25.スタークヘイブンメイジ、減刑を求む

フェンリスは翌朝もいつもの時間に現れたが、俺達にはそれほど多くの話題は無かった。それで俺達は挨拶を交わし、彼は漫画本に一時間ほど鼻先を埋めた後で、さよならを言ってまた帰って行った。
ヴァリックの店もまだ閉まっていた。彼が一度も店に戻ってきたような様子はなく、休業中の札も出っぱなしで、正面扉の下から投げ込まれた手紙が貯まっているのが見えた。ともかく、あの夜襲の後で、カルタがまた登場するような気配は一切伺えなかった。

下町の教会のシスターからは、俺の仕事はもう不要となったとの伝言が届いた。彼女に説明や、あるいは払い戻しに行く必要が無くなって、俺はホッとした。

しかし、後一週間か二週間仕事がない日が続けば、また俺達は家賃を払うのに苦労する羽目になるのは目に見えていた。カーヴァーはむくれた顔付きで、家の中の雰囲気は最悪だった。俺達に本当に必要なのは仕事だった。

そして数日後、仕事が舞い込んだ。

玄関扉を開けて入って来たテトラス教授の姿を見て俺が度肝を抜かれたからと言って、誰も俺を責められないだろう。彼は背伸びして、形の崩れた帽子とツィードの外套を帽子掛けに掛けた。

「お前は私立探偵だ、そうだな?」彼はぶっきらぼうに尋ねた。

俺は彼にそうだと言って、座ってくれとフェンリスが空けた椅子を指し示した。カーヴァーは居間からやって来て仕事場の扉を開けたが、バートランドの声を聞いた途端立ち止まった。彼とテトラス教授との最初の面会はろくでもない結果に終わったから、今のところは顔を見せないでおこうという彼の判断を俺は歓迎した。

「君に、私の弟を探して貰いたい」とバートランドが言いだした。

俺は椅子の中で姿勢を正した。
「ヴァリックが居なくなったんですか?」

「それに気が付いてさえ居ないという事実が、君の探偵としての技能を良く示して居るな」とバートランドが嫌みを言った。

「さてね、彼は一週間程留守にするというメモを残して行きましたよ。それを信じない理由は無い」

「弟は店にもおらんし、あのいかがわしいハングド・マンとやらいう、もぐり酒場にもおらん。私との会合にも、もう三日連続で姿を見せようとしない。非常に重要な用件だというのに」
バートランドは顔をしかめると、椅子の中で身を乗り出した。
「やつが何をしていようと構わん、だが私は彼の居所を探し出して話をせねばならん。出来るなら、直接顔を合わせて」

「彼が最近、幾つか問題を抱えていると聞いた覚えがありますよ」と俺は言った。
「大部分が教授、あなたと関わりがあるとか」

バートランドは眼を細めて俺を見た。
「顧客にそんな口を聞くのが君の流儀か?」

俺はやり口を変えた。
「警察とは話をしましたか?」

「我らが先祖の岩に掛けて、とんでもない。これは家族の問題だ。無論君にも秘密は守って貰う」

「秘密厳守はこの商売の合い言葉です」と俺は保証した。
「一日25シルバー、諸経費別、料金表はこうなってます」

教授は俺に顔をしかめて見せた。
「ヴァリックはお前の友人だと思っていたがな」

「その通り。彼とは良く一緒に仕事について話をしていますよ」と俺はにこやかに答えた。

バートランドは額を片手で撫でて何やら呟いたが、ようやく彼はポケットをひっくり返して俺に10シルバーを手渡した。
「残金は後で払う」

不幸なことに、この週の現金収入の当てはそれしか無さそうだった。それに正直言って俺としては、今すぐにでもヴァリックを探しにいきたい気分だった。

「いいでしょう」俺はペンを手に持った。
「あなたが最後にヴァリックを見かけたのは、何時ですか?」

「まさかこの件を記録に取ろうというのではあるまいな?」彼は少しばかり怯えたような顔付きで俺に尋ねた。

俺はペンを机に置いた。
「教授、何か困ったことでもあるのですか?」と俺は聞いた。

「君は俺の弟のことだけ心配していれば良い」と彼は言った。
「彼は私の研究室に、一昨日の昼食時に訪れる約束をしていた。その日彼が来なかったので、私は何時ものようにやつがぼんやりしているのだと思い、電話を掛けて伝言を伝えさせた。それから、ここの店がもう10日近く閉まっていることが判ったのだ。もしも弟が、私の金を持ったままどこかへ――」

「その金について話してくれませんかね?」俺は彼の言葉を遮って聞いた。

「何の金だ?」彼は用心した様子で言った。
「金なぞ無い、それが問題なのだ。私の一族はヴァリックを必要としている。私もだ」

「実に麗しい兄弟愛ですな。それで、他に何か教えて頂けることは?」

バートランドは首を横に振った。

「ヴァリックは、あなたに彼の店が先週カルタの襲撃を受けたということは話しましたか?」と俺は彼に尋ねた。

ドワーフの顔から血の気が失せた。どうやら聞いてなかったようだな。

「カルタが、ここに居たのか?」と彼は上ずった声で言った。

「ええ。弟と俺とで、やつらが何か盗み出す前に追い出しましたよ。教授、もし俺にヴァリックを見つけて欲しいんなら、正直に話して下さい。何もかも、全部」

あいにくバートランドは俺の言葉なぞ聞いて居る様子は無かった。彼は立ち上がり、俺は彼の両手が震えているのを見た。

「私はすぐ――畜生め、ヴァリック!全部私に押し付けて逃げる気か?」彼は身を翻すと文字通り玄関から転がり落ちる音がした。彼は再び、よろめきながら戻ってくると帽子と外套を掻っさらい、今度はどうにか階段を踏んで駆け下りていった。

彼が本当に姿を消した後で、カーヴァーは扉を開けて仕事場に入ってきた。彼は机の上の5シルバー硬貨二枚を見つめた。
「どうやらあの教授は、俺達よりも更に金に困っているようだな」

「冗談じゃ無い」俺は立ち上がった。「こいつはまずい事になっているようだぜ」

「何故ヴァリックが彼の兄に襲撃事件の件を話そうとしなかったのか、それが不思議だ」とフェンリスが言った。

「あるいは彼が過激な反応をすると思ったのかもな。今の様子だと確かに狼狽しているようだ」

「カルタがヴァリックを誘拐したのかも知れん」とフェンリスが眉をひそめて言った。

「可能性は有るな、だが何故だ?彼らに金を借りたのはバートランドだ。もしヴァリックを身の代に金を取り立てるつもりなら、どうして彼らは未だにバートランドに連絡を取っていないんだ?」

山ほど疑問があった。それで俺達は帽子を被ると、ハングド・マンに答えを探しに出かけた。


ヴァリックのお陰で、俺達は皆ハングド・マンの常連客として認められていた。バーテンダーのコルフは、多分昼過ぎの暇な時間という事も有ってか喜んで話をしてくれた。ヴァリックはこの数日姿を見せていないが、彼の気違いの兄貴が姿を見せて、ヴァリックの部屋に入れろとわめき散らしたということだった。

ふむ。
「俺達は、ヴァリックの部屋を覗いても構わないかな?」と俺は尋ねた。

彼はしばらく考える様子だったが、やがて言った。
「どっちみちあんた達は始終あそこにいるんだしな。いつも通り、普通に歩いて入る分には誰も変には思わないだろうよ」

「ありがとよ」

「おい、彼は何かトラブルに巻き込まれたのか?そうじゃ無いんだろう?」

「違うと思いたいね」

俺達は階段を上がって、ヴァリックの泊まっている部屋に向かった。廊下の向こうで、やせっぽちのエルフの少女が、痛んだカーペットの上に散らばった煙草の灰を掃き清めながら、泣き出すまいとしているような様子が眼に入った。

「君、どうかしたのか?」と俺は歩み寄ると彼女に尋ねた。

彼女はびっくりして飛び上がると、鼻を袖口で拭いた。
「あたしじゃありません!」
彼女は悲しげな怯えた様子で言った。
「あたし、洗い布を盗んだりしやしません!何だったらあたしの部屋を家捜ししたらいいんです、何にも出て来ませんから」

「どうして君の部屋で、洗い布を探したりするんだ?」と俺は聞いた。

「どうしてって、お客様の立派な品だからじゃないんですか?イニシャル入りなんですから。ああ、早いことヴァリックさんがお帰りになれば良いのに。きっとあの人なら、上の人にちゃんと本当のことを言ってくれます」彼女はまた泣き出しそうに見えた。

「待った。無くなったのはヴァリックの洗い布なのか?彼はタオルに、自分のイニシャルを刺しゅうしてるのか?」
彼本人の行方不明事件の捜査中で無かったら、俺はきっとそれを聞いて笑い出していただろう。

エルフ娘はこっくりと頷いた。

「何か他に無くなった物は?」と俺は聞いた。

「判りません。あの方の物は何も触りません。いつもベッドメイクと、掃き掃除と、洗濯物を下の階に持って行くだけです」と彼女は答えた。

「単にどっか別の場所に置き間違えたとか?」とカーヴァーが言った。

「どこもみんな探しました!」彼女はまた俯いて掃除を始めた。
「仕事に戻らないと。もし皆さんとお喋りしているところを見つかったら、首にされちまいます」

俺達は彼女から離れた。
「やれやれ、謎は深まるばかりだな」と俺は言った。

「洗い布が無くなったのと何か関係が有ると思ってるのか、兄貴?」とカーヴァーが聞いた。
「どう考えたって道理に合わないぜ?」

「まだ道理に合う必要は無い」とフェンリスが考え込むように言った。
「単につまらない出来事のように見えるからと言って、検討から外すべきではないだろう」

俺は片手で顔を撫でて、顔がにやけるのを覆い隠した。どうやら誰かさんは俺の探偵物の漫画を読んでいるようだ。 1

もしイザベラが謎解きに参加したい場合を考えて、俺たちは通りがかりにイザベラのスイートルームの扉をノックしたが、彼女は不在だった。俺としては多少安堵した。フェンリスが側に居るときに彼女と顔を付きあわせたくは無かった。まだ、今のところは。

ヴァリックは、性善説に基づくハングド・マンの常連客への奇妙な信頼の証として、彼の部屋に鍵を掛けたことは無かった。そもそもその部屋に鍵など付いていなかったと彼は言っていた。それで俺たちは扉を開けて、そのまま入り込んだ。彼の部屋はいつもの通り、秩序だったカオスの様相を示していた。窓の下に設えた机の上には使い古されたタイプライターが置かれ、いつもと同じく、部屋の床中に丸められた書き損じの紙が転がっていた。

カーヴァーは机を見に行き、フェンリスは洋服棚を開け、俺はバスルームに向かった。

「うん?何を探してる?」
俺が狭苦しいバスルームをのぞき込むのを見て、カーヴァーがくるりと目を回すと言った。

「まあな、もし俺がその洗い布を見つけられたら、少なくともあのかわいそうなエルフ娘の困りごとを解決してやれるだろうよ」と俺は肩越しに振り返って言った。

特別何も変わったことは無いように見えた。確かに、すべてのタオルには隅に”VT”の刺繍が施されていた。あるいは衛生上の理由かも知れなかった。俺がもしここの宿泊客だったら、ホテルのリネンを使いたいと思うかどうかは、怪しいもんだ。

個人的によく知った友人のバスルームをつつき回すというのは、実に奇妙な体験だった。正直、面白い話でも無かった。俺はヴァリックが今すぐにでもそこの扉から入ってきて、俺たちに一体全体何をしているんだと、あきれた顔で尋ねてくれないかと願っていた。

バスルームのずっと高い所に、小さな磨りガラスの窓があって、その窓が開いていることに俺は気がついた。ヴァリックがたとえ椅子を二つ重ねた上に乗ったところで、あの窓には手が届かないだろう。俺はしばらくその窓を見つめ、それからもっとよく見ようと椅子を取りに行った。

「トリップ!そんなとこで何をしてるんだ?」とカーヴァーが驚いて尋ねた。

俺は周囲をよく見ようと、窓から上半身と片足を出して窓枠に腰掛けたところで、危うく転がり落ちそうになった。フェンリスが慌てたような奇妙な声を上げて駆け寄り、内側から俺の足を掴むのと、俺が自分で窓枠をハッシと掴むのとほとんど同時だった。

俺は足下の三階分の高さを無視しようと努めつつ、窓の周りの様子をじっくりと眺めた。
「手がかりを得ようとしてるのさ」と俺は言い返した。

「まるで猿みたいだな」カーヴァーは実に役に立つ台詞を言うと、俺たちの足下に近寄ってきた。

「フェンリス、ちょっと足を引っ張ってくれ。もう十分見たし、めまいがしてきた」
こんな高い建物から下を見下ろしたのは初めてだが、あまり気分の良い物じゃないな。

フェンリスが俺の片脚を抱え込むように引き戻してくれて、俺はどうにか内側に降り立った。その窓は見た目よりもさらに小さく、俺は両肩をねじ込まないと出入り出来ないくらいの大きさだった。

「君が何か見つけたのなら良いのだがな」スーツについた蜘蛛の巣を払い落とす俺を見つめてフェンリスが言った。ハングド・マンの清掃レベルは、まあこんなものだろう。

「ああ、ヴァリックは泥棒に入られている。つまり忍び込まれたってことだ。ほら、あの窓はもう何年もの間開けられていなかった。ペンキのひび割れた後があちこちにあった、しかもごく最近に。俺がここに来たとき、あの窓は開いていた。近寄って見ると、窓枠の木がひび割れているのが判った。誰かが外から何かを差し込んで留め金を外したんだ。何か薄くて強靱な、たとえばダガーのようなものだろう。そのときにペンキを剥ぎ落とした」

カーヴァーとフェンリスは熱心に聞いていた。俺はまるで彼らに推理の種明かしをしているような気分になった。

「それと、どうやってあの窓から入り込むかについても判ったと思う。下水パイプが近くにあって、それを登って窓に飛びついたんだ。だがあれはただのブリキのヤワなパイプだ、彼の体重で即座に折れなかったのは幸運だったな。それに下の調理場の排気のせいで、パイプの表面にはべったりと煤と油の層が出来ていたが、手で握った跡がそこら中に付いていたよ。それに足跡も」

俺の手も油まみれの真っ黒で、俺は洗面台で手を洗った。
「つまり、その人物は無謀な恐れ知らずというだけでなく、体重の軽い人物でもあった。足も精々、このくらいのサイズだ」
俺はそう言うと、片手の指を広げて見せた。
「この仕事をするときに靴は履いてなかったようだな、もっとも、俺も下水パイプをよじ登れと言われたら靴を脱ぐだろうがね」

「子供だ」とカーヴァーが言った。「あるいは、小柄な娘か」

「多分な」

「だが何故、わざわざ洗い布を盗みに、外からよじ登って窓から?」とフェンリスが聞いた。
「何故表の扉から入ろうとしない?鍵は掛かっていなかったぞ」

「ここの鍵が掛かっていないと知らなかったのかも知れないな。他に何か無くなっている物は?」

フェンリスはうなずいた。
「恐らくはひと揃いの洋服と、帽子。ビアンカも、もちろん無くなっている。もし彼が誘拐されたのだとしたら、眠っている間にではないな」

「そんな風には見えないな、確かに」とカーヴァーが言った。
「机の上にはへんてこな小説と、卓上日記が残ってた」

「何か気になるところは?」と俺は聞いた。

「約束の予定と、電話番号ばかりだ」カーヴァーは俺に予定帳を手渡した。
「それと、俺達全員の誕生日」

物事の記録に掛けては、ヴァリックは信用出来そうだ。

最後の記入は、多分バートランドとの面会の期日だろう。『大学、B、正午』
俺は予定帳をめくって、最後に俺たちがヴァリックを見かけた日の翌日を覗いた。

『3:30』

「この日に誰かと会ったようだな。誰ととも、何処でとも書いていないが」

「これからどうする?」とカーヴァーが聞いた。

「この一件に関して何か知っていそうなやつと言えば、バートランドだけだ」

「やつが話すとは思えないけどな」とカーヴァーが難しい顔で言った。

「口を割らせることも出来るだろう」とフェンリスが提案した。

「待った!いや、輝く手の審判は駄目だ、少なくともクライアント相手には。商売に差し支える。バートランドだって、萎びた心のどっかではヴァリックを心配しているはずだ」
俺自身そう言いながら、信用してはいなかったが。
「そうだ、アヴェリンも通常勤務に戻ったはずだな?」と俺は呟いた。

「バートランドは警察には告げるなと言っていたが」とフェンリスが言った。

「もし彼から情報を上手く聞き出せなかった時に備えて、脅し役も連れて行こう。何もアヴェリンが、公式に警察官として動いている訳じゃ無いとやつに知らせる必要は無いんだ」

「アヴェリンは手伝うかな?」とカーヴァーが言った。

「彼女ならそうするさ」と俺は確信を持って言った。
「これはヴァリックの身にかかわる話だ」


俺達が状況を説明すると、アヴェリンは特別嬉しそうでは無かったが、ともかく俺達と一緒に、大学へバートランドを訪ねることに同意した。彼女が退勤の支度をする間、俺達は警察署の目の前のちっぽけな食堂で遅ればせながらの昼食を摂った。店の中は仕事帰りの刑事や警察官で混み合っていた。

俺達がようやく大学に辿り着いた頃には、西の空を夕日が赤く染め、一筋の雲が灰色の影を投げかけていた。バートランドの部屋は、鍵が掛かって静まりかえっていた。

「それで、どうするの?」とアヴェリンが両腕を組んで言った。
「まさか押し入るつもりじゃあ無いでしょうね?」

「もちろん」俺は少しばかり逃げ腰になったが、ともかくそう言った。
「ヴァリックは、3日前に誰かとの会合に出かけたまま戻って来ていない。俺はもうそこらをほっつき歩いて探す気にはなれん。大丈夫だって、バートランドには君が居たことは内緒にしておくさ」

アヴェリンは眉をひそめて難しい顔をしたが、身体を翻して反対側を見つめた。

「鍵の開け方を知ってるのか?」とカーヴァーが尋ねた。

「いいや」俺は片手の掌を扉に押し当て、ちょっとばかり力を込めた。扉の中で、金具が弾け飛ぶ音がした。

flashlight俺達は電灯を付ける危険は冒さず、アヴェリンの官給品の懐中電灯 2を頼りに急いでバートランドの机の上の書類を引っ掻き回した。不幸なことに、大学教授というのは膨大な紙の山を持っているのが常だった。

「もし何も見つからなかったら、どうする?」とカーヴァーがファイルキャビネットを引っ張り開けながら言った。

「メイカーズ・ブレス、カーヴァー、一生で一度くらい楽観的になることは出来ないのか?」

「待った」とフェンリスが言った。俺達は皆ぴたりと動きを止め、数枚のタイプ文書を持った彼を見つめた。
「いや、大したことじゃないかも知れない」と彼は、突然きまりの悪そうな顔になった。
「この紙の日付が、今日だと言うことに気が付いただけだ」

「それで、何て書いてあるの?」とアヴェリンが尋ねた。

フェンリスは何か言いかけたが、目を細くして懸命に書類を見つめながら再び口を閉じた。

「灯りが要るか?」とカーヴァーが聞いた。

俺はフェンリスの背後に歩み寄ると、彼の肩越しに書類を見つめた。俺はニヤリと笑った。
「おや、おや、おや。こいつは面白い」

アヴェリンは腕を組んで、眉をひそめると俺達の方を見た。
「そこの二人、お芝居は止めて一体何の話かさっさと言ったらどうなの?」

俺はフェンリスからその紙を取り上げて、アヴェリンが見えるように向きをひっくり返した。
「バートランドは、波止場近くの彼の倉庫に莫大な額の保険を掛けている。フェンリスが気付いたとおり、今日付だ」

「すると、バートランドは倉庫を借りている」とアヴェリンが考え込むように言った。
「彼は何をそこに置いているのか気になるわね」

俺は紙の束を机に放り投げた。
「その倉庫が、保険を掛けなきゃいけないような不幸な事故に遭う前に、行って俺達の目で見てみようじゃ無いか」

「その内に君も探偵の仲間入りだな」とカーヴァーが、通りすがりにフェンリスの背中を叩きながら言った。

彼の後を付いて部屋を出ようとした時フェンリスと眼が合い、彼は俺に向かって微笑んだ。俺がウィンクすると、彼は視線を落とし、足をひっくり返して靴底を眺めた。

Notes:

  1. 20年代はアガサ・クリスティ、S.S.ヴァン・ダイン、エラリー・クィーンと数々の本格的探偵物の作家が輩出し、「探偵小説の黄金時代」と言われた。
  2. 19世紀末期には既に乾電池を利用した、ほぼ現在の形に似た懐中電灯があり、警察は進んで利用した。ただし電球の質が悪く、ごく短時間しか利用出来なかった。
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