33.サークルメイジ、面会回数増加を請願

俺が食料品市場に着いたときには、アヴェリンはそこで俺を待っていた。彼女は身を乗り出して助手席の扉を開け、俺がシートに転がり込むや否や扉を閉めるのも待たずにアクセルを一杯に踏み込んだ。

「あなたの話が、その女の手の込んだ悪ふざけじゃあ無いことを祈るわ――どきなさい、そこのうすのろ!」そう言うと彼女はクラクションを数回鳴らした。

「もしそうだとしたら、あんまり良い冗談とは言えないな」俺は煙草に火を付けた。今この時点で、俺に出来ることは何も無さそうだった。
「彼女を慌てふためいて追いかけているのは、俺達だけじゃあ無いだろうな?」

「いいえ。水道局に連絡を取って、トラブルの発生に備えて貰ってる。だけど彼らに出来ることと言ったら、せいぜいエンジニアが何名かレンチを片手に立っているだけで、およそ警備厳重とは言えないわね。あなたの直感に基づいて、署内で3台の車を手配したわ。これでもし何も起きなかったら明日にはクビよ。ああもう、この渋滞は一体何なの?」そう言うと、彼女はまたクラクションをけたたましく鳴らした。

俺は片手をひらひらと振って言った。
「何なら連中を君の行く先から退かせてやろうか?」

アヴェリンは鼻で笑うと、顎を引き締めて頭を振った。
「冗談じゃないわ。それで、エイリアネージで見つかった頭の割れた死体から、どうやってこの、何か知らないけど、エルフのドラム缶に繋がったのか説明してちょうだい」

「ああ、それね」俺はエイリアネージで見つけた事柄を全て話し、彼女はしばらく黙ったまま俺の話を聞いていた。

「するとそのサリアナという女、街の水道水に何かを混ぜ込むことでクナリを攻めようというわけ?随分と思い切った手段ね。彼女も間違いなく頭がイカレている」

「その女は街から逃げ出すか、あるいは死ぬ用意をしていると思う。彼女が住んでいたらしい小屋はほとんど空っぽだった。だけど今、俺達に見えていることだけが全てとは思えないな。何か、もっとある。少なくともアリショクは何が起きているのか心当たりがあるはずだ。そうでなきゃ俺に電話なぞしてこないだろう、細かな話までは知らなかったとしても」

大通りから脇道へと鋭く曲がり込みながら、アヴェリンはため息を付いた。
「本当に、もう二度とクナリの話を聞かないで済めばどれほど嬉しいか」

タホワット湖はカークウォールの頭上にそびえるヴィンマーク山脈の麓にあり、テヴィンター帝国時代から清水の供給源として機能していた。帝国は元々あった河をせき止めてダムを造り、頑丈な石造りの水路で街まで水を運んでいた。現代では水路は全て鉄製のパイプラインに変わったが、水路は今でも山腹をうねるように這い上り、今では道路として使われていた。浄水場に繋がる道筋は、その一本だけだった。

日は既に傾き、カークウォールから元水路の道を辿って湖に向かう俺達の背後で、街の明かりが岩陰に見え隠れしていた。前方に車の明かりが見え、アヴェリンが警察の車と認めるやいなやクラクションを鳴らし、大きくその車を回り込むと追い越していった。俺達の側の急な崖が、夜の暗がりで見えない事を俺は心から嬉しく思った。

さらに遙か前方に一組のヘッドライトがちらつき、その後を大きく距離を開けて何台かの車が追っているのが見えてきた。アヴェリンは後方を追いかける車に併走し、大声で叫んで情報を交換した。

要するに、そのエルフは銃を持っていて、警察車両が近づきすぎた時に一発ドラム缶を撃って穴を開けたと言う。言われたとおり、警察の車は薬品を被らないよう充分後ろに下がって追跡を続けた。俺の眼にも路上に薄く残る薬品の跡が、ずっと前方の暗がりへと続いているのが見えた。

「一体、どうすればいいの?」とアヴェリンがいらいらした様子で言った。
「私達が道路の外側から幅寄せしても、重いトラックに崖から押し出されるでしょうね。反対側から寄れば、今度は岩壁とトラックの間で押しつぶされる。後ろからはアンドラステ様のみぞ知る得体の知れない薬品がこぼれている。そしてもし浄水場に着くまで手をこまねいていれば、あの女が人質を取ってしまう」

「その薬は俺が何とかしよう」と俺は彼女に言った。
「他にどうしようもなければ、ドラム缶を崖から投げ降ろす」

「それは出来るだけ避けたいわね」

「そいつは最後の選択肢だ。あのドラムは随分と重そうだしな、たとえ俺の力で動かすとしても」

「あなたのお葬式ね、何かリクエストはあって?」

「ああ、花は要らない、可愛いダンサーを大勢呼んでくれ」

アヴェリンはアクセルを踏み込んだ。軍払い下げのトラックは最強のエンジンを積んでいるわけではなく、しかも重いドラム缶を積んでいて、俺達の警察車が追いつくのは何の苦労もなかった。俺は泥よけに跳ね返る銃弾の音にびくっとした。

「あの女、ヘッドランプを割ろうとしているわ」アヴェリンはつぶやくと、車をトラックの運転席の死角へ動かした。
「頭の良いやつ」

「ああ、全くだ」ライト無しでは、全くの暗闇に包まれるこの道を走るのは無理だったろう。

俺はボンネットの上に身を乗り出し、靴のゴム底越しに金属板の熱気を感じた。俺は再び、あのエイリアネージの掘っ立て小屋で感じた、腐った魚の樽でさえ完全には覆い隠せなかった鋭い薬品臭を嗅ぎ取っていた。もしこれが俺の心配するような気違いスープだとしたら、臭いを嗅ぐ程度では効果が無いことを祈るしかなかった。

アヴェリンの車のヘッドランプが、トラックの荷台の左手から何かが滴り落ちているのを照らし出した。俺はボンネットの上に四つん這いで出来るだけ右側に這い寄ると、そこからジャンプした。

大して難しくはなかった。ケーブルカーでメリルの車を追いかけて飛び移った時の方が難しかったのは確かだ。それに暗闇の中で、あたりの切り立った崖も深い谷底も、俺の眼には入らなかった。俺はトラックの荷台にしがみついてドラム缶に手を掛けると、少しばかり頭がくらくらするのを感じながら立ち上がった。

俺は頭を新鮮な空気に当てるようにしながら、荷台に並んだドラム缶の間をすり抜けて運転席へ向かった。激怒して眼を細めるエルフ女の、残忍な表情がちらりと後部の窓越しに見えた。次の瞬間女は銃をこちらに向け、俺が屈み込んだと同時に銃弾が俺の頭上を唸りを上げて飛び越えて、運転席と荷台を隔てる窓が粉々に砕け散った。

馬鹿なやつだ。この機会を逃す手は無かった。

俺は片手を握りしめると力を呼び起こして、割れた窓越しに投げつけた。トラックが大きく横滑りして、俺は危うく荷台から放り出されそうになり、車体のどこかが崖にこすれて火花が飛び散った。俺は大きく身を乗り出すと助手席の扉を開けた。

「この気違い野郎!」助手席に飛び込んだ俺に向かってエルフ女が歯をむき出して叫んだ。彼女は車体をまっすぐにしようと両手でハンドルにしがみつき、銃は彼女の膝の上に置かれていた。

「お前の口からよく言うぜ」

俺は彼女の顎にパンチを一発入れた。頭ががつんと反対側のウィンドウガラスにぶつかったが、彼女はそれでも右手で銃を掴んだ。俺は彼女の手首をひっつかむと銃口を反対側に向け、彼女は唸り声を上げて俺の顔につばを吐きかけた。

彼女は左手でハンドルをぐいっと回した。トラックは俺達の左側の、奈落の方向へと身の竦むような速度で方向を変え、俺は慌ててハンドルを掴むと反対側へと回した。それでも、もう彼女に勝ち目はなかった。トラックは激しく振動しながら右側の崖に車体を擦りつけ、金属と岩のぶつかる悲鳴が響き渡り、やがて止まった。
彼女は俺に手首をつかまれながら、クナリが子供達を盗むとかどうとか、訳の分からない事をつぶやき続けていた。俺が女を左扉から引きずり出した途端、彼女は奈落の向こうに広がる自由に向けて飛び出そうとし、俺は即座に彼女の上にのし掛かると押さえつけた。

少なくとも、薬品の漏れ出しは止まったようだった。銃弾は幸運にもドラム缶の上を撃ち抜いたに違いない。アヴェリンはぎりぎりまで車を寄せて止めると俺達の所に駆け寄り、彼女の手には手錠が鈍く光っていた。さらにその後ろには数台の警察車両がランプを光らせていた。
アヴェリンはサリアナに彼女の持つ権利を述べ立てたが、俺にはこの一件が法廷に持ち込まれるようには思えなかった。このエルフの行く先は法廷ではなく、柔らかな詰め物に覆われた壁の独房だろう。

ガスマスクをした処理班が、道路にこぼれた薬品とトラックのドラム缶をきちんと片付ける必要があった。一人の制服警官が『道路通行止め』の大きな標識を地面に置いた。俺は彼らから少し離れて、新鮮な空気の中で口に残った薬品の後味を消し去ろうと煙草を吸っていた。

「破局は防がれ誰も死ななかった。良くやったわね、トリップ」アヴェリンが、彼女の車を俺の側に着けながら言った。

「アヴェリン巡査の帽子にまた羽根が増えるかな?」俺は彼女の隣に乗り込むとそう言った。エルフ女は、既に別の車で連れ去られていた。

「それはどうかしらね。上司に事情を聞かれたときによほど上手く答えないと、容疑者を逮捕するに当たって不必要に民間人を危険に晒したと、叱り飛ばされるのが目に見えてるわ。それに、彼の言うとおりなのよ」彼女は顔をしかめた。

「だけど君には他に手が無かった」と俺は彼女に言った。

「それでも、彼にあなたがアポステイトだと疑われるような事を言うわけには行かない、そうでしょう?カークウォール市民全てがあなたに感謝すべきだけど、もし私がこの一件を上手く説明するとしたら、あそこにあなたが居たことさえ記録には残らないでしょうね。悪く思わないで欲しいの、私もそんなストーリーにしたい訳じゃない、だけど」

「だけどそれが一番安全なストーリーだ。気にするなアヴェリン。俺が名誉と栄光のためにやってるわけじゃないのは知ってるだろう」と俺は軽口を叩いた。

「だけど誰かが金を払ってくれる訳でも無いと思ったけど」

「まあ、それもそうだな。多分俺はこれが面白くてやってるんだろうよ」
カークウォールの夜景が俺達の前方の山陰から姿を現した。生命力に溢れて明るく輝き、そしてどうやら普段以上の狂気に陥らずに済んだようだった。

「家まで送って欲しい?」とアヴェリンが尋ねた。

「いや、クナリ大使館につけてくれ。まだ話は終わってないし、アリショクも何が起きたか聞きたがるのは間違いないからな」

「彼の使いっ走りになるのは止めておきなさい、トリップ。真っ当な職業とは言えないわよ」

「俺なら心配しないな。彼が容疑者なのかクライアントなのかと考えている間は、まっぴらだ」

アヴェリンは俺を上町の、大使館のすぐ外側で降ろしてくれて、彼らは即座に俺をアリショクの謁見室に通した。アリショクは頭を傾け、近づいてくる俺を興味深そうに見つめていた。

「それで、彼女がこしらえたあの薬は何だ?」と俺は真っ先に尋ねた。間違いなく彼は知っている、俺にはそう思えた。

彼は俺の質問に驚いた様子は無かった。
「パー・ヴォレンで開発された毒だ。我らの敵を狂気に陥らせるが、我らには影響を与えない。帝国との数々の戦いにおいて大層役に立っている」

「一体全体、何だって下町のエルフが十数個のドラム缶一杯にその薬を作ることになったんだ?」

「その薬の処方箋が、大使館から盗み出された」彼は落ち着いた眼で俺を見つめていた。

「するとお前はこれが起きることを知っていた。彼女が処方箋を盗み出したと言うのが本当なら」
『盗み出した処方箋』という言葉、前にも聞いたことが無かったか?何処でだ?

「彼女があの薬をこしらえて、気にくわない近所の連中でテストするには何週間も掛かったはずだ。お前はその最後の瞬間まで待った挙げ句に、俺に電話をした」

「他に誰に告げていれば良かったというのだ、ホーク?もしこの街がお前に取ってそれほど価値のある物なら、お前はそれを救う手立てを見つけることだろう。そしてお前は成功した」

「お前達はここで一体何をしようとしている?」と俺は聞いた。
「もしあのエルフが成功していれば、非難されるのはお前達だったんだぞ」

アリショクは歯をむき出して笑いのような表情を浮かべた。
「それで、その時に我らを非難出来る誰が残っているというのだ?それに、バスラ 1からの審判なぞ、アブの羽ばたきほどにも感じぬ」

「もしその処方箋がそんなに危険な物だったら、一体何だってもっと厳重に保存しておかなかった?いやそもそも、何だってそいつをこの街に持ち込んで――」

アリショクが俺の顔を心得顔で見つめ、俺は言葉を切った。
「我はただキュンの求むる所に従うのみ」

「それで街を脅かそうというのか?一体何がしたい?その行為の行きつく先は流血の惨事だと、お前に判らない訳が無いだろう?」

「もしそれがキュンの意志ならば」彼は口の中で歯をひらめかせた。

「冗談じゃねえ」俺は彼に言った。
「お前の脅迫は通用しないぞ。お前のために汚い仕事をやるつもりは俺にはない。それに、この話にお前が関わっていたことさえ、誰にも知られることはない」

「お前が知っている、ホーク。それで充分だ。今のところはな」

そして俺は退出を命じられた。俺はさっさと忌々しい大使館から出て、表の歩道でしばらく立ち止まり夜空に鈍く輝く星々を見つめながら、何だって俺はこんなごたごたに巻き込まれる羽目になったんだろうとぼんやりと考えていた。

アリショクは喧嘩相手を求めてうずうずしている。もし彼が望めば、市庁舎の中でも大聖堂にでも、いくらでも相手は見つかるだろう。だがその代わりに彼は俺を、下町の私立探偵を選んだ、彼があれほどまで軽蔑する街の代表選手として。
それについて俺に出来ることは何も無かった。もし彼がまた電話を掛けてくれば、彼の差し出す輪にたとえ炎が燃えさかっていても、俺はサーカスのトラのようにその輪に飛び込んでくぐり抜けようとするだろう。今夜の出来事が、そうしないと言う選択肢は無いということを俺に告げていた。

俺は肩を落とすと、急に寒さを感じながら歩き出した。もうケーブルカーも動いちゃ居ないだろうから、歩いて帰らなきゃな。それに腹が減った、どっかで何か食べるものを――

――しまった。

フェンリス。

彼方で鳴る大聖堂の鐘楼が、10時15分前だと夜の街に告げていた。俺はあの忌々しい山で一体何時間過ごしたんだ。

俺は空きっ腹も忘れ、最初に見つかったタクシーに飛び乗ると運転手に大急ぎだと告げた。俺が荒れ果てたフェンリスの邸宅の前で車を止めたとき運転手は不思議そうな顔をしたが、少なくとも警察のトラテープはとっくに無くなっていたし、フェンリスは多少なりとも玄関を修理したようで、玄関扉も開きっぱなしではなかった。俺は運転手にチップを渡して、表の階段を駆け上がった。

俺がノックしようと手を上げたとき、扉が内側から開いた。フェンリスが腕を組んで、扉の内枠にもたれ掛かっていた。彼は愉快そうな、寛大な顔つきで俺を眺めていた。

「フェンリス!遅くなって悪かった。本当に君は電話を引いた方が良いぞ。実際の所、今晩も君の手を借りたかったんだが、どうにかなった」

「それは仕方がなかったな」と彼は言った。彼の吐息はワインの匂いがした。
「君を待たずに始めていたことは許してくれるな?」彼は一歩横に退いて俺を通しながら素っ気なく言った。

彼はゆったりと寛いだ足取りで、階段を先に立って登った。彼はどのくらいの間飲んでいたのかと、俺はふと思った。通りすがりに一階の居間をちらりと見て、普段より随分とすっきり片付いていることに気が付いた。それに階段の足下も、いつものように焦げた絨毯がじゃりじゃり言うようなこともなかった。

「君が掃除したのか?」と俺は聞いた。昼食前に家に戻ったのは、このためだったのだろう。

フェンリスは肩越しにちらりと振り返ると肩を竦めた。俺は後に付いて彼の部屋に入りながら、ニヤリと笑った。


Notes:

  1. クナリ語で、キュンの教えを信じない無価値な物/者のこと。
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