第8章 質素だが実用的な

第8章 質素だが実用的な


セバスチャンの姿をアンダースが再び目にしたのは数日後の事だった。彼はその間を静かに過ごしていた。朝食後は何か書き物をするかスケッチをして過ごし、昼食の後は例の運動場の周りを散歩した後、図書室で夕方まで本を読んだ。食事は部屋まで届けられた。おそらく召し使い達が食べているものと同じ簡素な食事だったが、しかしグレイ・ウォーデンの身体の要求を満たす充分な量が与えられた。

厨房には間違いなく彼の恐るべき食欲について情報が伝わっているのだろうと、彼は少しばかり恥ずかしく思った。セバスチャンが彼自身や彼が必要とする物について気に掛けているという、また新たな証拠。あの男から与えられるとは想像もしていなかった心配りだった。

三日目に、朝食の皿を片付けに来た召使いが服の束を持って戻ってきた。

「失礼します、サー」彼は言った。「大公殿下が、あなたに新しい服を渡すようにと仰せられました。サイズも適当かと存じます。午前中に、殿下の所でもう一度お話しされると伺っております。風呂の支度を致しましょうか?」

アンダースはうっすらと顔を赤らめた。ダークタウンでの生活は、彼に定期的に服を綺麗に洗ったり、彼自身の身体を清潔に保つといったような、小さな美徳を忘れさせていた。召使いが婉曲に伝えようとしているのは、彼の身体から城の中の住民として相応しく無い臭いがし始めているということだろうと、自己嫌悪と共に彼は想像した。

「頼むよ」そう言うと、服の束を受け取った。「ありがとう」

召使いは頷くと立ち去った。数分後に、湯の入ったバケツを持った一群の召使い達が現れると、速やかに浴槽を満たして行った。彼の反応があらかじめ予想されていたのは間違いなかった。最後に現れた男が、洗面用具‐石けん、洗い布、カミソリ等々‐を持って彼にお辞儀をした。

「風呂に入られる時にお手伝いいたしましょうか?」と彼は尋ねた。

アンダースは素早く首を横に振った。「いや、大丈夫だ。ありがとう」彼は静かに言った。

召使いは頷くと、洗面用具の入ったトレイを浴槽の端に置き、他の召使いとともに立ち去った。

アンダースは素早く服を脱いで、彼の汚れた衣服をまとめると横に置いて、浴槽に浸かった。特別大きい浴槽では無く、彼は足を折り曲げて座り込む必要があったが、カークウォールでの当時、ひび割れたたらいに入った冷たい水と、汚いぼろ布で大急ぎで身体を洗っていたのに比べれば……もちろん、たまにはホークの邸宅にある遙かに優雅な浴槽を使う事もあったが、彼が恋人の邸宅に住むようになってからも、その機会はごく希でしかなかった。

彼が普段、その旧アメル邸に辿り着くのは診療所での長い一日を終えた後か、あるいはホークと共に外出して、同じくらい長い一日をどこかで過ごした後だった。彼らが共有できる時間は限られていたため、大抵の場合彼らは多少の不潔さには目をつぶってベッドに倒れ込んだ。そしていったん目覚めた後は、彼には戻るべき診療所があり、時間を無駄にしたことに対してジャスティスが不服を漏らすのにせき立てられ、単に服を着ると再び飛び出して行った……

彼は震える息を吐き出し、ホークのことを考えまいとした。あるいは彼の浴槽のことも。彼らが恋人同士となってから長い年月を経た後で、初めて彼に全裸の姿を見ることを許した時のことも。

最初の数回の間は、彼は恥ずかしさの余り、必要とする部分以上の服を脱ごうとはしなかった。初めてホークに彼の服を全て脱がさせた時の、男の驚きの表情とその……それは憐れみでは無かった。メイカー、もし憐れみであったなら彼の心は壊れてしまっただろう……ホークの目には、彼の背中の傷跡に対する深い悲しみだけが現れていた。

その夜ホークはひたすらに優しく、傷跡を避けることなく、しかし話題にする事もなく、ただ彼を愛した。その後も彼らは傷跡について話そうとはしなかったが、その男は傷跡がそこに在ることを知り、誰に付けられたかも察し、かつ彼を拒絶しようとはしなかった。彼の身体に触れ、彼を抱きしめ、その後に彼を見つめる様子は、長い間アンダースの中で大きく口を開けていた傷を癒してくれるものだった。

自ら彼を追いやり、彼を失った今となっては、その記憶は尚更辛かった。

アンダースは目を数回瞬かせると、水差しから髪の毛に湯を注いで、石けんを泡立て、その心地よい香りを深く吸い込んだ。何の香りかはよく判らなかった。花の香りとは違い、甘くスパイシーな香りでも無く……何かくっきりした、しかし快適な、郊外の森の中のような香りだった。

彼は数回髪をゆすいだ後、頭の先から爪先に至るまで再び清潔な姿に戻る事に快感を覚えながら、徹底的かつ丁寧に全身を洗った。ひげ剃りまで用意されていたので、頬と顎に指を触れながら、注意深く無精ひげをそり落とした。あいにく、鏡のような物はどこにも無かった。

冷え始めた浴槽からようやく立ち上がると、彼はタオルで全身を拭って乾かし、寝室に戻って適当な服を着ようと服の束を探した。

ズボンが3本、内1本はウールで後の2本は滑らかに柔らかく鞣された革製、綿や麻のシャツが何枚か、新しい下着、毛織と薄い綿生地の靴下が数足、柔らかな革製の上履き、外で履くためのしっかりした革製のブーツ、暖かなウールの外套まで……フェラルデンから逃げ出した後、彼が持ち歩いていた小さな服の包みよりもずっと多い数の、新品の服がそこにはあった。

逃亡生活の間に、彼は各所にシミや汚れのある着古された服と、あの次第にボロさを増していく、あちこちにツギの当たった古いローブを着ることにすっかり慣らされていた。彼は信じがたい気持ちで頭を振ると、ともかく一揃いの服を取って着替えた。

彼は居間に戻ると、隅の洗面所のあちこちを暫く突き回し、櫛がないか探して‐もちろん用意されていた‐テーブルの横の椅子に腰掛け、髪のもつれを解きほぐしながら滑らかになるまで梳かした。速く乾くように結ぶのは止めておき、櫛を側に置くと、数日前に届けられた紙の束を引き寄せて、簡単な絵を上の空で描きながら時間を潰した。そのうち、彼の護衛の一人が部屋に入ってきて時間だと知らせた。

彼は頷き、立ち上がっていつものポニーテールに髪を結ぶ間の少しの間を置いただけで、その男に従って城の中でセバスチャンが占有する一角へと向かった。


セバスチャンは、アポステイトが彼の書斎に入ってきたのを見て頷いた。

「アンダース」彼はそう言うと、アンダースが昨日の午後ずっと図書室で過ごした後で残っていた……繊細とは言いがたい臭気の量に気づいて、彼が召使いに静かに命じた一言がきちんと実行されている事を密かに喜んだ。男は風呂から上がったばかりのようで、清潔な衣服を身にまとい、ジュニパー*1入り石けんの微かな香りだけが感じられた。

大層身綺麗になったものだと、セバスチャンは認めざるを得なかった。そして何故ホークがこの男にあれほど夢中になったか、その理由が多少は理解出来たように思った。彼は確かにハンサムと言っても良く、いささか痩せすぎてはいるが、若く野生的だった当時のセバスチャンなら、振り返ってもう一度よく顔を見ようと思ったかも知れなかった。

「やあ、セバスチャン」アンダースはやや不安げに応じた。「僕に用があると聞いたけど?」

「ああ」セバスチャンは言った。「コテージの方にお前を移す準備が出来たようだ。私と一緒に見て廻って、問題がなければ今日の午後にでも荷物をまとめて移れるだろう」

アンダースは数回瞬きをすると、ゆっくりと頷いた。
「そんなことは、その……使用人の誰かにやらせれば済む事じゃないのか?」彼は恐る恐る尋ねた。

セバスチャンは微かに笑った。
「多分な。だが私もこの部屋の机から暫く離れる言い訳になる。それに、もう随分長い間あのコテージの中を見ていない。ほんの小さかった子供時分に、時たま中に忍び込んでは遊んだものだ。来い」

彼はそう言って、書斎を出て、アンダースと彼らの護衛達を付き従え、階段を下り外に出て、高い壁で囲まれた内庭に入る門に着くと、その場に護衛達を残して中へ入った。門の側に作らせた小さな衛兵詰め所を、彼は興味深げに観察した。アンダースの護衛達は、庭の門を監視しながらこの中で多少は居心地良く過ごせるだろう。

育ちすぎた木々や草はいくらか刈り倒され、作業者達がコテージに出入りする際にベリーや野バラのトゲに引っ掻かれたり、ツタや何かの根っこ、あたりに点々と散らばる枯れ草の出っ張りに足を引っ掛けないよう、片付けられていた。雨戸と扉は深みのある青色のペンキで新しく塗り直され、壊れた雨戸はきちんと掛け直され、ぼろぼろでカビの生えていた草葺きの屋根も新しい藁でふき直された。生け垣は扇形と円形に刈り込まれ、それ自体も飾り模様となるように繋がった当て木で整えられていた。

セバスチャンは、その小さな愛らしいコテージを見渡して笑みを浮かべた。彼はアンダースに視線を投げると、その男が幾度も辺りを見回し、顔にはほとんど唖然とした表情が浮かんでいるのを見て喜んだ。

「中がどうなってるか見てみよう」彼はそう言うと、扉の方へ歩いて行った。

コテージの中は徹底的な清掃を施されていた。木の床は滑らかに砂で削り直された後、ロウと油で光沢を放つまで磨き込まれていた。壁は石灰ですっかり塗り直され、大きく開いた窓の光と相まって、家の中を明るく光り輝かせていた。少なくとも、この窓が日陰とならない間は……しかしこの家は城の北側*2の壁に沿って建てられているため、日中のほとんどの間は日が差し込むと思われた。

コテージには全部で4つの部屋があった。最初の一つは最も大きく、一番奥の壁に据え付けられた大きな暖炉から正面扉の片側の壁までまたがり、1階の大部分を占めていた。暖炉の周囲の床は上質のスレートのタイルで覆われ、小さな台所として使えるようになっていた。残りの室内は食堂となっており、広々とした棚や食器棚、作り付けの箱椅子の中に物品を収納出来た。

食堂と反対側は、別の小さな暖炉が備え付けられた大きめの寝室となっていて、短い廊下が1階の残りの部分を占める浴室へと繋がっていた。普通の良くあるコテージと比べると、ここの浴室は相当広いものだった。とは言うものの、彼の曾祖父、かつての領主が愛人を訪ねる時に使ったであろう事を考えれば、当然の大きさと思われた。滑らかな大理石で形作らた浴槽は、二人がゆったり入れる大きさがあって、片方の壁上部に据え付けられたボイラーから蛇口を通して、直接浴槽へお湯が簡単に落とし込めるようになっていた。

細い階段を伝って傾斜の付いた屋根の下には、一組の天窓が明かり取りとなった書斎が設えられていた。机と椅子が一揃い、他にも数脚の座り心地の良さそうな椅子が点在し、空の本棚が1つ、床のほとんどは大きな編み込みラグで覆われていた。壁の隅には、寝室と煙突を共用する小さな暖炉があった。

下の寝室は簡素な設えとなっていて、天蓋付きの大きなベッドが無地のシーツと飾り布で覆われ、色取り取りのクッションが数個、深い張り出し窓の出っ張りに並べられていて、そこは十分腰掛けとしても使えそうだった。寝室の奥の壁には、分厚い扉が付いた大きなクローゼットが造り付けになっており、扉の内側と棚の奥には服を掛けるためのフックが付けられていた。

部屋の入り口の側には、飾り気は無いが優雅な形の水入れと洗面器が備え付けられ、小さな銀メッキの鏡がその上に掛けられていた。それらの家具は、全て無地の無垢材から作られており、綺麗に磨き上げられた後、蜜ロウで仕上げ拭きされていた。

「ここの家具は少しばかり質素だな、だが実用的だ」セバスチャンは満足げに言うと、小綺麗に整えられた寝室を見渡し、突然アンダースが笑い出したのを聞いて驚いた。彼はその反応に当惑し、振り向いて男を見つめた。
「どうした?」と彼は尋ねた。

アンダースは唾を飛ばして大笑いしており、息を整えて答えるまでにしばらく時間を要した。

「もし君が生まれながらの大公殿下だという証拠が必要だったとしたら……さっきのがそれだ。これが!質素!」彼はさらに笑いながら声を上げると、自分の腹を腕で抱えて床に座り込み、身体を前後に揺すって、両目から涙がこぼれていた。まさしく彼は笑い転げていた。

セバスチャンは部屋を再び見回して当惑した。やはり彼には質素なように思えた。それから、アンダースがダークタウンで使っていた、ちっぽけな部屋とも言えないクローゼットの事を思い出している自分に気づいた。このコテージの一番小さな部屋の半分にも満たず、しかもそこは彼の寝室兼書斎だった。あるいはメリルの、エイリアネージにあった小さなあばら屋、あるいはホークの叔父のギャムレンが住んでいた、ロータウンのあの酷い家。しかもあの家に、しばらくの間はアメル家とホーク家全員が押し込められていたという。

ハングド・マンのヴァリックのスイートルームも……ヴァリックは裕福な商人の生まれであったが、正直な所やや下品な趣味を持っていた……どれにしても、この明るく照らされ快い香りのする、何もかもきちんと整えられた小さなコテージに比べて、かなり見劣りすると言っても良かった。

彼は鼻を鳴らし、チャントリーで彼に割り当てられていた個室とここを比べて、思わず微かな笑みを浮かべていた。やはりこのコテージの方が、明らかに快適なように思われた。

「確かに、お前の言うことも判る」彼は続けた。「普通のコテージに比べて、もっと大きく綺麗な、ずっと設備の整った家を想像していたのでね」

彼はそう言うと、アンダースの方に向き直り、しかめ面をして彼を見下ろした。

「しかしそれでも、ここがお前の牢屋であることに変わりは無い。もし私が、あのダンジョンの中で、お前が何の役にも立たない状態になる有様を自分の目で見ていなかったら、少なくともここ何日かは、あのダンジョンに放り込んだまま辛うじて生きながらえさせて居たところだ」

その言葉でアンダースの笑い声は、それが始まった時と同じくらい即座に、ぴたりと止まった。

「判ってる」彼は静かに言うと目をそらした。「君は……僕が予想していたより遙かに寛大だった。それには感謝している」

セバスチャンは頭を振った。「お前のためにやったのでは無い」彼は冷たく言った。「スタークヘイブンのためにヒーラーには使い道があると思っただけのことだ、それに」

彼は言葉を切り、しばらく唇と引き結んでいた。「それに、エルシナ大司教はいつも無駄を嫌っていた」彼はそう言い終えると、男に背を向けて部屋を出て行った。

アンダースは急いで彼の後に従い、最初にこのコテージに入ってきた時より遙かに真面目な顔で表に出た。セバスチャンは再び周囲の荒れ果てた庭に入ると、足を止めた。彼は長い間、かつては庭の花壇の中心に位置していた、草に埋もれた小さな池を眺めて立ちつくしていたが、再び振り向いてアンダースの顔を見た。

「昼食の後に、お前の身の回りの品をここに移させよう。もし何か手助けが居るようなら使用人に頼め。ここのところ彼らも、私と彼ら自身の面倒しか見ることが無くて暇を持て余しているようだ。診療所の準備が整いお前が働けるようになるまでは、もうしばらく掛かるだろう。それまでは自由にしていて良い。お前の好きな時に図書室に行くことも許すが、運動はこの庭の中で行うように」

アンダースは周囲を見渡した。

「きっと以前は、ここは綺麗な庭だったんだろうな」

彼は静かにそう言うと、草の間から僅かに顔を見せる曲がった小道や池、荒れ果てた花壇の上のもつれ合った木々を眺めた。

セバスチャンは肩をすくめた。

「多分な。私の覚えている限りずっとこんな風に荒れた様子だったが。お前の好きなようにするといい」

彼はもう一度アンダースをちらっと見た。

「診療所の準備が出来たら、検分のためにお前を呼ぶようにする」彼はそう静かに言うと、身を翻して門の方に歩き去った。

アンダースはしばらくの間その場に留まり、大公殿下の背後に十分な余裕を開けた後、彼もまたその庭から立ち去り、これで最後となる城の中の彼の部屋に戻っていった。


*1:ジュニパー(杜松)、マツ科の植物で爽やかな森林の香りの代表。ベリー(松の実)の方は酒のジンの香り付けに使用される。精油としても安価で好き嫌いの少ない香りのため、男性用香水に多く配合される。有名な物では「ブルー・プールオム」など。

*2:テダス大陸は南半球に位置しており、日中に太陽光の差し込む方角は北側となる。原作では若干標記に混乱があると確認が取れたため「北」で統一する。

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