第7章 順応

第7章 順応


時間はのろのろと過ぎていった。召使いが昼食を持って現れると、彼の書いたリストと余った紙*1と筆記用具を持ち去った。その後、部屋の中で彼に出来ることと言えば、座っているか歩き回るか、考え事くらいだった。そして自らの考えに思い悩むというのは、現時点では彼が出来るだけ避けたい事だった。

午後も半ばを過ぎた頃になって、彼は扉を開け護衛に表に出してくれるように頼んだ。彼らはダンジョンから抜け出した後セバスチャンが彼を連れ出した小さな運動場へと向かった。しかしそこで、たった一晩暗闇に閉じ込められただけで、以下に容易く彼の心が折れてしまったかを思い出すのは、部屋の中で思い悩むのと同じくらい最悪の気分だった。

ダンジョンの独房に放り込まれ、衛兵が唯一の光源だった灯火を持って歩き去った後、どれほど簡単に、どれほど迅速に恐怖が彼の心を支配したかはっきりと思い出せた。少なくともフェラルデン・サークル、キンロック砦の独房にはいつも明かりが点されていた、まあほとんどの場合は。彼が最も恐れていたのは、誰かが故意に灯火を消す時だった。顔を見られたくない、誰かを突き止められたくない連中が、酷いことをするために彼の元を訪れる時。

彼は一晩中、暗黒の中身体を丸め座り込んでいた。眠ることは出来ず、全身の筋肉は固く強ばり、どんな微かな物音にも耳をびくつかせた。暗闇、鎧装備が近づいてくる金属音、扉の鍵が開けられる音、そしてスマイトかサイレンスで無力化され、助けを得ることも出来ず、独房に入ってくる男が欲しいままにするのから身を守ることも出来ない……その古い悪夢が蘇るのをひたすらに彼は恐れた。

ようやく独房に光が入って来た時の救われた気持ちも、よく覚えていた。他ならぬセバスチャンを見て、彼は心から安堵した。恐怖で一晩中、堅く冷たく縮こまっていた筋肉は、ようやく開放されて枯れ葉のように震え出した。その安堵が、それまで感じていた恐怖と同じかそれ以上に彼を押しつぶそうとした。

完璧に心が打ち砕かれる前に彼に出来た事と言えば、誰かに、セバスチャンにしがみつき、再び暗闇の中に取り残さないでくれと‐殺してもいい、痛めつけてもいいから‐嘆願する、それだけだった。そして鎧をまとった衛兵が近づいてくるのを感じた時、一晩中恐れ続けた記憶が唐突に蘇り、その恐怖に彼は圧倒された。

しばらくの間意識を失っていたのだろう。誰かの、固くなったたこのある指が彼の顎に触れ、頭を傾けてゆっくりと明るんでいく空を見上げさせるまで、既に外に出ていることにさえ気づかなかった。それがセバスチャンの指だと知って、彼は衝撃を受けた。男は衛兵の一人から気付け薬を受け取るとアンダースの口に当てて飲ませた。この男から受けることは到底予想していなかった、ぶっきらぼうではあっても親切な態度だった。

セバスチャンが立ち上がり、衛兵に彼の面倒を見るように命じて立ち去った後でようやく、自分の身体とローブから滴り落ちるものに気づき、あの男の目の前で自分がどれほどの醜態を見せたかを知った。全くの羞恥心から運動場の石敷きの下に沈み込めるものなら、彼はそうしていただろう。その代わり、彼は震える足で立ち上がり、疲労と強い酒による眩暈に頭をふらつかせながら、衛兵達が風呂と清潔な衣服を探すため彼を連れて行こうとするのに、大人しく身を任せるしかなかった。

運動場の端から端へとゆっくり円を描くように歩いて、無理矢理に少しの時間を潰した後、ようやく衛兵に彼の部屋へ連れ戻すよう頼んだ。それから午後の残りの時間を肘掛け椅子に静かに座って、膝の上で手を組み、何も考えるまいと、思い出すまいとした。到底上手く行ったとは言えなかったが。

ノックの音がして、衛兵の一人が扉を開けた。

「大公殿下が、今晩夕食を共にするようにとの仰せです、サー」と彼は言った。

アンダースは驚いて、一瞬瞬きをした。まず、その男がノックをしたこと‐  そもそも彼は囚人であって、客人では無かった ‐次いで、その命じ方がいかにも丁寧で有ったことに彼は驚きを感じた。最も、どれほど美辞麗句であろうともそれが命令であることには少しの疑いの余地も無かったが。彼は立ち上がり、胴着の裾を手で直すと、急に汗ばんできた掌でズボンの横を撫でた。

「これから?」怯えきったアヒルの様な声ではなく、落ち着いた声を出そうと彼は苦闘した。

「そうです、サー」衛兵は言った。

衛兵に続いて部屋を出ると、二人目の衛兵が一歩遅れて従い、セバスチャンの待つ所へと彼を連れて行った。


セバスチャンは扉が開く音を聞いて顔を上げ、アンダースが居るのを見た。衛兵達は彼一人を残して部屋の外に去り扉を閉めた。アンダースはためらいと不安を感じている様であったが、ともかく小さな食卓の、一つだけ残された椅子へ座った。

「お前が書き上げたリストを読んでいた」セバスチャンはそう言うと、彼の皿の横に重ねた紙に向かって頷いた。「幾つか聞きたいことがある」

アンダースは静かに椅子に座ったまま頷いた。彼の前の食器類は全く手が付けられていなかった。セバスチャンは眉をひそめた。

「食べてしまえ、ほら」彼はそう命じると、自分の皿から一口頬張り、紙の束に手を伸ばした。

「例えば、この石の上張りのテーブルというのは?何のために?」

彼は不思議そうに尋ねた。

「ああ、それは手術用だ。木張りのテーブルより簡単に、表面を清潔に保てる」アンダースはそう言うと、彼の皿を取り上げ料理を盛り始めた。

「器具や手術台が清潔であればあるほど、患者の生存率は高くなる。感染の危険が減るから」

「なるほど、理に叶ってるな」セバスチャンは頷いて言うと、リストをめくって眺めながら、様々な項目について次々と質問をした。項目の最後まで来て、彼は満足げに頷いた。

「何もかも、充分検討されているようだ。すぐに全てのものを揃える事は無理だとしても、出来る所から始めよう」彼はそう言うと、椅子の背中にもたれて、アンダースに向かって考え込むような顔で言った。

「診療所が用意できるまでの間、何か必要な物はあるか?お前に割り当てられた部屋はどうだ?」

アンダースは微かに驚いた表情を見せた。

「ああ。とても満足してるよ」彼はそう言うと、暫く唇を噛んで考えた。

「その、何かもっと書く物を貰えないだろうか?…それか、何か読む本は無いかな?」

セバスチャンは僅かに顔をしかめた。

「もしお前が、あの忌々しいマニフェストとやらを書き散らさないと約束するなら、書く物を与えても良い」彼はきっぱりと言った。

「いいや、マニフェストじゃない」アンダースは僅かに心が怯むのを覚えながら静かに言った。
「何か…時間をつぶせるものが欲しいんだ。日記を書くとか、絵を描くとか…」

セバスチャンは用心深げに答えた。

「それなら良いだろう。手配させよう。食事は終わったか?」彼はそう付け加えると、空になったアンダースの皿をみた。「結構、着いてこい」

彼はそう言って、立ち上がると廊下の突き当たりに通じる部屋へ向かった。彼自身とアンダースの護衛が、二人の後ろに付き従った。

彼は廊下の突き当たりの、背の高い二枚扉に辿り着くと、それを押し開けて天井の高い大部屋へと入っていった。壁の全周が二階建ての書棚となっており、部屋の片隅にしつらえられた螺旋階段から幅広の張り出し廊下を通じて、各書棚の前に行けるようになっていた。壁沿いに並べられた書棚は、製本された本に二つ折りの大型本、図版、そして巻物でぎっしり詰まっていて、部屋の中央には一揃いの椅子が並べられていた。奥の壁には大きな張り出し窓があり、その正面中央には大型の机が一つ置かれていた。

「ヴェイル家の図書室だ」彼は自慢げに言うと、周囲を取り巻く書棚を示した。「これだけあれば、一つや二つ読むものは見つかるだろう」

アンダースは驚いた顔で、目を嬉しそうに見開いてあたりを見渡した。

「アンドラステ!こんなに大きな図書室は見たことがない、サークル以外では……」

セバスチャンは肩を竦めると比較の本棚に歩み寄って、そこに整列している本の背表紙を手で撫でた。

「私の一族は常に教養を重視していた。全世代が収集した本をここに加えて来たのだ」彼はそう言うと、僅かに唇を曲げてにやりと笑った。

「中には…非常にエキゾチックな本も何冊かある。私がもっと若い頃はここに忍び入っては、祖先達が集めた…まあ、官能的な書物を読みふけったものだ」

アンダースは短く笑い声を立てた。

「サークル・タワーでもメイジ達が同じ事をしていたのを思い出すよ。性愛魔法に関して記された本、特に挿絵付きのやつは、書棚にしまわれているよりもメイジ達の間で回覧されている方が多かったね」

「性愛魔……いや、聞きたくない」きっぱりとセバスチャンは言った。

「ともかく、この図書室の中で読書して過ごすことを許そう。部屋から本を持ち出してはならないし、汚したり違う棚に仕舞ったりしない様に。ここの司書はそう言った事に関しては暴君に変わるからな」

彼は素っ気なくそう付け加えた。

「もちろん」アンダースは頷いてそう言うと、部屋をゆっくり見回してあたりに見入っている様子だった。

「書く物はすぐに届けさせる様にしよう」とセバスチャンは言った。

「お前の部屋に」退出の合図だった。

アンダースは再び頷いた。「ありがとう」彼は心からそう言うと外へ歩き出た。彼の護衛達が後ろに従った。

セバスチャンは振り向き、張り出し窓の前の机に歩み寄って、背後に回ると大きな詰め物をした革製椅子に座った。彼は手を伸ばし、今は空いている大きな机の上面を撫で、表面の冷たく滑らかな手触りを掌と指の下で感じた。

白髪だった彼の祖父は、彼が生まれる幾年も前の乗馬事故で背中は曲がり足を引きずっていたが、幾度となくこの椅子に座って、机の側のセバスチャン‐ 立っているか座っているかはその時呼びつけられた理由によった ‐に質問をしたり、説教をしたりした。

祖父が彼に立っていろと命じるか、椅子に腰掛けることを許すかは、その時祖父が面白がっているか、不愉快に感じているか次第と言うことに、彼は気づいていた。彼が亡くなる最後の数年前には、腰掛けられる事はごく希となっていた。

彼が後悔している数少ない事柄の一つは、彼らの最後の面会が怒りに満ちたものであった事だった。祖父は彼の羽目を外しすぎた行動に激怒していた。長い年月を経た今となっては、それがどの件だったかさえ思い出せなかった。

毎日のように泥酔し快楽に耽る夜を繰り返し、馬鹿げた騒ぎを起こしては二日酔いの頭を抱えて祖父に叱りつけられ、他の一族全てからは冷たく無視された。彼が自分の人生を無駄にしようとしていると言って、祖父は落胆し腹を立てていた。

「それで、無駄にしなかったら僕の人生にどんな目的があるとおっしゃるのですか?」

彼はお返しに、苦々しくそう尋ねた。その時点では、彼が正しいように思えた。彼の長兄は父の跡継ぎ、次兄が控え、しかも既に長兄の力強い右腕としてスタークヘイブン全土を揚げる国軍の指揮を執っていた。そして彼は……余計者、娘で有るべきだった3人目の男子だった。

祖父が死の病の床に倒れた時には、彼は既にチャントリーへと追いやられていた。彼の死に目に遭うことは出来ず、火葬の炎が燃え上がるのも、遺灰が散布されるのも見ることはなかった。彼はただ、事実のみを記した署名すらない短い手紙を受け取った。その乱暴なブロック体の文字は、彼の父親の流暢な手書き文字とは違っていたから、恐らくは兄たちのどちらかが書いた物だったが、彼らはお互いの筆跡を知らず、どちらの兄が書いた物かさえはっきりしなかった。

その手紙は、祖父が死んだ後、一族の中で彼の意見や考え、感情に気を配る者は誰一人居ないという証だった。そして、彼らは全て殺された。彼は家族全てを失った‐両親も、兄二人も‐今や彼がスタークヘイブン大公だった。一度もそうなることを夢見たことさえ無かった地位。

しかしそれも今となっては変わった。スタークヘイブンに帰還した時に目にした、見慣れた灰色の石造りの街並み、小高い丘の上に鎮座しあたりの風景を支配する城、そしてその奥に広がる遠くの山々まで連なる丘陵、全てが今や彼の物だった。彼の領土。彼が護り導くべき人々。

その時には既に、ホークに誓った言葉、激怒と絶望から生まれた誓いがただの空しく意味のない脅しであったことに気づいていた。将来に暗闇の迫るこの時代に、軍を率いて一人のアポステイトを探し回るより、彼の民はここで彼を必要としていた。彼が興す軍隊は遠く離れたカークウォールに行くためではなく、この土地を護るべきものだった。

そして偶然と言うより、不可解としか言いようのないメイカーのお導きによって、かのアポステイトは彼の手に落ちた。

彼は大きく長いため息を吐くと、立ち上がって窓に向かい、片手を冷たい窓に押し当てて外の暗がりに見入った。あのメイジがここに来た事には、何らかの大いなる理由が、目的が有ると、今はそう信じるしか無いようであった。


*1:原文ではParchment(羊皮紙)。ファンタジー世界でお馴染みの、暖かなクリーム色をした、端が少し濃い色でぎざぎざのある、あの紙の事。山羊や仔牛などの革を物理的に引き延ばして作るため、高価な貴重品で、宗教関係の書物や公文書に使われる程度だった。それまで使われていたパピルスに比べて、湿気の多いヨーロッパでも耐久性に優れ、毛根層(いわゆる銀面)を削り落とせば両面に書くことが出来るなど筆記に適していた。またインクが染み込みにくく削って書き直す事が出来たため、公文書の偽造にも一役買ったという。

(こちらのサイトが大変興味深い。 一枚作るのに延べ20日近く掛かるんだね。新聞紙大の丸々一枚で9000円、A5サイズならもっと安い。買おうかな)

中国から地中海周辺またはイスラム世界を経て、ようやく13世紀中頃にイタリアで麻や木綿を材料とした良質の紙を造る方法が開発され、ヨーロッパ中に販売されるようになった。ちなみにグーテンベルグによる活版印刷の発明は15世紀中頃の事である。
さらに19世紀にはドイツで針葉樹のパルプを原料とする製紙法が開発され、洋紙の生産量が飛躍的に増大することになる。

DA2世界では羊皮紙か植物材料の洋紙かははっきりしないが、この小説内では(いくらお金持ちのセバスチャンとは言え)好きなだけアンダースに紙を使わせたり、書き損じを暖炉に捨てたり、丸めて猫のおもちゃにするシーンが登場することから、恐らく植物材料の紙だろう。

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