第75章 愉快な出来事

アンダースは彼の護衛にさよならを言うと、衛兵詰め所の内側の扉を閉めて庭に入った。また家に戻ってこられたことに彼の顔に自然と笑みがこぼれ、背筋が伸びるのを感じた。ガンウィンが茂みから転がりだしてきて、彼に駆け寄ると歓迎のしるしに尻尾を左右に熱狂的に振り回した。ハエリオニは小道に長く伸びて暖かい日の光を味わっている風だったが、彼の方を見て一応頭を上げると、小道の脇石を尻尾で二回パタパタと叩いた。

アッシュが彼の腕から飛び出て猫とディアハウンドはお互いの匂いを嗅ぎ合い、それからガンウィンは再びどこかへ駆けだして行き、アッシュはトコトコとハエリオニに挨拶しに向かった。アンダースは眼を細めると彼の庭を見おろしている天守を見上げ、その高窓にちらりと人影が見えたような気がしたのでそれに向けて手を振った。実際に窓の中に誰か居たとしても、下からは日中はほとんどの間、明るい空が反射して視線を遮り、そしてそれ以外の角度からは例えガラス窓のすぐ側に誰か立っていたとしても見ることは出来なかっただろう。

セバスチャンがその窓のことに触れた翌日、彼はセバスチャンの寝室を通って昼食に行く時、通りすがりにその場所を内側から眺めてみた。その出窓の低い張り出しに置かれた数多くのクッションと本から判断して、そこは大公が座ってくつろぐ、お気に入りの場所のようだった。
とはいえ、下に有るコテージに彼自身を住まわせる以前から、セバスチャンがそうすることを好んでいたかどうかは彼には判らなかったが。テンプラーの襲撃後、彼の健康状態が回復するまでこの部屋に滞在した時に、ここにクッションが有ったかどうかさえ彼には思い出せなかったが、その当時の彼は取り分けて注意深いという訳でも無かった。少なくともセバスチャンに関する事以外では、と彼は小さな笑みを浮かべながら思った。

ハエリオニがのびのびと横たわっている所まで足を進めて、彼はしゃがみ込むと彼女の耳を掻いてやり、アッシュが彼の尻に背中を擦り付けた。その時コテージの扉が開いて、農夫のような簡単な服を着たセバスチャンが中から出て来た。二人は温かく微笑んでお互いを見つめた。

「今朝の診療所はどうだった?」とセバスチャンはアンダースが座り込んで居る所へと小道を歩きながらそう話し掛けた。

「また忙しかった」とアンダースは答えた。
「避難民キャンプの一つで感染症が多発している。教会がそこの面倒を見ているけど――どうやら今週の雨と雪解け水のせいで、そこの下水が溢れだしたのが原因らしい――彼らが一番症状の酷い患者を診療所に寄こした。今朝はずっとその手当に掛かりきりだったよ、ひどい膿が出ていてね」

セバスチャンは顔をしかめた。
「雨が早く上がって、街の新しい区画の工事が再開出来れば良いのだが。そうすればもっと多くのきちんとした建物を建てて、キャンプの人々を収容出来る様になるし、街の混雑も解消できる」と彼は言うと、アンダースが立ち上がろうとするのに片手を差し出した。

アンダースは実際の所立ち上がるのに助けは必要なかったが、大いに喜んでその手を掴んだ。彼らは再び温かい笑みを交わし、セバスチャンは厳密に必要な時間より少しだけ長く手を握った後、渋々と言った様子で手を離した。

「さて」と彼は明るく尋ねた。「今日は何をするのかな?」

アンダースは当たりを見渡して、何年か前に自然に倒れたと思われる白樺の大木の周囲から若木が伸びているのを指し示した。そこには苔むした長い幹と、蟻に食い尽くされようとしている根本の残骸を覆い隠すように大量の若木が伸び出していた。
「あそこの刈り込みかな、今日の所は。生えるのは良いとしても多すぎるからね」と彼は言った。
「それに手斧と剪定鋸があるから、あの幹を幾らか目立たなくすることも出来るし……」

彼らは必要な道具を集めて仕事に掛かる前に、一番見栄え良くするためにはどの若木を残してどれを刈り取るかを話し合った。セバスチャンは若木の剪定に取りかかり、アンダースが切り取った木を横へ引きずって行った。若木はどれもまだ小さく、充分一人で運べる位の重さだった。

「これは割って薪にするべきだろうな」とセバスチャンはしばらくして、次第に大きくなる小枝と幹の山を見ながら言った。
「カバは例え湿気っていても良く燃える。とはいえこの手斧では小さすぎるな、何か適当な斧が無いか見てこよう」と彼は付け加えると、衛兵詰め所へ向かい、中を覗きこんで衛兵としばらく話をした。衛兵の一人が出てくると、およそ10分後に適当な大きさの斧をもって戻って来た。セバスチャンは彼に温かく礼を言うとアンダースの所へ戻って来た。彼はアンダースに幹から小枝を切り落とすように言って手斧を手渡すと、コテージの側面に積み上げてある薪の山を調べに行き、数分後に薪割り台として使うための、かなりの大きさの輪切りにした幹を転がして戻って来て、若木の幹を短く切り始めた。

アンダースは小枝をせっせと切り落としていたが、ふと顔を上げるとセバスチャンがシャツを頭から脱ぎ捨てていた。腕に光る汗の粒からすると、彼は随分暑くなってきたようだった。彼はシャツを側の茂みの上に放り投げると、再び斧を取って作業を再開した。
アンダースは息を飲んで、若木の幹を切って薪として適当な長さにするため手早く軽々と割っていく、彼の筋肉質の腕と背中をほれぼれと眺めていた。彼は一本切り終えると次を取ろうとして振り向き、その時ようやくアンダースは、自分がが少なくとも数分の間ずっとそこで立っていたことに気付いた。唐突にお互いの視線がひどく意識され、二人とも思わず顔を赤らめた。

「すまない、人目のことを考えていなくて……」とセバスチャンはためらいがちに言った。

アンダースは唐突にニヤッと笑った。
「謝ってもらう必要は無いよ、少なくとも僕は気にしないから」と彼は言うと、再び小枝を切り落とす作業に戻った。

セバスチャンは大声を出して笑い、シャツはそのまま放って置かれた。アンダースは時折横目で作業を続ける彼の方をちらっと見ては、大公のピンク色に染まった彼の耳と頬からして、アンダースが彼のことを見つめていることに気付いていて、ひどく気になっていることは間違いなかった。アンダースはその反応が嬉しくなり思わず唇に笑みを浮かべた。そしてセバスチャンも、あえてそのような称賛の視線を止めようとはしなかった。

「君が薪の割り方を知っているのは驚いたね」とアンダースはしばらくしてから言った。
「およそ大公が知っているような技能には思えないけど」

「ああ、まあ私の祖父は『男たる者生存に必要な技能は一通り身に付けてしかるべし』という考えの持ち主だったからね。清水の見つけ方に始まって、森や野原で食べられる物の探し方、どうやって生木を切って火を熾すか、簡単な避難所の作り方に至るまで叩き込まれたよ。それと農民の仕事全般についても習った。彼が言うには、そもそもその仕事のやり方を知らなくて、どうして仕事の監督が出来ようかとね。そして彼は実践に何より重きを置いていたから、多くの農作業の基礎的な事柄は知っているというわけだ」

「君のお祖父様はきっととても賢い人だったんだろうな」とアンダースは言った。

「その通りだ。他の家族の誰よりも彼のことが懐かしい。それに、私が長じて何か物の役に立つと思ってくれていたのは、一族の中では彼一人だった」

アンダースは再び顔を上げて、セバスチャンに温かく笑いかけた。
「じゃあきっと、彼が今の君を見たら喜んでくれるだろう」と彼は言った。

「そうかな」とセバスチャンは半信半疑の様子で言った。
「彼はまさか私が長じてスタークヘイブン大公となるとは信じていなかったはずだ。だが、私達がここで成し遂げようとしていることを知って、誇りに思ってくれれば良いと思う」と彼は静かに付け加えた。

アンダースは同意して頷くと、中腰の姿勢から立ち上がって大きくのびをして、太陽の角度を眺めると言った。
「そろそろ昼食の時間だから、仕事は止めた方が良さそうだね」と彼は指摘した。

セバスチャンは白い歯を見せて笑った。
「その必要は無いよ。私が今朝、ここの手伝いに来られる時間があると判った時、ある手配をしておいたから」

「ふーん?それでその手配って?」とアンダースは半分面白がり、半分怪しむ様子で尋ねた。

「ほら、答えが歩いて来た」とセバスチャンは言うと、詰め所の方に向かって頷いて見せた。

アンダースは振り向くと、フェンリスとゼブランが庭に入ってくるところが目に入った。フェンリスは大きな籠を両手に抱え、いつもの鎧の代わりに普通の服を着て少しばかり恥ずかしそうな様子で、そしてゼブランは手提げに何本かの瓶を結わえ付けた、ずっと小振りの籠を片手に持っていた。

「お前の庭でピクニックを開こうと思ってね」とセバスチャンは言うと、斧を横に置いてシャツを取り上げた。

「ちょっとばかり泥だらけじゃないかな、ピクニックには」とアンダースは半信半疑な様子で指摘した。

「そっちにベンチが有るから、地面に座る必要は無いだろう」とセバスチャンは言った。
「もし何だったらテーブルと椅子を持って出てくれば、もっとちゃんとした食事になるだろう」

エルフ二人が到着し、彼らは挨拶すると食事の設えについて慌ただしく話し合い、結局テーブルを引っ張り出すと池を回り込む所で幅広になっている乾いた小道の上に置いた。皆でテーブルを設える間あちこち動き回り、それから席に着くときにゼブランがいそいそとフェンリスのすぐ隣の席に座ったのを見て、アンダースは面白く思った。この二人の間柄の進捗がどうであれ、明らかに上手く行っているようだった。

多分良いことだろうと彼は思い、喜んで最後に残った席、つまりゼブランとセバスチャンの間に座った。

昼食はとても美味しかった。皆はそれぞれ、自分の皿に籠から料理を大量に取り分けた――ピリッと辛子の利いたコールド・ビーフのサンドイッチ、サクッとした生地に卵とカリカリに焼いたベーコンを詰めたタルト、ジャムやマーマレード、あるいはカスタードのような甘い詰め物の入った小振りの揚げパイ、柔らかなチーズとハムを巻いたバターの香りのするロールパン、ふっくら膨らんだパイの中には、良い香りのクリームで和えたウズラと鶏の肉、あるいはキノコ、あるいは野菜のペーストがたっぷり詰まっていた。それにスパイスの利いた小さなクッキー、純白の砂糖衣が掛かった可愛らしいケーキ――どれも手でつまんで食べられるものばかりで、大量のワインと共に皆の空きっ腹に流し込まれた。

アンダースは彼の椅子に深く腰掛けて彼のワインを一口啜りながら、ゼブランが何か言ったことに対してフェンリスが明るく――声を出して――笑っているのを見て、彼も嬉しくなり思わず笑みを浮かべた。セバスチャンもパイを一つ囓りながらニヤッと笑うと、彼の目も同じくフェンリスに向けられた。ゼブランは彼の食べていた何かからこぼれた汁の付いた親指に舌を這わせながら、無邪気とはほど遠い笑みを浮かべた。
アンダースが視線を戻すとちょうどセバスチャンも振り向いたところで、二人の眼が会い、共に等しく喜びに眼を輝かせていた。彼らは同時に、完璧に同調した笑みを浮かべた。

ここは、きっと彼が人生で初めて見つけた、真の居場所――必要とされている場所だと、彼は思った。とても良い気分だった。

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