第9章 好奇心

第9章 好奇心


セバスチャンは扉を開けると、空となった部屋に入り辺りを見渡した。アンダースがこの数日間、この部屋を使用していたという痕跡はほとんど残っていなかった。あれほどまでに身の回りの清潔さに無関心で居られる男にしては、結構几帳面な性格のようだと彼は思った。彼は寝室を通り過ぎ‐ベッドは既に片付けられ、剥き出しのマットレスだけが残っていた‐居間の方へと戻った。

あの男がコテージに移った後、どうしてこの部屋を見に来ようと思ったのか今ひとつ良く判らなかった。多分好奇心からだろう、最もこれほどまでに何も残っていなくては、その好奇心も結局満たされずに終わりそうだったが。彼は最後に部屋の中を見渡すと、暖炉の冷たい灰の中に転がっている、丸められた紙くずに気がついた。アンダースの書き損じか。彼はそう思うと眉をひそめ、暖炉の側に膝を付くと紙を拾い上げ、丁寧に灰を振り払ってからまっすぐに伸ばした。あの男が何を書いていたかと好奇心をそそられると共に、またあの忌々しいマニフェストのような扇情的な戯言でなければ良いがと、彼は真剣に願った。

最初の頁には、意味の判らない言葉の断片が書き連ねてあった。恐らく詩を書こうとしたのだろう。大きな染みが紙に付いていた。染みのせいで捨てられたのか、それともアンダースが詩作を諦めたのか。

次の頁を見てセバスチャンは驚いた。数多くのスケッチ、ほとんどは殴り書きと似顔絵であったが、しかしどれも対象のイメージを良く捉えていた。ホークの顔、ヴァリックの顔、テンプラーのヘルメット、またホーク、こちらは横顔だった。フェンリスのトゲの付いた手袋と、羽根風に切り込みの入った革の肩当て。丸く横たわって半分背中を向け、腹を見せて眠っている猫。ドワーフの女性、短い髪を後ろでまとめ、頭蓋骨の文様の入れ墨が顔に描かれていた。再びホーク、肩越しに振り返る姿。イザベラ、本来の彼女より更に魅力的な顔。何かの種類の花。再び猫、背を逆立てて口からは怒りの声が聞こえるようであり、その視線の先にはネズミ大に描かれたテンプラーが逃げ惑っていた。驚くほど詳細に描かれた、ツバメが片方の羽根を上げて手入れをする姿のスケッチ。暗い髪色の男、陰気そうな顔の両端には細く編んだ髪が垂れていた。またホーク、口を大きく開け頭を後ろに反らして、笑っていた。

その頁の大きな水染みの下に、トラ猫の模様をした猫の絵が滲んでいた。染みの上を指でそっと撫でると、彼は紙を丁寧に折りたたみ、ベルトの小物入れにしまい込んだ。台無しになった詩の書かれた紙を暖炉に放り込み、考えに沈みながら部屋から出て、彼自身の居室へと戻った。

彼はあの男に対し戸惑いを感じていた。アンダースがここに来てから彼とは数回話をしただけであったが、既に彼の様子が以前と大きく変わっている事には気づいていた。もちろんカークウォールでのあの出来事の後では、彼ら皆が確実になにがしか変わっていただろうが、アンダースの変貌ぶりは男のどんな言葉よりも雄弁に、ジャスティスが去ったというのが嘘ではない事を語っていた。
今のアンダースは、ずっと無口で、遙かに自信なさげで、傷つきやすく怯えているかのようにさえ見えた。かつての怒りに満ち論戦を好み、自分だけが何が正義かを知っているという確信に満ちた男から、大きく変貌していた。昔のアンダースなら、彼はどう対応すべきかよく心得ていた。しかしこの見慣れない、変貌した男は……彼は頭を振った。

彼は自分の部屋に戻ると、小物入れから紙を取り出し、丁寧に伸ばしてから引き出しへとしまい込んだ。そして机に向かうと、スタークヘイブンを目指してやって来る増加する一方の避難民達にどう対応するか、計画を立てる仕事を少しでも進めておこうとした。しかし彼の心は仕事の代わりに、この部屋の前の所有者達、彼の祖父のアレクサンダー・ヴェイルと、一時スタークヘイブン大公と詐称した彼の不幸な従兄弟ゴレンへと飛んでいた。

セバスチャンが城に戻った時に、ヴェイル家一族のみが使用する区画のうちでどこを使用するか選ぶ必要があった。*1 かつて彼の両親が使用し、その後彼の遠縁の従兄弟、レディ・ハリマンに後押しされて大公位についたゴレンが占拠した部屋を使う気にはなれなかった。彼の祖父の部屋が最もふさわしいように思えた。親族の中で唯一彼の事を気に掛け、同じベッドで眠り、同じ書斎を使い、小さな食堂で共に食事を取った祖父の部屋を使うのは、心慰められる思いがした。長い年月を経て変わった今の彼を見て、祖父がどう思うだろうか。誇りに思ってくれれば良いが、と彼は願った。

セバスチャンがスタークヘイブンに戻り大公位を取り戻す決意をしたと聞いて、ゴレンは賢明にも城を出て、地方にある彼の領地に引きこもった。ハリマン一族の後ろ盾無しには、彼の大公位は控えめに言っても不安定だった。しかも彼は無力な統治者であり、貴族やギルド、そしてチャントリーの意見に容易く押し動かされ、その短い在位の間スタークヘイブンを舵の無い船のように揺れ動くに任せた。彼が自分の屋敷に戻った後にセバスチャンへ送った手紙から見る限り、退位して大公位を正統な血筋に戻せることで救われたと感じているようだった。

セバスチャンは結局その男を赦したものの、領地から外に出ることを禁じ実質的な軟禁状態とした。彼はいずれ跡継ぎが必要となるだろうし、ゴレンは数年前に結婚して既に子供を持っていた‐ 男子が二人と女子が一人、下の二人は二卵性双生児で、皆まだ幼児だった。彼が自分自身で跡継ぎを作ろうと考えない限りは、どこかの時点で彼はゴレンの子供達のいずれかを選ぶか、あるいは同じくらい遠い関係の従兄弟を選んで、後継者として育てる必要があった。
チャントリーの聖職者として、当初は苛立ちの原因であったにせよ純潔の誓いに従い続け、長い年月が経過した今となっては、もはや結婚や家庭生活、あるいはかつての放蕩な生活についてさえほとんど興味を持てなくなっていることを、彼は認めざるを得なかった。そう、もちろん、政略的な婚姻の可能性はあった。先方に同盟者として充分な利点があり、必要性が認められるなら考えない事も無いが、今のところは適当な結婚相手を慌てて探そうという気にはならなかった。

彼は机の上の書類を数枚片付け、ほんの少しばかり仕事を終えると、ため息をついて椅子を机から引いた。現時点で彼はもっと仕事を進めようという気分ではなかったし、こういう時は、緊急事態でなければ少しばかり他のことをして休憩した後仕事に戻る方が良いと経験上判っていた。良い感じに寛いだ後の方が、仕事はずっとはかどるはずだ。

弓を取って来て少しばかり練習しよう、そう彼は決意した。ここのところ忙しさの余り随分ご無沙汰となっていた。彼は寝室に入ると、鎧掛けの上に置かれた弓を取って、しばらくの間笑みを浮かべながら、長年愛用しているエナメル製の白いハーフ・プレートとチェインメールの鎧を見つめた。これも着用しよう、さもないと身体が重みを忘れてしまうだろうと彼は思った。彼はシャツと柔らかなレギンス*2を脱ぎ、衣装棚に歩み寄って、鎧の下に着用するにふさわしい詰め物の入った胴着と革のレギンスを探した。

服を探している間に、彼は部屋の北側に面した窓へと近寄っていた。特別大きな窓では無かったが、アンダースの牢屋となった壁に囲まれた庭とコテージを城から見下ろすことが出来るのはこの窓だけだった。どうやら祖父が受け継ぐ更にその前、この部屋を占有していた彼の曾祖父は、愛人に与えた庭を彼以外の者が覗き見るという考えを嫌ったようだった。それは同時に、彼が愛人と過ごす時間のプライバシーを侵害する事にもなっただろう。同じ方角で庭を覗ける窓は全て下を煉瓦で遮られ、この高窓だけが見下ろすことが出来た。

胴着を身につけながら、セバスチャンはふと好奇心に駆られ、窓から下を見下ろした。誰かの動く姿が目にとまった。アンダースが、草木に覆われた小道を注意深く辿りながら時折立ち止まって屈み込み、植物を調べているようだった。あのメイジは庭を片付けるつもりがあるのだろうかと、彼は不思議に思った。ここから見ると緑一色の中を曲がりくねった小道が通っている模様が見て取れた。また一種の菜園‐恐らく野菜か薬草のための‐がコテージの一方の隅にあり、その部分は他とは明らかに見た目と色合いが異なっていて、かつての名残を留めているようだった。長椅子や何かの構造物が緑溢れる中に隠れているのも見つけることが出来た。

彼が見ている最中にも庭の門が開き、数名の使用人が庭道具を一揃いと、手押し車を持って入ってきた。彼らはアンダースを呼んで来た事を知らせた。男が振り向いて手を振った後、使用人達は道具を置いて立ち去った。セバスチャンはその窓の幅広の窓枠に座り込んで、アンダースがそこに残された道具をしばらくの間調べ、それからコテージの方へ運んで壁に立てかける様子を眺めていた。男は道具のうちの幾つかを選ぶと、コテージの近くの、清掃作業員達が踏みつけて押しやった草や植木から手始めに片付け始めた。

セバスチャンは男が働く様子を暫く見つめた後、唐突に彼の当初の目的を思い出して、窓枠から立ち上がると鎧を身に付ける作業に戻った。革紐を閉めながら彼は顔をしかめた。普段通りの穴で閉めるときつすぎて、胴回りは両方一つずつ外側の穴に紐を通さないといけなかった。毎日机の後ろに座って、ゴレンが後に残したやっかい事を始末し、次第に増える避難民達の流入に伴って増え続ける問題を片付けるために余分な時間を費やしたせいだった。

定期的に鎧を身につける習慣を取り戻し、毎日少しでも必ず運動をする事、彼は決心し、弓と矢筒を取り上げると射場へと向かった。普段の水準から彼の射撃の腕が落ちているのを見ても、彼は‐不愉快ではあったが‐驚きはしなかった。鎧、運動、それと練習。彼はそう心に決めた。


*1:城の中で彼の一族のみが使用する区画(Royal Apartments、複数形)の中でも、寝室や食堂、居間、洗面所などプライベートな部分と、書斎兼執務室のような公的な場所は少し離れている。書斎は彼の前にゴレンと祖父が使用し、プライベート部分は祖父のみが使用していた、という事になる。ちょっとややこしい。
 彼の寝室は少なくとも二階以上にあり、一階はプライベートな用途には使われず、パーティを開いたりする大広間と玄関ホール、使用人達のためのスペースとなっているようだ。一体何個部屋があるのか想像も出来ない。
 ちなみにウィンザー城ともなると、数え方にもよるが1000個近い部屋があるらしい。もはやGPSが必要。小説内でも、アンダースがセバスチャンの寝室近くに割り当てられた部屋から中庭へ出る時に衛兵に案内を頼み、戻れるかどうか心配になるという描写がある。

*2:Leggins。室内用の普段着、または下履き用の短めのズボンで、柔らかな素材で出来ていることが多い。ただし今時はほとんどスパッツやスキニー・ジーンズの事を指すらしい。

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