第77章 選択の自由

その朝目覚めた時、彼は心乱れる夢の記憶に当惑していた。とりあえずそのことは後で考えることにして、彼は暁の暗がりで起きてその日の支度をする、いつもの単純な日課に集中した。微かな光の中で部屋の家具はそれぞれ異なった濃淡の灰色にかろうじて見分けられた。ともあれ彼は何か目に留める必要があるわけでは無く、その場で立って寝間着を脱ぎ、きちんと畳んで枕の下に片付けた。寝具の端を引っ張って元のように伸ばし、表面を片手で均した後、裸足のまま衣装棚に行って綺麗な下着を取り出すとそれらを身につけた。

それから彼は隣の鎧掛けへと向きなおった。彼は手を伸ばし、冬用の鎧の首元を飾る毛皮に軽く触れた後、その下に掛けた一番古い、彼の元の鎧を手に取った。今日は長年馴染んだ鎧の安心感が欲しかった。

彼は薄手の革鎧を身に纏うと、そのバターのように滑らかで、しなやかな表面を指で撫で下ろした。今では他の鎧も持っているにも関わらず、その古びた鎧を何より大事に思っているというのは、随分と奇妙な話だと彼は考えていた。彼の紋様を除けば、ダナリアスに与えられた物の中で彼が持っている、今では唯一の物となっていた。あるいは「与えられた」というのは正しい用語では無いかも知れない。まるで何か彼を喜ばせるための物だったようでは無いか。彼に「装備された」、多分そんなところか。

今や生きてはいない主人と彼を結び付ける最後の物を大事にするというのは、あるいは奇妙なことかも知れないが、この鎧は本当に長い間彼と共に有った。彼はこの鎧がまだ新品で固い革だった時のこと、ミンラソウスで、ダナリアスに奴隷として仕え「自由」などという概念すら知らなかった当時のことを覚えていた。
彼はセヘロンへと渡る船の上でもこれを着ていた。ジャングルのフォグ・ウォーリアー達を殺すか降伏させて、そこの土地をクナリへの侵攻拠点として使うために、ダナリアスはマジスターの一群と共にそこへ向かっていた。彼はそこの拠点が襲われたときにもこれを着ていた、酷く傷ついた主人の命を守ろうと必死で戦った時、クナリから狙い定めた棍棒が放たれ頭を直撃し、彼を昏倒させた。彼はマジスター達が撤退するときにそのまま置き去りにされ、フォグ・ウォーリアーに捕えられるままに放って置かれた。

その数ヶ月後、彼はまだその鎧を着ていた。フォグ・ウォーリアー達が彼に健康を取り戻させてくれた後、そこで彼らと平和裏に暮らしていた。その時マジスター達が再び侵攻するために戻ってきて、そしてダナリアスも戻ってきて、その魔法で強化された命令の一言が、彼をフォグ・ウォーリアーに歯向かわせた。彼らの血に浸かった鎧は、乾くに従って不快に彼の皮膚にべたべたと引っ付いた。ダナリアスは鎧を脱ぐことを許さずそのままにしておくよう命じた、そう彼は思い出していた、自由などは存在せずただ彼の主人の言葉のみが全てだと、彼に思い出させるために。

彼らがテヴィンターへと戻る道程の途中で、彼はやはり綺麗に洗われ補修されたその鎧を着ていた。そしてその後、フォグ・ウォーリアーと共に過ごした一時の間に彼が知った、「自由」と呼ばれる何か漠然としたものを探すために逃亡した時も、彼はその鎧を着ていた。そしてカークウォールでの長い年月の間もずっと。
ダナリアスが彼を回収に来るのを待ち続け、そしてセヘロンでのようにマジスターがまた成功するのでは無いかと恐れていた。ただ一言、彼の奴隷にそうするように命ずる以外、何の手間も掛からないのでは無いかと。

ともかくその恐怖は、少なくともマジスター自身の死と共に消え去った。ダナリアスは確かに彼を取り戻しにやって来た、あのハングド・マンでの裏切りの夜。そして失敗した。マジスターが死に、それに伴い彼の恐怖も死んだ、あの時から真の自由が始まったと彼は感じていた。もはや誰の命にも従うことは無い、彼自らがそう選択した場合を除いては。

実に良い気分だと、彼は剣を留めて部屋を出ると厩に向かって歩き出しながらそう感じていた。今の彼には選択の自由があった。ここに留まっても良いし、気の向くままどこか別のところへ行くことも出来た。天守の中に住むのも強制では無く、どこか他に宿を探しても良かった。それに今は……個人的な事柄について、自分で決めることが出来た。誰と親しくなるか。誰と友人になるか。誰を……近づけさせるか。

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エアに乗るために馬具を付けながら、一瞬ゼブランのことを考えて彼は顔を赤らめると、それもまた、後で考えることにしようと頭の中で横へ押しやった。とりあえず彼はエアを厩から引き出すことに心を集中し、それから黒毛の去勢馬に乗って天守の周りをゆっくりと騎行し、夜明け前のほの暗い中で門番と挨拶を交わすと上町へと出た。彼は馬をゆっくりと進ませ、玉石を敷き詰めた上町の通りにエアの蹄の音をパカパカと大きく響かせながら、丘を降りて中町へと向かった。

前方の敷石を明るく照らす照明の輪は、既にそのパン屋が店を開けている印だった。召使い達――中にはエルフも居た――が既に彼らが働く家のために、様々なパンや菓子を買いに列を作っていた。彼は彼らと会釈を交わし、時には微笑んで挨拶をした。このパン屋に彼が毎朝のように立ち寄るため、召使い達の多くと彼は顔馴染みになっていた。彼がエアを止まらせるやいなや、パン屋の一番若い息子が掛けだしてくると、その素朴な顔に大きな笑みを浮かべて、フェンリスに紙でくるまれた包みを手渡した。フェンリスは少年に微笑むと、銀貨一枚を包みの代価として、それに銅貨一枚を少年の駄賃として手渡し、それから馬を進ませた。

彼の望むときに、ちょっとした楽しみのために費やせる金銭を持つというのも、また彼が好きなことの一つだった。そのパン屋はとりわけ良い店で、上町に住む貴族達――少なくとも自前の調理人を置いていない家の――と、中町に住む裕福な商人や市民の両方から愛されていた。パン屋の親方と彼の家族、それに大勢の見習い職人達が、素朴な食パンから手の込んだ贅沢なケーキに至る多種多様なパンを焼いていて、その仕事は夜が明けるずっと前から始まり、そして夜遅くまで終わることが無かった。選り取り見取りのパンやケーキを前にして、フェンリスはその店を訪れた最初の数回は何を買ったものか決められずに、扉の側にたたずんで美味しそうな品物の列をひどく熱心に見つめた後、ようやく幾つかを買っていた。

パン屋の親方がある朝、まるで彼が全種類を制覇しようとでもしている様だと嬉しそうに礼を言った。彼は思わず微笑むと親方に同意し、こうも沢山の種類の中から選び出すのは実に難しいと答えた。そこで順番を待っていた一人の召使いの少女が、彼女の主人が言うようにしてみてはどうか――『その日のお勧めを何でも銀貨一枚分買ってくること』――と提案し、そして親方は彼の息子に選ばせることにしたのだった。

故にその小さな包みには、どんなものでも入っている可能性が有った。その包みを開けて食べるまで、何が入っているか彼には知りようが無かったが、どういうわけか彼の朝食はそれでより楽しいものとなった。甘いか辛いか、素朴なパンか手の込んだケーキか、その包みの大きさも毎日違っていた。彼は密かに、彼が銀貨一枚分よりももっと多い品物を受け取っているのでは無いかと思うこともあったが、しかし結局のところ釣り合いが取れているようだった。彼が混み合った街の大通りを通り抜ける際に、エルフ公ご贔屓の店としてそのパン屋の名を漏れ聞いたのは一度や二度では無く、彼のお陰でパン屋に客が増えているのは間違いなさそうだった。

彼は街へ出て、南へと街道沿いにエアを走らせながら、東の空を赤く染める暁の光に見とれていた。それから森の中を曲がりくねる小道へ分け入り、街を南から見下ろす木の無い丘の上に辿り着いた。そこから東には、あの冬の日にセバスチャンと一緒に眺めた、ワイン畑に覆われた丘を見る事が出来た。新芽の出てきたブドウと新緑へ変わりつつある草地が、既に明るみつつある朝の陽射しに照らし出されていた。
彼は馬を下りると、昨年の古い茎を押しのけて生えだしている草の柔らかな新芽をエアが貪るに任せて、むき出しになった石灰岩の上に座り、北に広がる街の方を眺めた。

今朝の包みには、ふっくらとしたパン生地にカスタードクリームと干したサクランボの入った丸っこい菓子パンが入っていた。それと様々な種類のソーセージを巻いたパン、一つはスパイスがピリッと利いていて、別の一つはニンニク風味、他には一握りのクッキー。それと何かの甘パンも入っているようだと彼は思い、手にとって近くで眺めた。恐らく全粒粉を使っているのだろう、暗い生地の表面は波打っていて上部には砂糖漬けのショウガの欠片と純白の砂糖衣がきらきら輝いていた。彼はそれを一番最後に取っておくことにして、彼の周りに広がる野原と、明け方の空に雲が一つ、大地に影を落としながら滑らかに飛んでいくのを眺めながら、あっという間にソーセージ・ロールを二つ片付けた。

甘いカスタードの入った菓子パンを食べ始めてからようやく、彼は昨晩の不穏な夢に思いを馳せた。前の日に彼とゼブランが行ったことから考えれば、そのような夢を見ても特に驚くべきでは無かったかも知れない。二人のキスと、その後ゼブランの手が彼をあれほど優しく、あれほど簡単に、本当にそうなるまでは思いもよらなかった喜びに彼を駆り立てたのを思い出して、彼は嬉しくも恥ずかしい気分に顔を真っ赤にし、頬と耳が熱く火照るのを感じた。

そのことを思い出すだけで少しばかりの興奮を感じて、彼はもぞもぞと身体をよじった。彼が昨日、二人の間に起きたことを大いに楽しんだのは確かだった。しかしその後の彼の夢は……彼に不安と困惑を残していった。実際にはそれは奴隷だった頃に彼が受けた酷い行い、恥辱に満ちた興奮、そして痛みの悪夢、見慣れた夢だった。しかしどこかの時点で昨晩の夢に登場する、顔の無い人物はゼブランになり、そのことが彼を困惑させていた。目覚めた後では、ゼブランが彼を傷つけるようなことをするとは想像も出来なかったが、しかしそれでも彼は……心のどこかで……ほとんどそれを望んでいた。

彼は難しい顔をすると、ベタベタする指を舐めて綺麗にして、それからクッキーを食べ始めた。あるいはこれも、キスのようなものかも知れない。最初はそれが好きになれるかどうかさえ判らなかったし、時には嫌っていたが、それからだんだん好きになり始めて、今では……大好きになっていた。とにかく、ゼブランとなら。他の誰かとキスをすることについては、今でもよく判らなかった。彼はサクサクしたバターの香り高いクッキーを少しずつ囓りながら、一体何がゼブランとのキスを……こうも素敵なものにしているのかと考えた。

多分、ゼブランのキスは……彼から奪われるものでは無いからかも知れない。彼に与えられるもの、ゼブランと彼が分け合うもの、例えばこのクッキーを城に持ち帰って、もう一人のエルフと分け合うようなもの。昨日の午後の出来事は、ある種の贈り物、彼に贈られた、彼も身体に触れられることであのような喜びを感じられ、しかもそれは……恥ずべきことでは無いと教える、新たな体験だった。

本当にたったそれだけの違いなのだろうか?彼は不思議に思った。彼の意に反して奪われる何かの代わりに、彼に与えられる、分け合う、それだけで記憶の中の恐ろしい出来事が、何か……望ましいことに変わるものだろうか?しかしキスにしても、親密な触れ合いにしてもそうだった。憎むべき下劣な行いとして彼の記憶にある他の事についても、彼が好きな、信頼する誰かと共になら、快いものとなるのだろうか?彼が誰と、何をするか選んだとしたら?

その考えに、彼は興奮すると同時に当惑した。そう考えると昨晩の夢の不安は多少軽くなったが、一方ではより落ち着かないものに感じられた。ゼブランと、記憶に残る恐ろしい事柄を彼の頭の中で一緒にするのは嫌だったが、しかし同時に、あのエルフが異なった方法で彼に触れるという考えは、彼の身体の奥深くを震えさせた。あるいは……あるいは、彼がゼブランに触れるという考えも。前の日のゼブランの行為がどれ程快いものだったか彼は思いだしていた。彼も、もう一人のエルフに同じことが出来るのでは無いか?ゼブランに、彼が感じただけの深い喜びを与えることが出来るのでは?

彼は唐突に立ち上がり、石灰岩の上に朝食を放り出してあたりをせわしなく歩き回り、気分を落ち着かせようとした。同じようになるだろう、そうでは無いか?二人は共に男性で、同じように出来ている。一人が喜ぶことはもう一人も同じはずだ。そしてもし二人が本当に分かち合うのなら、共に喜びを得なくてはいけない。ゼブランは昨日……彼により多くの物を与えてくれた、そう彼は気付いた。

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彼はまだ困惑を感じていた。多分この事についてはもっと良く考える必要があるだろう、あるいは誰かと話をして見るとか――多分アンダースと。ゼブランに彼自身がこの事を話している姿というのは、およそ想像出来なかったから。彼は岩のところへ戻ると、クッキーの残りをエアに与え、それから甘パンを口にした。
甘パンには砕いたクルミと少しばかりの干しアンズ、それに砂糖漬けのショウガが巻き込んであって、パン生地自体はそれほど甘くは無かったが、バターと卵がたっぷり入っていてカルダモンの快い香りがした。ここの所いつもそうしているように、帰り道にあのパン屋に寄ってこのパンがどれ程美味しかったか感想を言いに行こうと彼は思った。そうすると時に見習い達の間で、肩を叩き合ったり歓声が沸き起こることがあった。彼の称賛の言葉が、見習い達の誰かが試しにやってみた何か新しい事が上手く行ったという証拠となるのだろうと、彼は考えていた。

しかしまず最初に街に戻って、それからエイリアネージに立ち寄って、カイラの母や兄弟達がどうしているか見にいく事にしよう。それと多分、ゼブランに何か買っていこう。

コテージに戻った祝いに彼らが贈った些細な品物に、アンダースがとても喜んで笑顔を見せたのを思い出して、ゼブランも同じような笑顔を見せてくれたらどれ程嬉しいだろうかと、彼は考えていた。


フェンリス甘党疑惑。

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第77章 選択の自由 への4件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    こいつ・・・!この前タガが外れたばっかりなのに
    もう覚醒してやがるッ・・・!

    これが連邦軍の新型モビルスーツの力かッ!(多分違う

    >二人は共に男性で、同じように出来ている
    いやあ、アレは中身が違うもので出来てると思ったほうが・・・v

  2. Laffy のコメント:

    EMANONさま、コメントありがとうございます(^.^)

    >>いやあ、アレは中身が違うもので出来てると思ったほうが・・・v
    私もそう思いましたですw なんかこう煩悩の塊というか結晶というかw

    ……さああ次はアンダースせんせいの恋愛講座第二弾かorz

  3. EMANON のコメント:

    煩悩のw結晶w
    中身がアレなのにパッと見キラキラして綺麗に見えるw

           _, ._
    シェイル(;゚ Д゚) <なんだそのどぎついキラキラしたのは!?

    ゴーレムも真っ青www

  4. Laffy のコメント:

    さすがの煩悩結晶も、フェンリス君の純粋な心に打たれてややおとなしくなりました。
    ……っても5章しか持たないけどな!

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