第92章 安らぎ

アンダースは腰を屈めてユアンの額に手を触れ、異常に冷たくも熱くもないことにほっとした。彼は背後の扉が開いたのを聞いて背をまっすぐに伸ばして振り返り、セバスチャンが入ってくるのをみて微笑んだ。

「彼の様子は?」
彼は静かに側に来て幼い従兄弟の側に立ち、顔を見下ろしながら声を潜めて尋ねた。

アンダースは疲れた笑みを見せた。
「まあ大丈夫だ。命の危険は無くなった。剣は内臓を逸れていたし、傷の方は治したからショックと失血からも良い調子で回復している」と彼はささやき声で答えて、まだ酷く青白い顔で眠る少年を見下ろし、上掛けのシーツの皺を伸ばした。
「子供というのは信じられないほどの回復を見せるから。多分彼も、他の大人達よりずっと先に快復してそこらを走り回ってるだろうね。ともかく、肉体的には。精神的には、メイカーだけがご存じだ」

セバスチャンは愕然としたようだった。
1すら支配していたというのか?彼女が……だが彼はまだほんの子供だ!彼女自身の子では無いか!」

「しーっ。こっちへ、どこか別のところで話そう」
アンダースは穏やかに言った。彼らは寝室を出て、居間で静かに座っていた女性――セバスチャンの数少ない女性衛兵の一人――に通りすがりに頷き、彼女が立って少年を夜通し見守るために寝室へ入っていくのと入れ替わりに廊下へと出た。
部屋の扉の前には、さらに4名の衛兵が立っていた。ジョハンナ・ヴェイルに支配されていた生存者が、その母の仕業に対して息子へ復讐する機会を与えるつもりはセバスチャンには無かった。彼自身が彼女の支配下にあった後では、生存者達の恐れと怒りは十分理解出来た。
彼は確かに運が良かった、もしあれがそう呼べるとすれば――彼が彼女の支配下にあったのは僅か半日足らずのことで、しかもその間は支配されているということに全く気付いていなかった。

彼女の力にあまりにも長く縛られていた者は、彼女の死によって解放された時に死ぬか、完全な狂気に陥った。かろうじて正気の者にその経験を尋ねたところでは、明らかに支配下にあるという事実に気が付いていなかった者ほど、より正気を保てていた。理性を保ったまま考えるにはあまりに恐ろしい事柄を目撃し、あるいは行わされていて、今そのことに気が付いた、少数の不幸な人々を除いては。

セバスチャンの一行が到着した時、ゴレンの館だった家はまさにアンダースが示唆したとおりの狂気の館となっていた。建物の至る所に人々の死体が散らばり、生存者の三分の一以上が程度の違いこそあれ正気を失っていた。力に任せ大騒ぎする者、館を破壊し略奪する者、他の者は――正気の者もそうで無い者も――館の周りの野原へ逃げ去った。館内にどうにか一定の秩序を取り戻す迄には数時間が必要だった。現時点でさえ、セバスチャンの部隊はどうにか広大な館の半分を支配しているに過ぎなかった。

アンダースはセバスチャンが襲撃地点からスタークヘイブンの街に早馬を送り、さらに衛兵を呼び寄せると同時に、教会からの応援も求めたことに喜んだ。ジョハンナ・ヴェイルの死が後に残した惨状の後片付けを始めるだけでも数日はかかるだろう。それに生存者達のメイジに対する極度の不信――アンダースの治療魔法でさえ恐怖と疑いの目で見られた――を考えれば、テンプラーの部隊が近くに居ることで彼らの心が安らぐのは間違い無かった。

セバスチャンがここに滞在する間の居室として選んだ続き部屋に彼らは到着した。彼はアンダースにその寝室に付属する、従者か付添人のための小部屋に入るようにと命じていた。更なる問題の発生に備えて、彼らがここに留まる間はずっと、メイジを手の届くところに置いておきたいというのが表向きの理由だった。二人とも口には出さなかったがたったいまの時点では、二人とも離れることは望んでいなかった、この数日間彼らが直面させられた、お互いが手の届かないところで命の危険に晒されている、あまりにも絶望的な恐怖の後では。

続き部屋の扉が彼らの後ろで閉じた。ようやく二人きりになれたことを共に強く感じ、お互いを不安そうに見つめる内に、彼らの歩みは次第に遅くなり、そして止まった。セバスチャンが手を伸ばすと、この日の前にそうしたように、またアンダースの腕の近くで手を止めた。
「腕の怪我は?」と彼はためらいがちに尋ねた。

「もう、治したよ」とアンダースは、突然込み上げてきた感情に声を詰まらせながら言った。

セバスチャンの手が優しくその腕を握った。彼はもう片方の手を挙げるとアンダースの胸の中央に当て、それでも指先が微かに震えていた。
「あの矢は……」彼は擦れた声で言い、言葉を詰まらせた。

「僕は生き延びた」とアンダースは優しい声で言って、彼の手をセバスチャンの上に重ね、彼の胸に押し当てた。

セバスチャンは黙ったまま、彼の顔を長い間じっと見つめていた。彼もまたセバスチャンを見つめ、まだ彼の眼の深くに、下向きの口角に潜む恐怖と苦痛を見ていた。彼は片手を上げ、セバスチャンが微笑む際にえくぼの浮かぶ場所を指先で優しく触れた。セバスチャンはアンダースから眼を離さずに彼の頭を僅かに廻し、唇でその指に羽根の触れるような軽いキスをした。

アンダースは身を震わせた。指が曲がってその背がセバスチャンの頬をこすった後、彼は手を顔から離し、指を伸ばしてセバスチャンの首筋を手で包むように当てるとその指先を耳の下から、うなじの後ろの髪に差し入れた。セバスチャンは何か気になる様子で下唇を噛み、それから本当にゆっくりと身を前に屈めた。アンダースはただ何もせず最後の瞬間まで待ち、それからほんの少しだけ頭を傾け、セバスチャンの唇が彼と合わさると瞼を静かに閉じた。

唾液で滑らかに滑る温かな唇が、最初は優しくおずおずと、それからより自信ありげに彼の唇に触れた。アンダースは溜め息を付き、彼の唇が僅かに開くとセバスチャンはためらうこと無くそれに乗じて、彼の舌を優しくアンダースの口に滑り込ませた。セバスチャンの手はアンダースの腕から離れて上に動き、首元を優しく掴んだ。長い間彼らはただ静かに立ち、お互いの舌が二人の間で今はアンダースの口の中を、そしてセバスチャンの中をと滑らかに前後した。

ようやく唇が離れた時には二人とも頬を紅潮させ、息を切らしていた。セバスチャンは再びアンダースの顔を凝視し、彼の眼には今は苦悩の影があった。

「アンダース……私は……」彼は言葉を切り、頭を苛立った様子で振った。

「判ってるよ」とアンダースは優しく言った。
「君の誓約。これで良いんだ」

「いいや、これで良くは無い」とセバスチャンは言い直した。
「私は……くそっ。今夜一緒に寝てくれ、アンダース。寝るだけだ。頼む。たとえ私が他に何をすることも許されないとしても、お前に、ここにいて欲しい。この数日の間に起きたことの後で……」
声は次第にか細く消えて行き、それから彼は唇を微かに震わせて、ささやくように続けた。
「私と一緒に居てくれ。頼む」

アンダースは暖かく彼に微笑んだ。
「ああ」彼は短く答え、そして身を傾けると軽く男の頬にキスをして、まだ彼の胸の上に置かれていたセバスチャンの手を固く握りしめた。


ゼブランは彼らに割り当てられた客室の扉を閉め、留め金に掛け棒を降ろしながら大きな安堵感に包まれるのを感じた。長すぎる一日が、ようやく終わろうとしている。二日かな、どちらかというと……彼は昨夜まさにこの同じ館に、長いこと偵察行に出ていたせいで全く眠っていなかった。

彼は振り向き、フェンリスが彼のベッドの端に神経質そうに腰を降ろし、まだ鎧を着たままじっと床を見つめている光景を見て微笑みを浮かべた。また何かふさぎ込んでるな。彼はそちらへ近寄り、手を伸ばしてもう一人のエルフの銀髪を彼の指で優しく撫で下ろすとほんの僅かばかり手に力を込め、ゼブランの方を見上げるまで頭を傾けさせた。

「何かおかしいことでも?僕のいとしい人
彼は手をフェンリスの顔の横に滑らせ軽く包み込むようにすると静かに尋ねた。

「おかしいのはだ」とフェンリスは苦々しい声で言った。
「俺がどんな化け物かもう見ただろう。ダナリアスの汚らしい魔法が俺を何に変えたか」

ゼブランは訝しげに彼の頭を傾けた。
「化け物?いいや。僕の方が君よりもっと化け物だよ」

フェンリスは顔をしかめるとそっぽを向いた。
「馬鹿な事をいうな。俺は武器だ、殺すためだけに作られた何かだ……」

ゼブランは声を立てて笑い出し、フェンリスの怒ったような表情にさらに激しく笑った。
「ああ、友よ、一体君は僕が何だと思っているのかな?僕も、僕こそ、道具として育てられた、誰かの言うままに殺すための。だけど僕は向きを変えて、武器として握っていた者の手を切り落とし、そして今は自分だけが主人だ。君も同じじゃなかったかな?君もそのダナリアスを殺した、そうじゃなかったかな?」

フェンリスは難しい顔をした。
「俺は……まあ、そうだ」と彼は自信なさげに答えた。

「そしてこの実に美しい君の紋様が、今日僕達を助けてくれた。他の皆が心を支配された時、君だけが自由で居た。君だけが自分自身を支配していた。君が僕達を救った。ダナリアスじゃない。彼の魔法でも無い。君だ

ゼブランは微かに溜め息を付いた。
「あるいは、僕達は共に化け物かも知れないね。だけどこの世界には僕らよりもっとずっとひどい化け物が沢山いる。マジスター。ダークスポーン。アボミネーション。それに狂人」
彼は手を伸ばし、この日早くにフェンリスがブラッド・メイジを殺した時、その心臓を握りつぶした手を持ち上げると、尋ねるようにもう一人のエルフを見つめた。
「この手で君が出来ることを、僕が怖がるとでも心配しているのかな?だけどこの手は殺すのと同じように救うことも出来る、アンダースを救ったようにね。それに殺すことによって救えることだってある、まさに今日君がそうして皆を救ったように。いいや、フェンリス――君がこの手で何が出来ようとも恐れはしないよ。君が僕を、数百を超える命を奪った者を恐れないのと同じだ」

彼はさらに手を持ち上げ、フェンリスの篭手の背に口付けると優しくそれを手から外し始めた。フェンリスはゼブランが彼の素手の甲に口付けるのを、魅了されたように眺めた。
「君はどこからどこまでも素晴らしい、身体のあらゆる部分が、あらゆる技能が、君の全てが」

「何が素晴らしいのか、俺に教えてくれ」とフェンリスはささやいた。彼は身を震わせると、もう片方の篭手を脱ぎ捨て、手を上げてキスのためにゼブランの頭を引き下げた。
「教えてくれ」と彼は繰り返した。

ゼブランは頷き、彼のベッドに入り込んだ。


Notes:

  1. Ewan:スコットランドやカナダで一般的な名前で、「年古る木から産まれた者」というような意味(Eoghan)。
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第92章 安らぎ への4件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    バスティーユが堕ちたぞ~~~~!!!

    いやそれバスティーユちゃうフェンリスや。

    というかあっちもこっちもボタボタ堕ちすぎw
    以前言ってた「ヴェイル大公が『私』から『俺』に
    変わる瞬間」って多分ここでしょうねえw

  2. Laffy のコメント:

    宝塚かっ!w>バスティーユ
    フェンリスはもう最初から落城済みだし(脳内)ww。

    >以前言ってた「ヴェイル大公が『私』から『俺』に
    そーなんです!(^^)
    でも止めた。君はもうずっと私でいなさいw そのほうが合ってるわ。
    それに口調から語尾から全部変えるの面倒すぎます。ただでさえ、VS偉い人VS子供VS友達VS身内(領民)で全部違う人なのに。この上VSアンダースで変わったらもう脳内シミュ無理w

  3. EMANON のコメント:

    バスティーユから宝塚へ行けるあたり、間違いなく同年代w

    Moonlight番外編うpしますたーw
    暗いです果てしなく。

  4. Laffy のコメント:

    うわあああああん(T_T)
    かあいそ過ぎるよ……ぐっさり来たよぐっさり。
    【ペタペタ】ガラスクロステープ【貼り貼り】

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