13.造船工組合、賃上げ要求

俺が眼を開けると、ズボンだけ履いたジェサンが俺達の身体を綺麗に拭いているのが眼に入った。彼はまた俺にまたがって座り、俺のシャツのボタンを元通りにはめていた。

「おかえり」とジェサンは気取った口調で言った。

「うう……ここのしきたりじゃあ、この後はどうするんだ?」

「かわいい人、さっきも言っただろう?これは仕事じゃないんだ。内気なフェラルデンの坊やに手ほどきをしてあげただけ。それに僕も楽しめるなんてそう有ることじゃあ無いんだよ、知ってた?」

一瞬、俺はフェンリスに一杯食わせて似たような体験をさせようかとさえ考えた。だがその考えは、ホンの一瞬で消え去った。俺以外誰の手も、彼に触れさせたくは無かった。
ああ、偽善的だってことくらい判ってるさ。それに誰が彼に触れていようがいまいが大したことじゃない、そうだろう?

「ああ、そう。その、ありがとう。多分」俺には沢山考えることがあって、この部屋はそうするのに適当な場所じゃなかった。

「もう一つだけ」とジェサンが俺の手を取って見おろすと言った。
「もし君が良かったら、お願いしたいことがあるんだ。ニネッテを見つけたら教えてくれる?彼女が無事だって知らせて欲しい」

俺は彼に笑いかけた。
「ああ、もちろんそうするよ。調査の結果がどうだろうと君に知らせる」

「ありがとう。さあ、君の弟が下のバーで破産する前に、君を戻してあげた方がいいね」

しまった。完璧にカーヴァーのことを忘れていた。
「くそっ!」気が利くことに、ジェサンは俺が髪を撫で付けながら帽子掛けに突進する側からすっと身を反らせた。
「今何時だ?」

「そろそろ6時かな」とジェサンは頭を傾けて俺の方を見た。
「君はもう僕と遊んでくれはしない、そうなんだろう?」

俺は頭を左右に振った。
「君のせいじゃない。君は……」

「素晴らしかった、そう言いたいんだよね?」彼は人々の気を楽にする秘訣を知っている様だった。きっとそれが、本物の商売秘密なんだろう。
「さあ行って。君のエルフを誘惑してきなよ。幸運を祈ってるけど、きっと君には必要無いな」

俺は声を立てて笑って首を振ると、彼にさよならと言った。

カーヴァーはバーにはいなかった。ギャムレンも姿を消していて、そっちは俺には有難かった。マダム・ルジーナは俺が急ぎ足で出ていくのを片方の眉を上げて眺めていたが、俺は弱々しく笑い返すのが精一杯だった。またもや薔薇の館の勝ち、というわけだ。

俺はカーヴァーがきっとへそを曲げながら家に戻ったんだと想像していたが、ケーブルカーの停留所のすぐ側で、壁にもたれて煙草を吸っている彼を見つけた。俺達は互いに見つめあって、やがてカーヴァーが肩を一つ竦めた。

「兄貴、家までの運賃を貸してくれるか?」とカーヴァーは言った。

「はぁ?何でだ?たった10カッパーだろうが」

「うん」彼は立ったまま、煙草を大きく吸った。

俺は片方の眉を上げてやつの顔を見た。
「一体全体お前は何をしてたんだ?」

彼は腕を組んで、顎を引くと俺の方を上目遣いに見た。
「俺も同じことを聞きたいね」

「判った、結構だ」俺はポケットの小銭を探り、彼に運賃分を手渡した。
「俺達は、今後一切――」

「この事については口にしない」

「決して」

「絶対に」


「エメリック、エメリックね」アヴェリンはキャビネットの中の書類を次々にめくった。
「それと、ここには訪問客カード無しに入っては駄目でしょう。二回目よ」

俺は肩を竦めた。警察署の安全措置は俺の知ったことじゃない。アヴェリンは重たげな金属製のキャビネットをガチャンと閉じた。

「もし彼があなたのような私立探偵なら、ライセンスされてないわ」彼女は振り向くと、俺に意味深な視線を向けた。
「もっとも、ここでは大した問題ではないようだけど、明らかにね。ところでトリップ、身体の調子でも悪いの?ひどく疲れているみたいだけど」

「ああ、うん、よく眠れなくてな。色々考えることがあって。さて、ありがとうアヴェリン。恩に着るよ。それと、この前の事件の報賞におめでとう」

「あら、あれを見たの?八頁、地元ニュースの隅っこよ。カーヴァーは一面に出てたわね」彼女は頭を振ってやれやれといった笑みを浮かべた。

「またすぐ貰えるさ。今度はカーヴァーの写真は載せないよう注意しとくよ」と俺は笑って言うと、彼女に手を振って部屋を出た。

ここの所、俺はよく眠れなかった。実際はほとんど寝ていなかったという方が近い。俺の心の中はやましさと恥ずかしさと、そして希望が三等分して互いにせめぎ合い、そのことで俺は誰を責めたらいいのかもよく判らなかった。ジェサンか、フェンリスか、俺自身? 俺は可愛い女と美味い酒と愉快な仕事が好きな、単純な男だ。あるいは、確かにそうだったはずだ。

俺は先日の夜、俺の身に起きたことが本当の話だとは、未だに信じかねていた。そして俺がそれを大いに楽しんだということも。その記憶全てはまるで痛む歯のようなもので、俺は突っつくのを止められず、そしてそのたびに怯んで投げ出した。

そして最悪なのは、およそジェサンの楽観視とは反対に、フェンリスのことを考えた時、およそ彼が教えてくれたどんなスキルも使えそうにないことだった。もし俺がシャツを脱いでフェンリスに飛びかかろうもんなら、彼が俺の鼻っ柱を一撃で砕いて、後も見ずに立ち去るのは間違い無かった。彼の立場なら俺だってそうしただろう。だが、もし彼がジェサンの立場だったら――その思いが、この数日俺を眠らせない原因だった。

俺は自分に言い聞かせた。いいか、お前がどれだけヘンテコなセックスに興味を持とうと、何にもなりゃしないんだ。フェンリスはそっちの傾向は、というよりも一切そういうことに興味有りそうなしるしは見せていないんだからな。だから、何も起こりやしない。

ともかく俺には片付けるべき仕事が残っていた。
カーヴァーは玄関で待っていた。俺は彼の顔を見ると肩を竦めた。

「エメリックの記録は無いそうだ。簡単な方法では済まなくなったってことだな」

「どうする、ニネッテのことをホテルの従業員に聞き回るか?」

「そうだな。お前は下町を当たってくれ、俺は港の方を廻る。それで今晩家に戻ったらメモを付き合わせよう。それとこのエメリックというやつも聞き耳を立てて置いてくれ、一体こいつが何物で、何を探しているのか知りたい」


俺は何も見つけられなかった。その晩俺の仕事場に戻ってカーヴァーのメモと付き合わせた所、結局彼の方も同じように成果無しと判った。

「だけど、彼女が空気中に消えられる訳じゃ無い」とカーヴァーが言い、机に脚を載せた。

「恐らく彼女は街を出たんだろう。もしそうだとしたら、俺達に出来ることは何も無い」と俺は考え込みながら言った。

「信じているようには見えないぜ」

「ああ、その通りだ。もし彼女が夫から去ったのなら、それは結構。彼女を責めはしない。だけど彼女には家族が居て、それと、あー、プロフェッショナルな恋人がいて、そのどちらにも彼女は何も連絡していない。どうも嫌な感じがする」

「彼女に何か起きたと思ってるんだな?」

「あり得ない話じゃあ無いからな。その仮定に基づいて調査をやり直す必要が有りそうだ。またアヴェリンの所を尋ねて、市の遺体安置所の最近の記録を見られないか聞いてみるか」

扉をノックする音が聞こえて、俺達は二人とも飛び上がった。それから俺は声を立てて笑い、カーヴァーは弱々しく笑った。正直な所、殺人事件の調査は俺達はこれまでやった事が無かった。俺達はちょっとばかりびくついているようだ。

「やれやれ、行って出てくれよ」と俺はカーヴァーに言った。「お前の方が近い」

カーヴァーはため息を付いた。椅子から降りて玄関扉を開けた瞬間、彼の背が緊張するのが判った。
「テンプラーか」と彼は大声で言った。
「こいつは驚いた」

俺は拳を握りしめ、窓をちらりと見た。もし飛び降りる時に足首でも挫かなきゃあ、連中を撒いてエイリアネージに逃げこむのは簡単だろう。カーヴァーは背中に何気なく手を廻して、指を一本立てた。テンプラーが、一人だけ。

そうすると、アポステイト狩り部隊の急襲というわけでは無さそうだ。だがもし今俺が逃げ出せば、それこそ部隊を呼んでくれと言っているに等しい。

「おや、とにかく中に入れてやれよ」と俺は何気ない声で言った。ちょっとばかり何気なさ過ぎるようにさえ思えた。

カーヴァーは一歩横に退いて、その男を招き入れた。

「ホーク兄弟、だったな。新聞で見たことがある」そのテンプラーは、カーヴァーに向けて頷いて見せた。彼は山高帽を脱ぎ、カーヴァーは手を振って彼を空いた椅子に座らせた。彼は概ね50代半ば、ボクサーのようながっしりした体格だった――ふん、あるいは昔そうだったのかも知れないな。彼の鼻にはずっと昔に潰された痕跡が見えた。彼は書類ケースを携えていて、椅子の横にそれを並べて立てた。

俺は椅子から立ち上がって彼と握手した。彼の賢そうな青い眼が、少しばかり愉快そうな輝きを浮かべて俺の顔を見あげていた。

「すると君が、一日中私の行く先々を横切っていた若造だな。私の名前はエメリックだ」と言いながら彼は椅子に腰を降ろした。
「恐らく、君達は私の名を既に聞いているだろうな」

「ニネッテという名前の女性との関連で、何度か聞いた事がある」と俺は言った。

「ギスレインの妻。そうだな、私は彼女の失踪事件をずっと調査している」

俺は椅子に座り直し、カーヴァーは壁にもたれ掛かった。

「俺達もだ。彼女の夫は、彼女が誰かと駆け落ちしたと考えてるらしかったが」

エメリックは重くため息を付くと言った。
「もしそうだとしたら、私も一安心なのだが」
彼はそれから、彼が元々はサークル・メイジがいなくなった話から始めたこの件に関する調査を語った。彼はそのメイジの女性を充分良く知っていた、サークルの図書管理を長年担当している中年の女性で、外には家族もおらず、今になって逃げ出すことを考えるとは思えなかった。そして調査を進めるうちに他にも行方不明の女性がいることが判り、彼は更に心配になってきたと語った。ニネッテはどうやら行方不明の女性達の中で、一番最近の一人に過ぎないようだった。

俺の心は沈んでいった。
「もし今の話が本当なら、警察に知らせなきゃ駄目だろうな」

「もう彼らには伝えてある。しかし我々が確かな証拠を見つけるまでは、彼らに出来ることは何も無い。あるいは、やろうとすることはな」とエメリックが言った。

「我々?」

「君達は私立探偵、そうだな。君の助けを借りたい。私も、もう以前のように若くは無い。もし支払いの件が心配なら、手元金から融通しよう」

彼が言う手元金とは、密告報奨金のことだろう。アポステイトを通報すれば、テンプラーから少しばかり金が貰えるのが普通だった。一方たとえ家族であろうと、匿うのは重罪だった。

俺は金のことより、彼と一緒に働く方が心配になった。とはいえ一方では、俺は既にこの件と関わり合いになっていた。それにもしニネッテがトラブルに巻き込まれているのなら、出来ることなら助け出したかった。

「いいだろう。俺達に何が出来るか見てみようじゃないか」俺は彼の手を握った。

「良かった、これが私が既に調査した内容だ」と彼は言って、書類ケースを開けると俺に紙の束を手渡した。女性の写真が数枚、最後に彼女らが目撃された日時、女性達の姻戚関係――俺はこんなものを見るのは初めてだった。

「これは大した情報だな。この件はどのくらい調査を?」

「数ヶ月になるな」彼は嬉しそうに見えた。

「ニネッテがいなくなってから、まだ一週間ちょっとだ。もしもう少し早く判っていたら、俺のマバリ犬のホースが役に立ったかも知れないのに。俺達はこの街で最高の追跡犬を持ってるからな」俺は鉛筆を取り上げた。どうやらそろそろ、俺は自分でもきちんと仕事の記録を付け始めないといけないようだ。

カーヴァーは出来事の進み方に少しばかり戸惑っているようだったが、部屋を出て行こうとはしなかった。彼はその代わりに台所から椅子を一つ持って来て座ると、俺達の討論に加わった。

「彼女らは皆少しばかり年輩の女性で、それ以外のはっきりした共通点は無い。サークルメイジ、オリージャン出身の下っ端貴族、貿易商の妻といった具合で、誰も互いのことを知っているとは思えない、あるいは同じ行動半径にいたかどうかさえ」とエメリックが言った。

「こいつはどうもメレディスの演説のように聞こえそうだが、ブラッド・マジックの可能性は無いかな」と俺は言った。「一握りの女性が姿を消し、死体も無し。もっとも安っぽい小説によれば、普通ターゲットは若い処女と黒猫と相場が決まってるが」

「本当にそうでは無いことを願っているが、だが追いかける価値はあるだろうな」とエメリックが言った。「我々の手が限られているからには、そちらを先に追う方が安全だろう」

「追跡の手としては――」
俺の話は、また誰かが玄関扉をノックしたことで遮られた。カーヴァーが開けに行って、それがヴァリックとアンダースだと判った。二人とも何時ものように夕食に招待されていたのを、すっかり忘れていた。というか、もうそんな時間だったのか。ヴァリックがアンダースの手首をさりげなく掴んで、俺の仕事場に誰がいるのかを目にした彼が、矢のように扉から飛んで逃げるのを押しとどめるのを俺は見た。

「やあ君たち、入ってくれ」と俺は大きく腕を振ったが、アンダースの顔と来たら紙のように真っ白になっていた。
「こちらはエメリック。行方不明の女性を見つけ出す手助けをしてくれている。あるいは、俺達が彼を助けているというか」

「アポステイトか?」アンダースが弱々しい声で言った。

「いいや」俺は充分明るい声で答えたが、しかし俺はアンダースに鋭い目線を向けた。全く、俺がアポステイトをテンプラーに通報し始めたと本当に思ってるのか?

アンダースの声を聞いて母さんが入ってきて、ホースもその後についてきた。彼女はエメリックの制服姿を見て一瞬瞬きをしたが、それも心臓が一拍打つ間のことだった。一方エメリックは、仕事の打ち合わせが唐突に家族と親しい友人の集まりに変わった様子に、少しばかり戸惑っているようだった。

俺はエメリックに母さんを紹介し、カーヴァーがヴァリックを階下の書店主、アンダースを病院で働くインターンと、ごく真っ当に紹介した。そもそも母さんはテンプラーに涼しい顔をしてみせる半生を送ってきた訳で、今夜もエメリックに親しげに挨拶した。ホースは彼の靴の匂いを嗅ぎ尻尾を振った。

エメリックは皆と握手を交わして、俺は唐突にこの初老の男がほとんど俺達に嫉妬するような表情を見せていることに気付いた。彼の指に指輪は無く、兵舎での独身生活は寂しいものだろうと俺は想像した。

「さてと、この調査結果を元に実行計画を立てようじゃ無いか」と俺は彼にそう言っていた。
「ただし、夕食の後で。良かったらご一緒にどうぞ」

母さんは誇らしげに俺の顔を見やった。カーヴァーは両方の眉を上げて俺の顔を眺め、アンダースは先約がどうこうと呟いて今にも逃げ出しそうだったが、ヴァリックが無理矢理彼を扉の所から振り向かせた。
「大丈夫だ、飯を食ってからでも充分時間はあるぜ、ブロンディ」

エメリックはやや恥ずかしそうに感謝の言葉を呟き、ちょっとばかり周囲の雰囲気に圧倒されたように見えた。

俺は、個々のテンプラーを憎んではいなかった。一度ならず連中の存在に怯えたことはあるし、俺を狩り立てようとするやつらは大嫌いだったが、父さんは何時も俺に彼らも同じヒューマンで、どのように教えられ訓練を受けていようと、彼らもまた愛情と親切心を持つ存在だと言っていた。そしてその内の一人が、父さんに自由となる機会を与えた。

エメリックは、彼の保護の対象を護ろうとしていた。この行方不明となった女性達を保護しようとしていた。それに彼はポークローストと豆煮込みの夕食に招待されて、本当に嬉しそうに見えた。俺には彼を嫌いになるのは難しかった。

ギャムレンはカーヴァーと俺が居間から台所へテーブルを引っ張り出し、仕事場から椅子を担いでくるのをただぽかんと口を開けて見ていた。俺達はどうにかこうにか台所に収まった。アンダースはこっそりと一番扉に近い椅子に座っていたが、ヴァリックがいたからには気まずい沈黙など無かった。彼はアポステイトもテンプラーも関係無く笑い転げる類の話を山ほど知っていた。エメリックも少しばかり自分の話をした。やはり彼は確かに元ボクサーで、若かりし頃の試合の劇的な場面について話すうちに彼の言葉には自然と熱が入った。

俺達の会話と笑い声は小さなアパートの一室に溢れ、部屋の隅から忍び込もうとする初秋の冷気を遠ざけた。俺達はいつの間にか明日の取り置き分まで食べていたが、誰も気にしなかった。

俺はふとフェンリスがどうしているかと思った。多分あの焼け焦げた邸宅で座って一人で食事をしているんだろう。それか何かの用事で街中をうろついているか。家族の一員として、俺の隣に座る彼を俺は想像して、即座にそうしなきゃ良かったと後悔した。何故ってその夜の集まりが、その後は不完全な、物足りないものになっちまったから。

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