第90章 憑依

セバスチャンは翌朝遅くになって、驚くほど良く休めたと感じながら眼を覚ました。彼はベッドから立ち上がると、扉の側にまだ衛兵が一人、静かに立っているのに気付いた。昨晩の衛兵とは違い、この男はより黒い髪と眼をしていて背も低かった。

眠って居た間に召使いが部屋に入って来たに違いなかった。昨晩目にしなかった四角いテーブルが運び込まれており、その上に覆いの掛かった盆が置かれていて、暖炉には暖かく火が入り、その側に湯気の立つ湯が入った缶が置かれ、側の小さな洗面台には洗面用具が一揃いあった。彼は洗面器に幾らか湯を注ぐと、しばらくの時間をひげ剃りに費やした。

彼はまず剃刀を研ぐところから始め、用意されていた革砥 1の上で剃刀の先端が十分に鋭くなるまで前後させた。次に布を湯で湿らせると、無精ひげを柔らかくするためにしばらく顔に当て、それから粗い豚毛のブラシで石けんをしっかりと泡立てて、ひげの上に伸ばした。
おもむろに彼は剃刀を取り上げ、ざらざらと伸びた無精ひげを泡と一緒にそぎ落としていった。鏡は生憎見当たらず、十分滑らかに剃れているか指で確かめなくては行けなかったが、教会でも自室に鏡は無く彼はその方法に熟練していた。その後良い香りのする油を少しばかり付けて肌を滑らかに整え、綺麗な水ともっとたくさんの油を使って彼の寝癖の付いた髪を櫛で整えた。

机の上にあった盆の覆いを外すと、ソーセージとビスケット、それに湯を注ぐだけで良いように少しばかりの紅茶の葉が入ったマグカップの、簡単な朝食が現われた。一緒に紅茶用の蜂蜜と、ビスケットに付けるイチゴのジャムも用意されていた。部屋に椅子はなかったので彼は立ったまま黙々と朝食を片付けた。
朝食を食べ終わった後、彼は手を洗い口をすすぎ、それからベッドに戻って腰を下ろすと、何であれ次に起きることを静かに待ち、焦点の定まらない眼をして、手は膝の上にだらんと置かれ、ただゆっくりと規則的に呼吸していた。彼はとても穏やかで寛いだ気分を感じ、何の心配も無く、ただ部屋に射し込む光と影が、緩やかに角度を変えて壁と床を渡っていくのを見つめていた。

時は緩やかに過ぎた、恐らくは一時間、あるいはそれ以上。召使いが入ってきて朝食の盆を下げた。別の召使いが少し後に来て、洗面用具と水缶を片付けていった。それからまた二人の召使いが、服を持って入ってきた。彼は寝間着を脱ぐと、その二人が服を彼に着せるがままに立っていた。どうやらこの服は、ずっと大きな男の服を仕立て直した物らしいと彼は思った。恐らくゴレンの服だったものが、一晩の内に仕立て直されたに違いなかった。
かなり腕の良い者が仕立てたに違いないが、あいにく彼の体格が正確に伝えられていなかったようだった。シャツは肩の部分がきつすぎ、レギンスはウエストがぶかぶかで尻に落ちる始末で、結局彼らはレギンスを脱がせ、裏表をひっくり返し、再び彼に着せてそそくさと縦にタックを入れて幅を合わせ、それからもう一度脱がせ、元通りに表裏を直してようやく彼に着せ付けた。彼らが持ってきたブーツはきつすぎて足に食い込み、もしこのまま長く歩くことになれば間違い無く靴擦れが出来そうだった。

ようやく召使い達は彼の外見に満足して去って行った。彼はまたベッドの端に腰を降ろし、上着はベッドの上に置いて時が経つのを静かに待った。

昼食は深皿に入ったスープとバターを塗ったパンが幾つか、それと紅茶だった。彼はまた立ったままで手際よく食べると、昼食の後すぐ出発するというのを思い出し、上着を着て部屋を出た。彼の四人の衛兵が周りに付き従った。彼は何階か階段を下り、途中で一度だけ立ち止まった――彼と衛兵が交代で小用を済ませるため――後は、ずっと地階まで降りて大きな中庭に出た。騎乗した衛兵が二列縦隊で、一組の綺麗な馬車を前と後ろから挟んでいた。召使い達が後ろの馬車に乗り込んでいて、二人がそれぞれ赤子を抱き、別の一人が4つか5つくらいの幼児の手を引いていた。ゴレンとジョハンナの子供達だろうと彼は思った――最初の息子と、彼らがこの館に引きこもってから誕生した双子の姉弟だった。

ジョハンナとゴレンは前のより華麗な馬車の側に居て、ゴレンはちょうど屈み込んで乗り込むところだった。ジョハンナはセバスチャンが近付いてくるのを目にして、彼が腰を屈めてお辞儀をするのに微笑んで見せた。
「十分でしょう、ともかく城に到着するまでは。その後お前自身の服で適当に着替えるように」と彼女は満足げに言った。

彼女に満足して貰えたことに、心の奥底から沸き起こる喜びを感じつつ、彼は再びお辞儀をするとゴレンの後に続いて馬車に乗り込んだ。彼は馬車の前の狭い木製の座席に座り、ジョハンナとゴレンが後方の、幅広いクッションの効いた座席に居心地良く座りこむ間後ろに顔を向けていた。二人の召使いも一緒に乗り込んできた、男性と女性で――ゴレンの従者とジョハンナの小間使いと思われた――セバスチャンの両側に腰を降ろし、長い旅の間に彼らの主人と女主人に仕える支度をしていた。ここからスタークヘイブンの街までは一日半の道程だった。彼らが到着するのは、どんなに速くても明日の深夜となるだろう。

彼女の満足が行くように全て準備が出来たところで、ジョハンナはゴレンに頷いて見せた。彼は細身のステッキで馬車の天井をバシンと音高く叩き、一瞬後に馬車はゆっくりと動き出した。セバスチャンは馬達の蹄の立てるパカパカという音が中庭に響き渡り、館の門をくぐって街道へ降りていく時にはこだまとなって反響するのを聞いた。

「もしそうしたければ、窓の外を見ていなさい」とジョハンナは彼に命じた。

特別見たいわけでも無かったが、ともかくジョハンナとゴレンを眺めているよりは面白いだろうと、彼は頭を回して通り過ぎる野原の風景を眺めた。彼らの一行はよく手入れされた森の中を通り抜けて行き、彼の眼にも木々が十分な間隔を置いて大きく育ち、下生えはごく僅かで、牧草がたっぷり生えている様子が見て取れた。
草を食んでいた鹿が一頭、頭を上げて通り過ぎる行列を見つめると、身を翻して森の奥へ跳ね飛んでいくのが眼に入った。白い尻毛と尾が、驚くほど目立って見え、まるで警告の旗がちらちらと振られているようだった。

「旅には本当に素敵な日ですこと」とジョハンナが夫に話しかけた。

「まさに」とゴレンはもったいぶった声で同意した。
「明日もそうなると良いのだが。今回は、あの宿屋も清潔なシーツを用意していると思いたい。前回あそこで泊まった際の有様は、全くの面汚しであった」

「私達の寝具を召使いに積み込ませてありますわ。それに少なくとも、あそこの台所は結構なものでした」

「そう、それにまあ我慢の出来るワイン貯蔵庫もあったな」とゴレンが同意した。

セバスチャンは彼らの会話を脳裏から追い払った。結局彼とは何の関係もないことなのだから。通り過ぎるこの地の風景も、また同じだった。街道の小さなでこぼこを乗り越えて進む馬車の揺れに彼はただ身を任せ、穏やかで寛いだ気分で、真剣に何かを考えることも無かった。


Notes:

  1. “strop”:革で剃刀を研ぐんだね。恥ずかしながら世の中にそういう物が存在することすら知らなかった。砥石じゃないんだ。
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第90章 憑依 への2件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    革砥w西部劇の床屋さんがよく使ってますねw

    それにしてもヴェイル大公様、ゼブランの顔見た
    からってちょっとくつろぎすぎじゃあございませんかw

  2. Laffy のコメント:

    あれずっとベルトだと思ってたwwwまあ、ベルトのようなものですけど。

    >からってちょっとくつろぎすぎじゃあございませんかw
    徹夜する時の仮眠に布団は駄目という鉄則を知らなかったセバちゃん(違

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