21.大司教、キュンの教義を批判

「それも良い考えね」とイザベラは俺のハンカチで、流れ落ちたマスカラの跡を拭き取りながら言った。
「映画スターねえ。映画界の中心と言えばタンターヴェイルだけど、一度も行ったことがないの。あたしが映画に出られると思って、トリップ?」

「一旦心を決めたら、君なら何だって出来るだろうな」俺達はゆっくりとイザベラの車の方へ歩いて戻った。他の二人は既にそこで俺達を待っていた。

「上手くメイジ達を線路の方に連れ出せたよ」とアンダースは俺にコートを返しながら言った。
「始発貨車が動き出したら、速度を上げる前に飛び乗れるはずだ」

「本当にそうだと良いけどな」と俺は言った。
「連中の顔を二度と見なくて済むように願うよ。馬鹿な連中だ」

「上等の絹の靴下を台無しにしたのよ、あたしも」とイザベラが言った。
「感謝して欲しいものね」

「やつらをこのまま行かせるのか、君は一体何を考えているんだ」とフェンリスが唸った。
「ブラッド・メイジだぞ。しかもやつらのリーダーは、君を殺そうとした」

「俺達を攻撃したメイジはみんな死んだ」と俺は疲れた声で言った。
「その他の連中は、自由を求める権利があるだろう」

「やつらの危険性を知らないわけでは無いだろう」とフェンリスが歯を剥き出して言った。

「元秘密情報局員の危険性に比べて、どうなんだ」とアンダースが鋭く返した。
「トリップは正しい事をしようとしているだけだ。人々は自由で無くてはならない」

どうやら、アンダースと口論するのはフェンリスの第二の本性となりつつあるようだった。
「アボミネーションとブラッドメイジに人権など有るものか。やつらは犬のように狩り立てられて当然だ」

ホースが、彼の方を見てくれと言うようにキューンと鳴いた。

「悪かった」フェンリスはホースに向かって上の空で呟くと、再びアンダースに向き直った。
「メイジ共は幾度も、彼らを信用することは出来ないと自ら証明し続けている。どんな小さなチャンスでもあればやつらは力を追い求め、そしてその過程で恐るべき事柄を引き起こす」

「彼らはずっと恐るべき事柄を堪え忍んで来たんだ!ついに怒ったからと言って彼らを責められるのか?君のような人々の行為が、その結果を導いたんだ。メイジのせいじゃない!」とアンダースが眼鏡を光らせて抗議した。

「ねえ、この人達はいつもこうなの?」とイザベラが目を廻して尋ねた。

「まあ大体はね。ほら、二人とも帰ろうぜ。もう夜も遅い」
俺はきっと、口をきっちり閉めているべきだったんだろう。フェンリスもアンダースも、くるりと俺の方に向き直ると俺の顔を睨み付けた。

「一体どうして彼にこんなことを言わせておくんだ、トリップ?」とアンダースが言った。
「君は彼の意見に同意なんて到底出来ないはずだ」

「こんちくしょう、アンダース。あのブラッド・メイジは俺達を本気で殺そうとしたんだぞ。君は前にもそう言う目にあったことがあるかも知れないが、俺は初めてだ。俺達のようなメイジを人々が恐がったからと言って、俺には責めることは出来ない。ああもちろん、気に入らないさ、だけどしょうがない」

「ならば、何故彼らを助けた?」とフェンリスが尋ねた。
「あそこで何が起きたのか君にも判ったはずだ。残りの連中を、サークルに戻すべきだった」

「聞いたか?僕達を皆閉じ込めようと思ってるんだ」とアンダースが両手を握りしめて言った。

「彼の望んでいることは実現など不可能だと言ってやれ」とフェンリスが俺の顔を食い入るように見つめて言った。

俺の忍耐心はとうとう底を付いた。俺は二人の顔を見比べた。
「二人とも黙れ。いいか?君は」と俺はアンダースを指さした。
「理想派過ぎる。そして君は」俺は指をフェンリスの方に振った。
「頑なに過ぎる。俺には両方の立場が見える。君達がそう出来るようになるまでは、二人で言い争ったところで無意味だ」

「聞いてくれ、僕は――」
「だがトリップ――」
彼らは二人とも同時に話し始めた。俺は両腕を胸の前で組み、二人は同時に口をつぐんだ。

「俺は家に帰る」と俺は宣言した。

「乗せていってあげるわ。あなた達みんなよ、もちろん」とイザベラが言った。

アンダースは首を振った。
「僕は地下組織の連中に接触して、メイジ達はもう街を去ったと言ってこないと」

「俺は歩いて行く」とフェンリスがぶっきらぼうに言って、煙草に火を付けながら立ち去った。

俺はため息をついてホースの頭を撫でると、一緒にイザベラの車の後ろに乗り込んだ。

下町に向けて車を走らせながら、イザベラは俺に面白そうな視線を向けた。
「あの二人、まるで春先の牡鹿のようにあなたを争ってたわね」

「別にそう言う訳じゃ……なあ、もうちょっと他の言い方は無いのか?」と俺は言った。

「さかりの付いた雄牛が雌牛を追いか…」

「違う!」

「マバリが雌犬の――」

イザベラ!

彼女は頭を後ろに反らせると声を立てて笑った。
「一杯飲みましょう。おごってあげる」

「ああ、頼むよ」夜も更けた街中の景色を上機嫌で眺めるホースが、パタパタ振り回す尻尾を背中に感じながら、俺はため息を付いた。


イザベラは約束を守った。俺達がハングド・マンに戻ると、彼女は真っ直ぐバーに向かい、カウンターに陣取るとここで最上級のウィスキー――中身は何かはともあれ――を二つ注文した。彼女は俺にウィンクして、褐色の透明の液体が入ったグラスを一息で飲み干し、俺も紳士として彼女と同じ流儀に従った。

年がら年中こんな酒を飲んでいるやつの気が知れない。

俺は喉を詰まらせるのだけは免れ、どうにか気を取り直した後で、胃の中に心地よい暖かさが広がるのを感じた。

イザベラはもう一杯注文したが、俺は礼儀正しく二杯目は遠慮した。

「心配しなくても大丈夫よ、判ってるわね?あたしと、その、メイジの話は。みんな自由でなくちゃいけないのよ」
彼女は少しばかり夢見るように、煙草の煙で霞む天井を見上げた。
「誰も閉じ込められたりしちゃいけないの。自分の好きなところに、好きな時に行けないと。ほんの一時だけ結婚していたことがあるけど、それだけでもう充分。本当よ。サークルに一生閉じ込められて過ごすなんて、考えるだけでも嫌」

「俺もだね」と言うと、俺は少しばかりピーナツをつまんで口に放り込み、それから自分が今、誰と何処に居るのかを思い出した。ピーナツを食うよりもっとマシなことは出来ないのか?

「すると、あなたは一度もサークルに居たことはないの?

「いいや」

「やるじゃない。それで大体のことは説明付くわね」と言うと、彼女は俺の腕に手を置いた。
「じゃ、あなたも、あのビリビリ指――」

「いや」俺は短く言った。

彼女は大きな目を見開いて俺を見つめた。
「いやって?」

「サークルでは、メイジは何も隠す必要は無い。皆知ってるからな。ところがアポステイトは、たった一度失敗すれば、それで終わりだ。俺は他にどうしようも無い時以外は、魔法は使わない」
俺はこんな話を彼女にしたかった訳じゃないが、今更止めるのも難しかった。イザベラは、アンダースやフェンリスとは全然違う方法で話を聞き出すようだった。
「俺とベサニーが小さかった頃、俺達はしょっちゅう引っ越ししなきゃいけなかった。どれだけの数の村に住んだか思い出せないくらいさ。だから着いたらすぐに友達を作り、そこから離れなきゃいけない時には、ひどく寂しがったりしないようになった」

「ああ」イザベラは片方のハイヒールを脱ぎ捨てた。彼女は破れた靴下と、裂け目の入ったドレスの見た目を少しも気にする様子は無かった。
「あなたを怒らせるつもりは無かったのよ」

「怒ったりしちゃいない、本当さ」俺は彼女に笑いかけた。

「良かった。さ、踊りましょう。あたしと一緒に過ごす時は、誰でも楽しい時間になるって保証付きなの」

俺はクスッと笑った。「間違い無いな」

イザベラのダンスは、メリルより上手だった。間違い無く俺よりも上手だったが、彼女は俺のリードで充分幸せなようだった。彼女は俺に、何処でダンスを習ったのかと尋ねたが、俺はまた過去の幽霊を引っ張り出すのはごめんだった。
ベサニーが12、3くらいの時、将来は女優かダンサーになりたいと言い出し、俺もその頃には女の子はダンスの出来る男が好きだと言うことが判る年になっていたから、俺達は畑や家の手伝いが終わった後で居間でダンスの練習をして、カーヴァーは目を廻していた。

それもあまりイザベラには話したいような事じゃあなかった。彼女の想像力からすれば、田舎で育った兄妹のダンスごっこより、もっとずっとエキサイティングな話が出来上がってるのは間違い無い。どういう訳か、彼女は俺が『一流の男』 1だと思いたがっているようだった。

俺も、無論彼女の思い込みを訂正するつもりは無かった。

ダンスフロアは空っぽになりかけていた。ハングド・マンは夜明けまで開いていたが、そこまで粘る体力のある連中はほとんど居なかった。もっとも俺とイザベラは、開いたスペースを有効に使おうとはしなかったが。

「もう一杯飲みたい?」とイザベラが聞いた。

「俺は正気を保っている方が良いね」俺が彼女の背中に廻した指先は、彼女の心臓の鼓動を感じとっていた。

「上手くやれないかもって心配してるの?」彼女は白い歯を見せて笑った。

「んなわけねえよ」俺は彼女をぎゅっと抱き寄せた。今感じている鼓動は彼女の物なのか、それとも俺の胸か?

「ま、レディの前でそんな言葉使い。あなたは紳士だと思ってたのよ?」

「紳士なのは真夜中までの話さ」

「真夜中はもうとっくに過ぎたわ、可愛い人」

俺達はもうダンスの真似事すら止め、互いに相手の身体に両腕を回し、耳の中で響き渡る血流の音の向こうから微かに聞こえるジャズの響きに合わせて、身体を揺らしているだけだった。あのメイジ達のことも、フェンリスとアンダースの馬鹿げた口論も、果てはホースに起きたことも俺の頭から消えて行った。俺に考えられる事と言ったら、あの夜の非常階段での、イザベラの瞳と唇が語った暗黙の約束だけだった。

そして、彼女も同じことを考えているようだった。

彼女はそれ以上一言も言わず俺の腕を取るとダンスフロアから連れ出し、俺達は上階の彼女の部屋へ向かった。

部屋の扉が俺達の背後でカチリと閉まるや否や、彼女は俺に飛びかかった。彼女の猛烈な攻撃は俺の予想を遙かに上回り、俺達は身体をもつれ合わせてキスをしながらよろめき、部屋の絨毯にけつまずいて、手足を絡ませあい少しばかり息を切らして、くすくす笑いながらベッドに倒れ込んだ。

「脱いで!」と彼女は命令すると、俺の破けたコートを剥ぎ取り、まるで火傷するかのように指先で摘んで部屋の片隅に放り投げた。

「急かすなよ」俺はそう言いながら彼女の片手を掴んだが、彼女はもう一方の手でシャツのボタンを手早く外し始めた。俺達はしばし揉み合い、もちろん彼女が勝った。彼女の戦術は、あらゆる男の気を惑わせる、間違い無くルール違反の、そして完璧に心地良いものだった。俺は無条件降伏し、彼女が俺のシャツを頭から脱がせようと引っ張ったせいで、俺は半分ベッドから転げ落ちた。

イザベラは声を上げて笑った。「どう、その顔ったら」

「これが俺の元々の計画じゃないって、どうして判るんだ?」と俺は聞いた。

「じゃ、そういうことにしとくわ」と彼女は約束した。
「それで、どうするの?」

俺は彼女の片脚を引き寄せて抱え込み、イザベラは仰向けにベッドに倒れ込んだ。

「怪我をしないでね」俺が片手を太腿に這わせて、彼女のガーターベルトの端に沿って指を走らせると彼女は俺に警告した。俺も相当頭がとっちらかっていたが、彼女のダガーがまだ隠れていることは忘れちゃあ居なかった。俺はダガーを鞘ごと外してベッドの下に置き、彼女の滑らかな褐色の肌から絹製の上等なストッキングを脱がせた。ストッキングは昨夜の停車場とその後のハングド・マンでの裸足の冒険で裂けてぼろぼろになっていた。本当にもったいないことをしたな。

「下着の中に、これ以外のナイフは隠してないか?」と俺は尋ねた。

彼女は俺に白い歯を見せて笑った。
「自分で確かめたら良いじゃない、しないの?」

俺が彼女の太腿の内側を軽く噛み、足首に向けてずっとキスをしながら降りていくと、彼女は息を飲んだ。それからもう一方の脚も同じようにして、イザベラはドレスの下でまだ外してない金具をもぞもぞと外した。俺としても有難かった。ストッキングを脱がせるのは大好きだが、それ以外のブラジャーやらガードルやらややっこしいのは、急いては事をし損じる時だけにしたいもんだ。

俺達はもう昨日の晩からこのゲームをやっているんだ。今更手間は要らない。

俺はイザベラの滑らかなワンピースのドレスを尻から上へ捲り上げた。ドレスはあちこち裂けていて埃っぽく、俺はそれも気に入った、というと何だか変なように聞こえるが、このドレスはその中身が特別な女だと約束していた。もちろん俺にはそんなことはとっくに判っていた。
俺は唇を舐めると更に顔を近づけ、イザベラが足首を俺の背中で絡ませるのを感じた。

「あなた、真夜中の後は紳士じゃなかったわよね?」と彼女は半ば閉じた睫毛の向こうから俺を見ながら、吐息混じりに尋ねた。

俺はニヤリと笑って見せた。
「ここで止めないって、どうして判る?」と俺は尋ねた。

「まさか、冗談じゃ無いわ」と彼女は脅かすように言った。

俺はそうした。つまり、止めた。彼女は罵り声を上げ、爪先を俺の背に食い込ませると喉から吐息混じりの喘ぎ声が漏れた。

昔の可愛い女達に俺は感謝した。取られるばかりで何も与えちゃくれないと思っていたがとんでもない、あれもこれも全部教わっていた。

それから俺は残りの服を脱ぎ捨てながらベッドに這い上がった。彼女は俺の首に両腕を廻して彼女の身体の上に押し付けると、俺の唇を軽く噛んでチュッと吸った。

俺は両腕をついて上半身を起こし、彼女の破れたドレスの切れ端を片方の肩から外した。こんな風に服を破ける女なんて、今まで見たことも聞いたことも無かった。彼女は白い歯を唇からちらりと覗かせて笑った。

「いいわよ」彼女は目を煌めかせてかすれた声で言った。「やりたいんでしょ?」

「ああ」と言うと俺は彼女の脚の間に膝を付き、ドレスを手に取ると力任せに裾まで一気に破いた。彼女は嬉しげに喉を鳴らし、背中を反らせてブラジャーを肩から外した。俺はしばらくして、自分がまるきりアホウのように彼女を見つめていることに気付いた。イザベラの胸は、そう、例えば男が一度味わったら幸せに死ねる類の姿といって良かった。

そして俺もそうなった。一度だけじゃ無かったし、死にもしなかったが、大いに幸せになったのは確かだった。イザベラも悪くない気分のようで、頭を後ろに反らせて喉を鳴らすと、俺の髪を撫でてくれた。

俺はまだ彼女の身体の両側に手と膝を付いたままだったが、彼女が俺の背後に両手足を廻して下向きに俺の身体を押し付けた。彼女の両脚が俺のケツの後ろへ廻り、その誘惑たるや、この世でどれ程強い意志を持つ男だろうと逆らえないだろうと俺は思った。彼女は俺の左耳に軽く歯を食い込ませると俺の上で身体を揺らした。
俺は歯を食いしばり、彼女が俺達の身体の距離をゼロにするために位置決めをしている間、両腕でなるたけ二人分の体重を支えた。そして二人の距離がゼロを通り越してマイナスになった。滑らかで熱い彼女が俺の全てを包み込んだ。彼女はまた腰を揺らし始め、俺の腕が抗議の声を上げ始めたが、俺はどうにかして耐えた。彼女は俺にしがみつき、吐息が熱く俺の首筋に掛かり、いかがわしい台詞を嬉しそうな笑みと共にささやいた。

無論俺も永久に二人の体重を支えることは出来なかっただろうが、そうする必要も無かった。数分も経つと、彼女は背中に両手の爪を食い込ませて大声で俺の名を叫び、そしてすぐその後に俺も彼女の上に崩れ落ちた。隣の扉の奥に居るのが誰だろうと、そいつは今夜俺の名をはっきりと覚えることになっただろう。

そんなのはどうでも良かった。俺は彼女の上からベッドに転がりおちて、どうにか息を整えた。

「どうして年下の男が好きか知ってる?」と彼女は俺の頬を撫でながら夢見るように尋ねた。

「んん?」俺は頭を上げて彼女を見やった。

彼女は身体を滑らせて俺の上にずるずると被さると、腹の上にまたがった。
「あら、眠そうね?すぐ判るわ」と彼女は身を屈め、肘を胸の上に付いて俺の顎にキスをした。

20分後、俺には今夜眠る時間はこれっぽっちもないことがはっきりと判った。

彼女は俺が今まで会ったことのある――つまり、ベッドの中で――中でも飛び抜けて貪欲な女なのは間違い無かった。俺達は幾度も頂点を目指しては地上に舞い降り、彼女は俺の首筋と肩、それに背中までキスマークと、それに間違い無く歯形をそこら中に付けていった。もし隣の部屋に誰か不幸な宿泊客が居たら、そいつらも寝るどころじゃなかっただろうな。俺はあるいは扉を蹴り破って怒鳴り込まれるかと思わないでも無かったが、イザベラは好き放題しても良いと考えているようだった。

ようやく部屋に平穏が訪れた時には、よろい戸の隙間から差し込む光が埃をぼんやりと浮かび上がらせていた。イザベラがベッドを出て、産まれたままの丸裸の姿で大きく伸びをすると、無論裸足で浴室へと消えていくのを俺は見つめていた。俺は水音を聞いたのは覚えているが、それから一瞬うとうとしたようだった。

彼女は大判のタオルに身体をくるんでベッドにぱたりと身を投げた時、俺はまた目を開けた。
「ね、煙草取ってちょうだい?」と彼女は言った。

俺はベッドテーブルを手探りで探して、煙草の箱を掴むと自分に一本取ってから彼女に手渡し、マッチに火を付けて彼女に差し出した。

「ところで、はっきりさせておくわね」と彼女は、用心深い表情で言った。
「これには何の意味も無いのよ。ちょっとしたお楽しみ、それだけなの。あたしの好奇心も満足出来たしね。ここから更に関係が深くなることは無いのよ、判ってるでしょ?」

俺は片方の眉を上げて、彼女の顔を見やった。
「なあ、君は全部の男にその台詞を言うのか?」

彼女は声を立てて笑った。
「まさか。情熱的なロマンチストにだけよ。あなたが思うほど多くは無いのよ、そういう男って」

俺は一瞬抗議しようかと思ったが、思い直した。
「ああ、判ったよ」

「ふんっ!」彼女は突然起き上がると、両肘を付いて俺の顔を驚いたように見つめた。
「その返事は予想外だわね」

正直なところ、俺もそう思った。イザベラはほぼ完璧だった。完璧に俺好みで、僅かな欠点も俺の好きな類のものだった。だが彼女は、俺の心を虜にするにはほんの数ヶ月ばかり遅かった。
「どうしてそう思うんだ?」

「どうしてって、あなたは一旦心を決めたら、欲しい物を手に入れるまで諦めないって類の男だと思ったからよ」とイザベラは煙草の煙を天井に向けて吐き出すと言った。

「俺がいつも欲しい物を手に入れられるとは限らないさ」

彼女は肩を竦めて、再び枕に頭を乗せた。
「あたしは欲しい物は手に入れる、それこそが大事なのよ」

暖かく、そして白々とした朝の陽射しの元で、俺は何となく、そう、罪悪感を感じ始めていた。そしてなぜそう感じるか、その理由を突き止めるのに鋭い頭脳は要らなかった。メイカーズ・ブレス、フェンリス。上町からはるばると、俺の色恋沙汰を台無しにするのは止めてくれ。こういう類の出来事は、そう、独身の若い男なら当然だろう?

そしてこの調子だと、俺は独り者で居続けることになりそうだった。

「なあ、イザベラ」と俺はふと聞いた。
「君はその、とても、詳しいよな、こういう事に。君はその、ほら、あー…女の子と、一緒に居たことはあるかな?」

「もちろんあるわよ。女の子は柔らかくて可愛いの。ああ、もちろんあなたなら判るわよね。どうして?ひょっとして、誰か昨晩一緒に連れて来たい娘でも居たんなら、先に言ってくれなきゃ」

「違う!いや、そうじゃなくて。つまり、それも面白そうだね」とても、面白そうだった。
「だけど俺が聞きたいのはそういうことじゃない。つまり、大抵の女の子は男が好きだ、そうだろ?それで、男は女の子が好きだ。うん。それで、例えば誰か女の子が、そういうことをやりたがっているかどうかを、君は一体どうやって知るんだ?」

「どうやったら、女の子がそういうことをやりたがっているかどうか判るかってこと?」イザベラは喉の奥から笑い声を上げた。
「馬鹿ね、コナを掛けて聞いてみるのよ。だけどあなたが女の子を口説くのに助けが居るとも思えないし……ああ」彼女は突然身を起こして座り直し、俺の顔をしげしげと見つめながら、白い歯を見せてニヤリと笑った。
「そういうことね。誰か男の子に参っちゃった、そうなんでしょ?ふん、道理でさっきのあたしの台詞を素直に聞くと思った」

俺は彼女を睨み付けた。

「それってアンダース?」と彼女は実に嬉しそうに聞いた。
「何故って彼はあなたに夢中になってるからよ。見たら判るわ、間違い無い」

「何だって?嘘だろう?」およそあり得そうな話じゃ無かった。
「いや、彼はとっくに別の誰かを心に住まわせてるさ。それ以外にも、彼の理想的な楽しい時間の過ごし方と来たら、労働者にパンフレットを配ることだしな」
そしてフェンリスの楽しい時間の過ごし方は、多分メイジ達に石を投げることだろう。何だって俺にはまともな友達が独りも居ないんだ?

「それともヴァリック?おおう、本当のところ、あの胸毛は悪くないわね」
彼女はそう言うと、俺の表情を見て声を立てて笑った。

「俺はそろそろ家に帰らないとな」と俺は突然思い出して言った。
「犬を洗ってやらないと」

イザベラはただ俺を見てくすくす笑い続けるだけで、ちょっとばかり勘に触った。

「あたしの忠告は役に立つわよ」と彼女は俺がズボンを引き上げるのを見ながら言った。
「やるだけやってみるの。それで失敗したからって、本当のところ何を無くすっていうの?」

Notes:

  1. “bee’s knees”: とびきり優れた、最高にイカす、というような意味。
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21.大司教、キュンの教義を批判 への2件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    ( ゚д゚)

    ホーク牝鹿説。あるいは雌牛説。もしくは雌犬。

    ……………やっぱ牝鹿が可愛いから牝鹿にしときましょうwww

  2. Laffy のコメント:

    靴下フェチというのが判明したところでw
    きっとフェンリスにストッキング履かせるとか妄想してたに違いない。んまー破廉恥ww

    ホーク「なーいいだろ?これ」
    フェンリス「嫌だಠ_ಠ」

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