誓っても良い、フェンリスのことはすっかり忘れてしまおうと俺は努力した。あれもこれもみんな、俺の頭が一時おかしくなってただけだ。あのエルフを上に乗っけなくても、俺は山のような揉め事を抱えていた。
だが事の成り行きは俺の思うようには行かず、そして揉め事はどうやらあちらから、俺を見つけて飛び込んでくるようだった。
まさかアヴェリンが、その一つだとは予想もしていなかったが。彼女は俺のやる事にいつも賛成してくれる訳では無いが、俺は警官の彼女の手が及ばないところをほじくり返すことが出来た。色々欠点はあるにせよ、彼女は規則の良い破り方と悪い破り方を充分心得てるってことだ。
その日の朝、電話が鳴った。アヴェリンの声だった。
「トリップ!あなたに話があるの」
自宅で働くってのは良いことばかりじゃあない、突然の電話もその一つだ。大体掛かってくるのはギャムレンの借金取りと相場が決まっていた。
カーヴァーも俺も、そもそもギャムレンが電話を引いていることに驚いたものだ。ロザリングじゃ村全体で電話があるのは宿屋だけで、みんなそこに集まって電話していたし、他の村でも大体事情は同じだった。だがカークウォールでは大勢の人々が自宅に自分だけの電話を引いていた。世の中は確実に進んでる、そうだな?
「明日まで待てないのか?別件が入ってる」
「いいえ。こちらの方が重要よ。半時間でそちらに行くわ、待っていて頂戴」
やれやれ。彼女を待つしか無いようだ。
「カーヴァー!」
カーヴァーは彼の部屋でむっつりと不機嫌な面をしていた。やつは最近そんな顔をしていることが多かったが、俺には理由がよく判らなかった。
「何か起きたようだ。あのご婦人のガキはお前が探してやってくれ」
「俺がいつも暇だとでも思ってるのかよ?何か用があったらどうするんだ?」
カーヴァーは腕を組んで俺にしかめっ面をした。
「じゃあ母さんにはお前から、折角の仕事を断ったって言うんだな」
俺はやつの曖昧な返事にこだわっている時間は無かった。
「大体何をそんなに苛々してる、ええ?まるでギャムレンみたいな湿気た面しやがって」
「聞きたいか?ああ、良いとも」
やつは立ち上がって、俺の鼻先に一握りの手紙を押しつけた。
「いつになったら兄貴はこの手紙について説明するつもりだ?」
「なんだ?それは俺が金庫室で見つけた古い手紙だろう」俺は肩をすくめた。
「全部母さんに渡したぞ。お前が興味を持つなんて思っても無かった。一体何の陰謀があると思ってるんだ、カーヴァー?」
「これを見ろよ。一人のテンプラーが、父さんがサークルから逃げ出すのを助けたんだ。彼らは皆モンスターなんかじゃないぞ、トリップ」
俺は本当に、やつからテンプラーに関する講義を聞く気分じゃ無かった。
「その話は結論があるのか?あったらさっさと言っちまえ」
カーヴァーは手紙を取り返すと丁寧に畳んでしまい込んだ。
「結論なんかないさ、あるわけないだろう?」やつは部屋を出るとドアを叩き付けて閉め、壁に掛かった安物の絵の額が飛び跳ねた。
アヴェリンはぴったり30分後に、制服を着たまま現れた。彼女は仕事場に腰を降ろし、飲み物は要らないと言った。
「さーてと、君のために一日空けた。何があった?」
「ちょっとした情報が私の膝に転がり込んできたのよ、トリップ。正直に言って、この件についてどうすれば良いか私にも判らない」
彼女はそう言うと、足を組んで帽子を膝に乗せた。
「クナリについては、あなた何か知ってる?」
その質問は、俺の予想からはまるきり外れていた。
「大したことは。でかい理想を持ったでかいやつらで、でっかい銃を持ってる。大使館を開こうと何度も市長に使節を送っていて、みんなそれで神経質になっている、そう新聞では読んだがね。連中はテヴィンターの悩みの種で、俺達のじゃないと思っていたが」
「その通りよ。でも、ひょっとするともうじき私達の問題になるかも知れない。昨日、ダークタウン近くの波止場で、エルフを痛めつけていたならず者を二人捕まえた。連中が強がりを言い出すまでは単なる強盗だと思っていたのよ。その男が言うには、彼は市長秘書からの命令で動いていて、クナリはもうじき当然の報いを受けるんだとか、何とか」
「ふん、クナリを撃つつもりなら何だってエルフを痛めつける?どう考えても見間違えるのは難しいぜ」
「判らない。エルフはその場から逃げ出したから。それに、警察はエイリアネージで人気があるとは言えないし」
「どうしてかな、俺には見当も付かないなあ」
「トリップ。私も今の警察が抱えている問題には気がついてるわ。だけどそのために今日ここに来たんじゃないの。私は連中に被疑者の権利を読み上げてやってからブタ箱に叩き込んだ。連中は私のバッジを取り上げてやるって悪態を付いていたけどね」
「もちろん連中にそんなことは出来やしない」
「いいえ。だけど今日出勤した時には、連中は消えていた」
「消えた?」
「保釈金無し、書類無し、もちろん牢破りでもない。そのことをジャヴェン隊長に知らせたのだけど」彼女の顔は暗くなった。
「彼はコーヒーを持って来いと言っただけだったわ」
「すると君は何か裏にあると思った訳だな?だけどそれだけじゃあ、手がかりが少なすぎる」
「連中の名前と、捕まえた場所は控えてあるわ」彼女の唇の隅が上向きに曲がった。
「それだけで、あなたには充分でしょう?」
俺は帽子を引っ掴んだ。
「何が出て来るか、見に行くとするか。面白くなりそうだ」
アヴェリンの存在は時にはことをややこしくしたが、今日の場合は彼女が隣に居てくれてありがたかった。俺達はダークタウンに行って、悪い連中を捜す訳だから。ともかく連中は、表だって制服警官に襲いかかるほどのワルじゃあ無かった。
昼前には俺達は2つばかり手掛かりを拾っていた。そのならず者連中はウィンターズという組織のメンバーで、何か上手い儲け話を期待しているらしいと言うこと、もう一つはこの件を聞き回っているのは、俺達だけじゃないと言うこと。
クナリが、俺達より先にダークタウンに来ていたという。
日の光の下に戻った後、俺とアヴェリンは頭を付き合わせて相談した。
「調べれば調べるほど、これは何かあると思わざるを得ないわね、トリップ」
「何かあるのは間違い無いな。だけど一体何だ?もしこの話が上層部と繋がってるとしたら、下手に鼻先を突っ込むと切り落とされるぞ。それにこのクナリな。俺の得意分野じゃあない」
「ふーむ。誰かあなたより詳しい人、思いつかない?」
事実問題として、俺は誰かを思いついた。俺としては、あまり嬉しくなかったが。
「クナリともう何十年も戦争を続けているのは誰だ?テヴィンター帝国だ。助けになりそうな男に心当たりがある。彼は上町にいるはずだ、多分」
「トリップ!ここは犯罪現場よ!」その邸宅の前は封鎖され、警察の名前入りのテープが黒こげでぽっかりと空いた玄関先に張り巡らされていた。
「俺もこれは気違い沙汰だって思うさ。だけど彼はここに居ると言っていた」
「正確なところ一体誰と会おうというの?」アヴェリンは渋々テープの下を潜りながら尋ねた。
「正直言って、俺にも正確なところは知らん。こんちわ?フェンリス?」
邸宅の壁自体はほとんど無傷で、俺達は壁沿いに、あの炎の化け物が出現した広間を通り抜けた。天井は燃え落ち、焦げた骨組みが露わになっていた。何もかもまだ強い煙の臭いがしていた。しかし火事は上の階にはほとんど被害を与えなかったようで、もし本当にフェンリスがここに住んでいるならそっちだろうと、俺は思っていた。
アヴェリンは俺の後に付いて階段を上がりながら怪しむような表情を浮かべた。
階段の半ばにさしかかったところでフェンリスが突然階上のドアの向こうから現れ、俺達をオートマチックの銃口越しに睨み付けた。俺はアヴェリンが銃に手をやるのを感じて、慌てて両手を上げた。
「どうどう、落ち着けフェンリス。俺だ、トリップだ。こっちの女性はアヴェリン。彼女は友達で、今日は俺のクライアントでもある。君が犯罪現場に居るからって捕まえに来たんじゃない」
「本当はそうすべきなんでしょうけどね」アヴェリンは指摘したが、フェンリスが銃をおろすのを見て緊張を解いた。
「君が結局のところ俺の助けを必要とするとは思っていなかった」フェンリスは俺達を通しながらそう言った。
「まあ、必要になった訳だ。君は帝国のために仕事をしていた、そうだろう?きっとクナリとも接触があったはずだ」
微かな笑みが彼の顔を過ぎった。
「間違い無く」
その屋敷の上階は、この前ここを出た時とほとんど何も変わっていなかった。このエルフは果たして私物というものを持っているのだろうか。俺は壁にもたれ掛かって、アヴェリンが事情を彼に説明するのを聞いていた。
「クナリのやり方は、他の種族とは違う」フェンリスがその後で言った。
「もし彼らが知っていることを知りたければ、一番簡単な方法は、彼らに直接尋ねることだ」
「そんなことをして殺されたりはしないのか?」
と俺は聞いた。
「キュンの教えがそう求める場合のみ」
「その選択肢はとりあえず置いておきましょう」とアヴェリンがため息をついて言った。
「あのエルフを見つけるのが先よ。もし彼が何も知らなくても、ウィンターズの連中が何を彼に求めていたかは判るはず」
「そうだな」と俺は言った。
「だけどアヴェリン、君が普通の服に着替えない限りやつを見つけるのは無理だろう。エルフは警官には口を聞かない」
「判ってる、判ってるって。あなたに任せるわ、だけど何かあったらすぐ知らせて、いいわね?どっちみち、もう私も仕事に戻らないと行けないし」
「仰せの通りに」俺はフェンリスを眺めやった。
「すると、君は興味があるかな?つまり、この件の手伝いについて」
「君に同行しよう。手伝うと言ったのは俺だ、それに他にやることもなさそうだからな」
アヴェリンは俺達と別れて警察署に戻り、フェンリスと俺はケーブルカーで下町に戻った。彼は車を盗ってこようかと言ったが、俺は断った。冗談だ、そうだよな?
「それで、なんだって君はあの邸宅に住んでいるんだ?」
「他にどこに住めと?エイリアネージか?」フェンリスは午後の日に照らされた下町を眺めながら言った。
「お勧めはしないがね、もっともメリルはそれなりに気に入っているようだ。エルフにとっては、より安心して住める場所じゃないのかな」
「俺を追っている連中からもか?」彼は振り向くと顔に苛立たしさ半分、面白さ半分と言った表情を浮かべた。一理ある、俺はそう思った。
「もしあの邸宅にダナリアスが戻って来た場合に備えて、俺はあの近くに居る必要がある」
「あそこは半分燃え尽きた廃墟だぞ。どうして彼が戻ってくると言える?」
「俺がどこに住むかを、何故君がそう気に掛ける?俺はこれまでずっと、俺以外の誰かの気まぐれに従って生きてきた。もう沢山だ」
「判ったよ、ゴミために住もうが焼け跡に住もうが君の自由だ。俺ならリッツを選ぶがね。それも、人それぞれだ」
正直に言えば、彼の気持ちは判らないでもなかった。エイリアネージは俺の家からほんの数ブロック先だったが、高いビルの影に囲まれたその区画におよそ日の差し込むことはなく、ぬかるんだ街路も乾く暇が無いようだった。俺達がそこに向かう斜面を降りてゆくと、煤だらけの顔をした子供達がわっと散り散りに逃げ出した。
俺よりも更にフェンリスが注目を浴びているようだった。彼のような長身でスーツを着たエルフは、しょっちゅうお目にかかれる物じゃない。じろじろと見つめられて彼は居心地が悪そうだった。
「さあ、行くぜ」
俺はとびきりにこやかな営業用の笑顔を顔に貼り付けると、屋台の一つに向かった。
俺達は屋台から新聞売りに道路掃除人と尋ねて廻ったが、エルフが一組のヒューマンにぶちのめされていたというのは、ここではニュースでも何でも無かった。夕暮れが近づく頃には、俺達はどん詰まりで手詰まりだった。街路は街の別のところから帰ってきた労働者で溢れていた。エルフ風のスパイスの利いた料理の匂いがそこら中に漂い、俺は胃袋が小さく鳴るのを感じた。そろそろ今日は終わりにして、母さんが今夜は何を夕食に作っているか見に戻ろうか。ひょっとしたらフェンリスも夕食の招待を受けるかも知れない。
そしてその時、俺はクナリの姿を見た。エルフの群れの中ではやつは隠れようがなかった。少なくとも頭一つ分と、それに肩も群衆の上からはみ出していた。俺はフェンリスの肩を肘でつつき、彼はしかめっ面で俺を睨み付けた。
「それは止めろ」
「この次は手紙を送るさ、行くぜ。それと、殺しは無しだ。どうしてもで無い限りは」
「俺はどうしても、でない者を殺したことは一度も無い」フェンリスがむっつりと指摘した。議論している暇は無い。俺達はさっさと群衆の中を潜り抜けていった。ニシンの群れを突き通るバラクーダのように。それともサメと言った方が近いか。
フェンリスは追跡に掛けても上出来だった。カーヴァーよりも上手だ、まあ当然だな。テヴィンターは彼をしっかり訓練していた。それにこのクナリは、俺達に半ブロック後ろから付けられているとは思ってもいないようだった。彼はぼろぼろのアパートが建ち並ぶ一角で地下行きの階段を下り、姿を消した。俺達が彼に追いついた時には、その姿は見えなくなっていた。
「この下のどこかに居るはずだ」俺は呟いた。
その時、アパートのどこか奥の方から銃声が聞こえた。俺達は階段を走り下り、足音が剥き出しの吹き抜け階段に反響した。フェンリスは開いたドアから中に踏み込みながら銃を抜いた。廊下のあちこちに、この騒ぎはなんだと自分の部屋から頭を覗かせるエルフの姿が有ったが、廊下を走り抜ける俺達の姿に彼らは大急ぎで頭を引っ込めた。
騒動に首を突っ込むのは悪くないが、俺がその張本人なのは更にいい気分だ。
俺達は足を止めて耳を澄ませた。尋問か?何かそういう様な、男の声が聞こえた。
「先に撃ってから尋問をするかな?」俺はフェンリスに聞いた。
「クナリに尋問は通用しない」
「どうやらここのまだ地下に居るようだ。階段を探そう。俺は左に行く」
フェンリスは頷き、俺達はそこで左右に分かれた。廊下の突き当たりで喧嘩をしている年寄りを押しのけると非常階段があった。要するに、この下に更に地階があるってことだ。俺は一息に非常階段を飛び降りると、地下室の扉の前でちょいと掌に魔法を込めて、錠前を壊した。俺はそうっと重い鉄の扉を開けて、中を覗きこんだ。誰かの悲鳴が聞こえた――多分、クナリじゃあない――それと足を引きずる音。でかい地下室はガラクタとゴミで溢れていて、部屋の真ん中の天井に一つだけ電球が点り、その下に椅子に縛られたエルフが見えた。彼はよれよれの様子だったが、まだ悲鳴を上げるだけの元気はあるようだった。
「さっさと吐け、この牛男の糞拾い野郎」誰かが怒鳴った。冗談だろう?牛男?俺の犬でももうちょっとマシな悪態を付くぞ。俺は頭を低くしたままそっと地下室に忍び込んだ。どこかから、ドアがカチッと開く音がした。フェンリスだ。
そうであってくれ。
突然、俺の右側に向かってショットガンが撃たれたような轟音がして、俺は飛び上がった。俺は床に平べったく伏せ、また銃声と共に銃口がパッと明るく光るのを見た。さっきのエルフはようやく頭を使ったようで、縛られている椅子を傾けて床に倒れ込み銃弾を避けた。あるいは、撃たれたのかもな。
誰かが俺のすぐ側の暗がりから姿を見せ、俺は一瞬すくみ上がった。フェンリスだった。彼は指を一本、ついで五本上げた。クナリが一人、他の連中が五人。俺は連中が最後に銃を放った場所を指さした。
フェンリスが頷いた。
俺は見えない指で、空気をちょいとつねった。
電球がポンという音と共に弾け飛ぶのを合図に、俺達は攻撃を仕掛けた。俺は左、フェンリスは右から。地下室に銃声と閃光が走った。閃光の元を辿って、俺は熱い銃身を引っ掴みねじり上げると、そのまま持ち主の手から奪い取ってグリップを口に叩き付けた。フェンリスの紋様が青白く輝き、彼が後ろ手に男の顔を叩きのめすのがちらっと見えた。ショットガンの音は聞こえなかった。クナリは撃つのを控えているようだ。
俺の拳が何かで遮られて、多分銃だろうが、まるでチーズおろしで擦ったように痛んだ。くそったれ!俺は次のキックにちょいと力を多めに乗せ、そいつは後ろの壁へ吹っ飛んだ。
俺達以外の全員を伸しちまうのに、15秒と掛からなかっただろう。すんげえチームだ。
マッチを擦る音、そしてフェンリスが俺の背後で音源の方に銃口を向けた。微かなリリウムのざわめきが、彼の上着と俺の背中を通してさえ感じ取れた。
銃身を切り詰めたショットガンを腕の中に抱え込んだクナリが立ち上がって、煙草に火を付けた。フェンリスは彼のオートマチックをショルダーホルスターに戻した。
「一体全体ここで何があった?」俺はクナリに尋ねた。
「お前は知らなかった、では何故干渉する?」
クナリの声はどことなく苛ついているようだった。
「そこのエルフさ。助けが必要なように見えたからね。おい、生きてるか?」返事に唸り声が聞こえた。さしあたっては大丈夫か。
「もし君が電球を壊すよりスイッチを見つけていれば、話は簡単だったな」フェンリスが指摘した。俺は彼にしかめっ面をしたが、多分暗すぎて見えなかっただろう。廊下から漏れ込む微かな明かりで、部屋の中は辛うじて物の輪郭が見えるだけだった。
俺はエルフの椅子を引き起こしてやり、エルフの身体も一緒に付いてきた。俺がやつを縛り付けた紐を解いている間、フェンリスはクナリと、彼らの言葉で何か話していた。
「彼は何と言ってるんだ?」と俺は尋ねた。
「今のは単なる儀礼上の挨拶だ」フェンリスが言った。
「お前はとても興味深い仲間と行動を共にしているな」クナリの声。
ああ、言われなくても判ってるよ。
「それで、あんたはここで何をしていた?」
「キュンは自らの仲間を守る」
俺はエルフを眺めやった。
「彼か?」クナリは薄闇の中で頷いた。
「うぅ……ありがとう」エルフは顔に付いた血を手で擦った。彼の眼は腫れ上がりあちこち痣だらけだったが、それ以上深刻な怪我はなさそうだった。
「この男達は君から何を聞き出したがっていたんだ?彼らはウィンターズ一家の連中だ、だろう?」
「誰か叩き起こして、口を割らせようか」とフェンリスが提案した。
「出来ればこの件は楽な方法で行きたいね」
エルフはクナリの方を見つめた。
「僕が答えるべきかな?」
「俺のここでの役目は終わった」
エルフは肩をすくめると言った。
「やつらはシェイマス・ドゥマーがどこに居るか知りたがっていた。僕は知らないのに。やつらは僕から聞き出すまで殴り続けるつもりだった」
「ドゥマー、ドゥマーね……その名前は聞いたことがあるな」血の滲んだ右手の甲を調べながら、俺は考えた。
「ドゥマー市長か。なるほど、上層部との繋がりね。シェイマスは彼の血縁に違いないな」
俺はクナリを見やった。
「この話はあんたとどういう関係がある?」
「シェイマスは俺達にも知られている。彼は良くアシャードと話をしていた。今でも会っている」
「アシャードってなんだ?」
フェンリスが答えた。
「彼らの情報収集者だ」
「どうやらそのシェイマスを連れ戻すために、ウィンターズが雇われたようだな。気になるか?」俺はクナリに尋ねた。
「いや。俺のここでの役目は終わった」彼はそう言いつつショットガンを外套の内側に吊したホルスターへ納め、煙草の煙をたなびかせながら歩み去った。俺は頭をかきむしった。やつらが何を考えているのか、俺にはさっぱり判らんぞ。
「やつらはいつもあんな風なのか、フェンリス?」
「そうだ」
俺はエルフの腕を持って、立ち上がらせた。
「とりあえずウィンターズはもう手を出してこないとは思うが、俺ならしばらく目立たないようにするだろうね」
「ああ、そうするよ。ありがとう」
「おい、君は本当にこの『キュン』とやらの信望者なのか?」と俺は聞いた。
「彼らは僕が求めていることさえ気がつかなかった問いかけに、答えを与えてくれた」そのエルフは答えた。彼はもう一度俺達に頭を下げて、よろよろと階段を上がっていった。俺は肩をすくめて後を付いてった。俺達が再びすっかり日の暮れた街路に出た時には、もう彼の姿はどこにも見えなかった。
「キュンは彼らに確実性を提供する」俺達が下町の街並みをぶらぶらと戻りながら、誰へともなくフェンリスが言った。
「確かな目的、確かな信条。そしてキュン以外に、彼らに何かを与える者は居ない」
「君は随分詳しいな、あるいは入ろうと思ったことがあるとか?」
「いいや。ダナリアスに仕えていた時には、確実性が俺の持つ全てだった。俺の存在意義が何かを知るために、キュンに教えて貰う必要などない。俺はペットで、武器で、見せびらかすための所有物、それ以外の何物でもなかった」
彼はまたあの、唇の隅を歪める笑い方をした。
「まあね、だけどもう今は違う。前を見ろよ」と俺は手を振った。
「自由がお待ちかねだ」
彼の眼差しは氷のようだった。
「君は何も判っちゃいない」
もううんざりだ。こんな風に言われる筋合いは無い。
「ああそうだとも、俺だってすんげえ愉快な人生を送ってきたぜ」
俺はフェンリスに同情しない訳じゃないが、全宇宙で彼だけがきつい人生を送った男じゃあない。奴隷時代の話しぶりに反して、自らの技能に対する彼のプライドは相当なものだ。そいつをちょいと針先で突いてやるのはごく簡単だった。
「君の素手での戦い方も、悪くはねえな、アマチュアにしては」
その言葉は彼の注意を引いたようだ。彼は振り向き、両方の眉を上げて俺を睨め付けた。
「俺がアマチュアだというのは、どういう解釈だ?」
「君は仕事のために戦い方を学んだ。俺は自分の自由と命のために戦ってきた、毎回な。失敗する余裕があるのはどっちだ?」
「俺も自由のために戦った」
「六つの時からか?俺の聞いた所によれば、一生のほとんどの間、君はご主人様のために戦っていたんだろう」
彼は俺の方に身を乗り出し、歯を剥き出しにした。もしここが下町の大通りでなかったらパンチの一つも喰らっていただろう。
「君は確かに上手だ、トリップ。だが言うほどでは無い。俺なら心臓が一拍打つ間に黙らせてやる。君のご大層な魔法があっても、無くてもだ」
彼は俺の顔を数インチ先から睨み付け、俺も真っ正面から睨み返した。
「ああいいとも、喜んでいつか決着をつけてやるさ。だが今のところは、俺達はアヴェリンと話をする必要がある。この問題がでかくなりやがったからな」
くそっ。何だって俺はこいつのことになると、こうもカリカリするんだ?