

その時扉をノックする音が聞こえた。ゼブランは身体を硬くした。
「夕食を届けてくれたのに違いないね」と彼は言うと、応対のために立ち上がり、予想していた通りただ一人の召使いが居るのを見て少しばかり緊張を解いた。召使いは大きな覆いの付いたトレイを両手で抱え、埃っぽい瓶を一本片手の下に挟んでいた。
ゼブランは急いで彼から瓶を受け取り、召使いはテーブルの上に大きなトレイを置いた。彼は召使いに感謝の言葉を述べ心付けを渡して出ていかせると、慎重にトレイの蓋をずらして中を覗き、そこに数枚のまだ温かい平パンに、分厚い陶器の深皿に入ったシチューが有るだけなのを確認して、ようやく肩の力を抜いた。

「さあ、食べようか」と彼はフェンリスをテーブルへ呼んだ。

フェンリスは頷いてテーブルにゼブランと一緒に座ると、そこに並んだ深皿の蓋を取って興味深そうに匂いを嗅んで覗き込みながら、柔らかな平パンを一枚彼の皿に取った。
「これはひよこ豆のシチューだな。それとこれは……ふーむ、刻んだ羊肉か?後の二つは見たことが無いな」と彼は言うと、ひよこ豆のシチューを数匙平パンに載せ、クルリと器用に巻いて食べた。

「こっちの皿は牛挽き肉と大豆に、トマトと唐辛子を入れた煮込み。それとこれが……この明るい黄色のスープは、ピリッとスパイシーな魚のシチューだよ。アンティーヴァでは海で取れる新鮮な魚介を入れるけどね、ここは多分何か川魚の類だろうな。それと…ジャガイモも入れているようだ」

フェンリスは嫌そうな顔をした。
「俺は魚は遠慮させて貰おう」と彼は言うと、代わりに他の三種のシチューを代わる代わるすくった。ゼブランは片手で平パンを丸めるのが少しばかり不自由な様子ではあったが、どうにか手助けの要らないくらいにこなした。そして彼が失敗する度に、テーブルには指を舐めながらの笑顔と大きな笑い声が上がった。

彼らはほとんど沈黙したまま、その日の激しい労働の後での空きっ腹を満たし、それからゆっくりと様々なシチューの味わいを語り合い、ひよこ豆のシチューが一番と言うことで合意した。羊肉は味付けは良かったがやや筋っぽく、牛挽き肉と大豆は煮込み過ぎの柔らか過ぎ、それに唐辛子は最初から入れない方が良いように思われた。彼らはそれから更に各シチューの大部分を平らげ、もちろん魚のシチューはゼブランだけが食べて、まあどうにか許容範囲だがアンティーヴァの味には遠いと断言した。

ゼブランは呼び鈴を鳴らして召使いを呼び寄せると、彼が皿をまとめて引き下がった後ようやく、先に持って来させた埃っぽい瓶を取り上げた。
「そしてブランディをデザートに」と彼は言うと、彼一流の人好きのする笑顔をフェンリスに見せた。
「悲しいかな、アンティヴァン・ブランディでは無いけれど、地元の上等の銘柄だというよ。どう?」
そう彼は言うと、瓶で再び暖炉の側の椅子を指し示した。

フェンリスは頷いて、二人のためにグラスを持ってきた。彼らは長椅子に一緒に座り、今度はフェンリスのすぐ側にゼブランは腰を下ろした。ゼブランは手の中の瓶を見下ろして軽く眉根を寄せた。
「僕自身で開けられそうに無いね、これは」と彼は言った。
「コルクが堅すぎて、片手で取るのは無理だ」

「俺にやらせてくれ」とフェンリスは重々しく言うと、手を伸ばして彼の手から瓶を取り上げた。彼はそれを片手で持ってもう片方の手を瓶の首に近づけた。手からゆらゆらと青色の微かな光が沸き上がり、彼は手を更に瓶に近づけると、それから握った手を開いて掌の中のコルク栓を見せた。

「あはっ!パーティで見せる手品には最高だね」とゼブランは嬉しそうに叫んだ。
「君の、その……心臓を人の胴体から引っこ抜くという話について聞いたことがあるけど。これと関係するのかな?」

フェンリスは顔をしかめると頷いた。
「そうだ。この紋様が俺に与えた力の一つで、固体の中をすり抜けて対象に触ることが出来る。今見たように、俺は……どの対象物に触って、どれをすり抜けるかを選ぶことが出来る。だが実際のところ、これがどう働いているのか俺は知らん。単にそうしようと試すだけで、大抵は上手く行く」

「実に興味深いね。まあ、ブランディを試してどんなものか見てみようじゃないか?」とゼブランは言うと、両方のグラスに僅かばかりを注いだ。彼らは芳醇な匂いを楽しみ、次いで口中に少しばかり含んで味わった。ゼブランは嬉しそうに舌鼓を打った。
「いけるね。しかしながら……」

「アンティヴァン・ブランディほどでは無い」とフェンリスが彼に被せて言った。ゼブランは何か言いたかったことを続ける前に吹き出して大声で笑い、それからフェンリスに向かってニヤッとした。
「あるいは僕の、愛する母国とブランディへの思いは少しばかり見え透いていたかな。だけどそれを話すのは止めておこう、僕が憂鬱になってしまうからね」と彼は言うと、更にブランディを二人のグラスに注いだ。

フェンリスは頷いた。彼らは心地良い沈黙の中ブランディを少しずつ啜った。しばらくして、ゼブランはフェンリスに身体をすり寄せるようにすると、脚を押し付けて彼の方に身体を傾けた。片手にグラスを持ったまま一本指を伸ばすと、指先でそっとフェンリスの腕を優しく撫ぜた。
「この服は君によく似合ってるよ」と彼は、低く滑らかな声で言った。
「君の鎧よりずっと……親しみやすいしね」

フェンリスは横目で彼を見ると微かに笑った。
「そうかもしれない」と彼は同意した。彼が見ている間に、ゼブランはまた一口ブランディを飲むと、それからグラスを脚の間に挟んで手をゆっくりとフェンリスの肩に置いた。
「緊張しているね」とゼブランは穏やかに言うと、片手で優しくそこの筋肉を揉みほぐした。

フェンリスは自分のグラスからまた一口ブランディを啜った。
「少しな」と彼は答えた。
「君は……」何が言いたかったのか途中で判らなくなって、彼の声は途切れた。近付きすぎる?そう。ハンサム?もう一人のエルフが彼のことをそう呼んだように?そう。その通りだと、彼は思った。そのやや浅黒い肌と鮮やかな金髪が、改めて彼の眼を引いた。見た目通り絹のような滑らかな手触りなのだろうかと、ふと彼は思った。

「俺が触っても良いか?」とフェンリスは自分がそう尋ねているのを聞き、思わず顔を赤らめた。

ゼブランは彼に微笑んだ。
「もちろん」彼は嬉しげに言うと、手を肩から降ろして再びグラスを持ち、身体を少し捻ってほとんどフェンリスと向き合う形になった。

フェンリスは一瞬ためらい、それからグラスを側の小テーブルの端に置くと、再びもう一人のエルフの方に振り向いて不安げに見つめた。どこを触れば良いのか、彼には判らなかった。そしてようやく、ためらいがちに彼は手を伸ばすと、ゼブランの怪我をしていない右肩のすぐ下に、平たく掌を当てた。
彼はもちろん、以前にも他人に触れたことはあった、色々な理由で――戦いの中で相手を引っ掴んだり、手で押しやって誰かの道を遮ったり、あるいは誰かが生きているのか死んでいるのかを見たり――しかし彼の覚えているうちで、ただ触れるためだけに触っているというのは、今回が初めてだった。それは随分と……奇妙な感じがした。こんな簡単な仕草が、本来そうで有るべき姿よりずっと遙かに親密に感じられた。

彼は薄いシャツの生地を通してゼブランの体温を、彼のゆっくりと上下する胸の息遣いを、落ち着いた心拍を感じ取った。彼はずっと俯いて、彼の手がシャツに触れているところを見つめていた。暗オリーブ色の手がほとんど白に近い淡クリーム色のシャツに触れているところから、ほんの数インチ上の首元に、深い金色に輝く肌が覗いていた。不安げに下唇を噛みしめながら、ごくゆっくりと彼は触れていた掌を上げて、そこの素肌に指を伸ばした。

そこも、温かい感触がした。温かく柔らかかった。服から素肌へ移り変わるところを覆うように、彼は胸に手を当てた。それから彼の手に掛かる圧力が増して、彼は驚いて顔を上げ、エルフが彼の方にゆっくりと上半身を傾けていることに気づいた。彼は後退りしようかと考えたが、もう一人のエルフの動きには何の脅威も感じられず、ただゆっくりと、しかし止めがたい力で彼に近付いてきた。

エメラルド色の眼は、吸い込まれるように瞬き一つせず、明るい琥珀色の眼を見つめていた。ゼブランの手がグラスを抱えたまま優雅に上がり、彼は手の甲でフェンリスの頬を撫でると、それから手を捻り、指先でフェンリスに前屈みとなるようごく微かに圧力を掛けた。彼は一瞬ためらったが、それからその指先に身を任せ、微かに身震いをした。もう一人のエルフはあまりに近すぎて……彼は眼を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

唇が彼に、とても優しく、羽根が静かに落ちるように触れた。何もかも静寂の中動きを止める中、彼は周囲の全てを感じ取れるようだった。未だに彼の手の下にある布地と素肌の感触、彼の肌に当たるゼブランの息遣い、もう一人のエルフのわずかに早い心拍、自らの胸は痛いほど脈打っていた。彼の首元に当たっている指先の圧力と、ワイングラスの滑らかで冷たい縁、ゼブランの肌から香る白檀と微かなムスクの匂い、そして彼のすぐ側に居る男の温かさ。

今度は僅かに強いキス、湿った舌が彼の下唇をちらっと掠めた。彼の頬から手が離れて、それを一瞬寂しく思ったのもつかの間、ゼブランは長椅子の上に膝を付き中腰の姿勢を取ると、身をぐっと乗り出して上腕をフェンリスの肩に置き、グラスを持ったままの手が彼の首筋に当てられていた。それからゼブランは彼に三度目の、今度はしっかりと強いキスをした。

彼は溜め息を付いた。ゼブランの舌がまた掠めて、彼の唇を味わうと、その先端が唇の間にちらりと入った。彼はその瞬間、かつての押し付けられるキスの不快さを思い出し、思わず身を引くと眼を見開いた。そしてゼブランは彼から腕を放しまっすぐ座り直すと、まるで何事も無かったかのように滑らかな動きでブランディを再び啜った。

彼はそのままじっと座って、酷く取り乱した彼の心臓の鼓動が収まるのを待った。ようやく彼が落ち着きを取り戻した後、彼はまだゼブランの胸に手を当てていた事に気がついた。ゼブランは彼に微笑みかけた。
「いつかまた、この先に進んでも良いよね、どう?」と彼は優しく尋ねた。

フェンリスは顔を真っ赤にしたが、それから頷いた。彼らはブランディのグラスを空け、それから彼はおやすみを言って自分の部屋に戻った。

その夜、彼は自分のベッドに横たわり、眠りに付くのは酷く難しそうだということと、キスが――本物のキスが――判ったということを、幾度も彼の心の中で繰り返していた。そして彼の唇がずっと嬉しげな笑みに曲がっていることも。


平パン(Flatbread)は色々レシピがあるが、ここの描写からすると無発酵の、生地を平たく伸ばして焼いたパンだと思う。

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第74章 友情と信頼 への2件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    今 フェンリスの タガが 音を立てて 外れた   よ

    ゼブランさん責任とってくださいよねっ!w

  2. Laffy のコメント:

    なんか書いても書いても終わらないと思ったら1万字越えてたYO!

    片方は笑顔が見られるだけでも充分とか健気なこと言ってるのに、ゼブラン、お前
    と来たら!
    しかもその後言うことが「また今度」じゃなくて「この続き」とか……!(気がつ
    いてなかった)

    ……ま、いいよねフェンリスが幸せならw

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