36.男性片脚切断、ケーブルカー事故

俺達はエイリアネージの、いつも『貸間有ります』と表示の掛かっている、今にも崩れ落ちそうなアパートの前に立っていた。そこがアルリン・ホルムを盗み出した氏族の連中が、連絡先としてテンプラーに告げていった住所だった。
もし表から中を覗き込めば、確かに借りられそうな部屋に見えるだろう、実際の所は大きな元倉庫を薄っぺらい壁で仕切っただけだったが。どこもかしこもゴミゴミと汚らしく混み合っていたが、しかしそれでも、ダークタウンの似たような場所とはどことなく違う活気が感じられた。

大抵のエルフはたとえ街中に住んでいても植物が好きで、窓枠だろうとバルコニーだろうと、果ては階下の屋根の上にまで、日の当たるところには必ず緑の植木鉢が置かれていた。俺は一度、出っ張った植木の枝を切り落とされたとか何かで、年配のエルフのご婦人方がその正当性についてもめた挙げ句に、殆ど殴り合いの喧嘩になるところを見た事があった。

俺達は玄関先で石蹴り遊びをして笑い転げるエルフの子供達を押しのけてロビーへ入った。俺達の行く先々で彼らは奇妙な目つきをして、会話を止め通り過ぎる俺達を眺めた。メリルは気が付いた様には見えなかった。
くたびれた階段を登って、奥でラジオがボクシング中継をやかましくがなり立てている開きっぱなしのドアの前を通り過ぎた。俺の足下で床板はギシギシと沈み込み、漆喰塗りの頭がぶつかりそうに低い天井には、ひび割れに沿ってカビが生えていた。夏にはもっと酷いことになってるだろう。

俺達は『304号』と記された扉の前で立ち止まった。あのテンプラーの言葉では、ここがその部屋だった。

「さてと」俺はメリルに言った。
「もし連中が君を見たら、顔を覚えているやつがいるかも知れないし、少なくとも入れ墨でデーリッシュだと判るだろう。そうしたら君の氏族が追いかけていると連中に知られて、やつらは逃げ出すか、あるいはもっと拙いことになるかも知れない。俺達はここで揉め事は起こしたくない。だから、俺がまず入って話を聞き出す間、しばらく見えないところに隠れていてくれ」

俺は304号室の扉をノックした。

丸ぽちゃで人好きのする顔をした、ブロンドの若いエルフが僅かに扉を開けて、不思議そうな顔をした。
「何だ、シェム?」 1と彼は言った。

俺は身分証明書を彼の目の前につきだした。
「ああ、君は何か売ろうとしているらしいな?その品に興味を持つクライアントの代理で来た。まだ物はあるのかな?」

彼は俺の証明書を手に取り、しげしげと眺めた後、少しばかり扉を開けた。俺は入っても良いという意味だと理解した。中はちっぽけな、大方の予想通り狭苦しい部屋だった。

「ホーク、か?どこかで見た事があるな」とエルフが言った。実は俺も彼の顔にどことなく見覚えがあったが、そこまで親しげに言うつもりはなかった。

「俺の弟だろう、数ヶ月前に新聞に載った」と俺は気軽な口調で言った。
「それで、交渉に入る前に俺にその品物を見せてくれるだろうな?」

「お前が見たところで何が判る?ただのヒューマンのくせに」

「それがどんなものか、俺のクライアントに説明しなきゃあならん。そもそも俺達には、それがあるのかどうかさえ分からないんだからな」

彼は顔をしかめた。
「両腕を上げろ、シェム」

「これは親切から言うんだがね、君のやり方はカークウォールの普通のビジネスとは大分違うぞ」と俺は言ったが、ともかく両腕を上げた。そのエルフは両手で俺の身体を上からはたき降ろし、首を振って言った。
「武器は持っていないようだな」

「持ってるとでも?」と俺は言った。

「もし無事で居たければ、止めとくんだな」彼はタフガイのように振る舞おうとしていたが、彼の表情が言葉を裏切っていた。俺は彼の気の済むようにさせてやった。何も悪いことはない。彼は俺に背を向けて―ど素人が―その部屋に一つだけあるベッドの方へ向かうと、その下から革袋を取り出して開け、布にくるまれた中身を取り出した。彼は重々しい表情で俺の方に振り向くと、布を開いて中のものを見せた。俺は顔を近づけてじっくり眺めてみたが、そいつは大体の所、バートランドが語っていた物と合致していた。

「それで、君はこれを幾らで売ろうというのかな?」
彼が再びその品―アルリン・ホルム―を恭しく布にくるんでベッドに置く間、俺は宝石をじゃらじゃら付けた金持ちのように鷹揚に尋ねた。

「お前は幾らで買うつもりだ?」とエルフが尋ねた。

俺は肩を竦めた。
「さあてね、4ゴールド?」

「4ゴールド?この品はアーラサンが滅びる以前から儀式に使われ、それから数え切れない年月の間、ずっと代々俺達の氏族に受け継がれた遺産だぞ。金には換えられない価値が――」

「それをどうして売ろうっていうの?」メリルが、目を光らせて扉の影から現れると叫んだ。

そのエルフは彼女の顔を見て驚きたじろいだ。

彼の顔を見たメリルの顔にも、驚愕した表情が浮かんだ。
「ポル?」と彼女は言いながら、よろめくように部屋に足を踏み入れた。
「あなた、ここで何を、アルリン・ホルムをどうしようというの?どうして、それを売ろうなんて?」

ポルという名の男は後ずさろうとしたが、狭い部屋の中ではどうしようも無かった。
「あっちに行け、メリル、君には関係ない!頼む、あっちに行ってくれ!」

「キーパーはあなたがここに居ることを知ってるの?アルリン・ホルムを盗み出したことを?」

「違う!マラサリがそうしろと言ったんだ。それに氏族はもう君には関係ない!」

「彼は嘘をついてるわ、トリップ」とメリルが食いしばった歯の隙間から押し出すように言った。
「絶対そうにきまってる」

「二人とも落ち着いて、ゆっくり話し合おうじゃないか」と俺は言った。突然家族喧嘩の渦中に巻き込まれたようで、俺としては遠慮したい気分だった。

「話すことなんて何も無い!」とポルは叫んだ。
「あっちに行け、二人ともだ」

メリルは俺の側を通り過ぎて、彼の方に手を差し出しながら言った。
「ポル、こっちに来て、話を聞かせ――」

ポルは彼女の言葉を理解したようには見えなかった。彼は文字通り後ろに飛び跳ねると、背後の腰高窓に身体ごとぶつかった。ガチャリと音がして、窓が外に大きく開いた。
「近寄るな!」彼の声は本物の恐怖にひび割れていた。

「危ない!」とメリルが言うと両手を大きく伸ばして彼の方に進んだ。

「メリル、下がれ!」俺は彼女を引き戻そうと腕を伸ばしたが、届かなかった。

メリルはポルを掴もうとして、そして届かなかった。

大きく開いた窓を通り過ぎる彼の表情は、殆ど変わらなかった。酷く怯えた顔だった。俺は両手を伸ばして力を呼び起こし、彼を受け止めるための見えない網を張ろうとしたが、彼はあまりに速く行ってしまった。彼がジャガイモの袋のように街路に叩き付けられる音が聞こえた。

ここはたかが三階で、もし彼が背後から真っ逆さまに落ちていなかったなら、充分生きている可能性は有った。メリルは窓枠から身を乗り出して叫んだ。
「ポル、ポル!」

俺は彼女を窓から引きずり戻し、その時にちらりと階下の身体を見た。彼は街路に頭からぶつかっていた。起き上がる事は無いだろう。
「逃げるぞ。もし誰かが警察に電話しようって気を起こすかも知れん」まず有りそうな話では無かったが。

「どうしてポルはあんなことを?トリップ、一体彼は何に怯えていたの?」

「判らん」俺はアルリン・ホルムの包みを彼女の手に押しつけると、引きずるようにして戸口から出た。幸運にもあれほど混み合っていた廊下には誰も居なかった。皆その代わりに窓から下を眺めていたに違いない。俺は彼女を非常階段の方へ追いやって、裏通りへと抜け出した。

「だけど彼を放って置くわけには行かないわ」とメリルが俺の手の下で身体をねじり、頭を後ろに向けて言った。

「大勢のエルフが見ている中へ戻って、何が起きたか話そうってのか?」と俺は言った。
「君は正気か?」

メリルはアルリン・ホルムを、指でも切るんじゃないかと心配になるほどきつく握りしめた。
「キーパーに話をしないといけないわ、彼に何が起きたのか」彼女は小さな声で言った。
「それに、一体何が起きているのか調べないといけない。どうして彼がここに居たのか」

「判ったよ」と俺は言った。

「私と一緒に来てくれる?サンダーマウントへ。キーパーと一人だけで会うなんて出来ない。ごめんなさい、トリップ」

ノーと言うことは、俺には出来なかった。


サンダーマウントへの道程、メリルは殆どずっと黙りこくったままで車を走らせた。俺も特に言うことはなく、煙草を吸いながらなだらかに曲がりくねる道を登っていく間、ずっと景色を眺めていた。ブラックベリーの低い茂みが道路脇の日溜まりにうずくまり、霜に焼かれた葉が黒ずんでいた。

フェラルデンじゃあ、もうそろそろ初雪の季節だろう。

メリルは氏族の居留地のど真ん中へと車を走らせた。夏に来たときと殆ど様子は変わっておらず、ただ草がかさかさに枯れているのと、エルフ達がフェルト地の胴着と帽子を着ているのだけが違っていた。

彼らはメリルの車に気付いた様子で、見張り達も邪魔をしようとはしなかった。メリルはキーパーの、下見板張りの壁が張り巡らされた大きな家の前に車を止めてエンジンを切った。俺達の周囲に、完璧な沈黙が舞い降りた。

メリルは震える息を付き、彼女の手が震えていることに俺は気が付いた。
「いつもこうなの」と彼女は言った。
「煙草を一服させて貰える?ちょっとだけで良いから」

俺は彼女に煙草を手渡した。
「勇気を出して」と俺は彼女に言った。
「俺が側に居るからな」

俺達は車から降り、メリルがキーパーの家に歩み寄ると扉をノックした。マラサリが扉を開けて、俺の方に充分礼儀正しく頷いて見せた。

「メリル、我らの所に戻ってきたのか?」と彼女が尋ねた。

「キーパー、酷いことが起きてしまったの」

マラサリは俺達を家の中に招き入れた。俺は中の暗がりに瞬きをして、目が慣れるまでおっかなびっくりで足を進めた――さもないと足下の家具か何かにぶつかりそうだった。あたりには燃える薪の匂いが立ちこめていた。

メリルは茶を断ると椅子に座り、エイリアネージで起きたことをマラサリに語った。

彼女の話が済むと、マラサリは悲しげに俯いた。
「ポルは気の毒だった。彼の知らせを伝えてくれて感謝しよう。彼の遺体を持ち帰るよう、手配せねばならぬ」

「おそらく市の遺体安置所には無いでしょう」と俺は口を挟んだ。
「街中のエルフ達は、自分たちでどうにか出来る間は余所者に手を借りることはしません。エイリアネージの中で全てを済ませようとしますから」

「判った。ありがとう。アルリン・ホルムを返して貰えるか、メリル?」とキーパーが言った。

メリルは不安げに顔をしかめた。
「そもそも、どうしてポルがアルリン・ホルムを持っていたの?しかも売ろうとするなんて!彼は、あなたも知っていると言っていました」

マラサリは溜息をついた。
「彼が言ったことは嘘ではない、我が子よ。氏族のうちに、この密造酒の騒ぎに熱中するあまり揉め事を抱え込んでしまった者が居る。そして、相手は理性的に物事を解決しようとする者達ではない。だがカルタ達が強襲を受けたが故に我らは品物を安全に売りさばくことが出来ないでいる。氏族が負うべき支払いの期日が近づいている」

「だけど、私達の歴史なのに!もうそれしか残されていないのに!」

「それは穢れを受けている、メリル。真の目的を知らぬ者の手に渡る方が、あるいは良いのかも知れぬ」

メリルは愕然と、大きく口を開けた。
「これもまたブラッド・マジックのせいだと言うの?もう何百年も使われていない魔法のため?」

「それは真実ではないと、そなたも知っておろうな」

「アルリン・ホルムを使おうだなんて、一度も思ったこともないわ」

「既に為されたこと。既に穢れを受けている」

「じゃあ、ポルはこれのせいで死んだのね」

「彼はそなたのせいで死んだのだ、メリル。彼はそなたを恐れた、当然そうすべきように。そなたはまた、あれを繰り返した」

「違う、彼を脅かしたのは私じゃないわ、あなたよ。私のことを何て話したの?」
メリルは椅子から身を乗り出してマラサリに詰め寄るように言った。

「真実を語ったのみ」

「そう、なら私もアルリン・ホルムを返さないわ、絶対嫌よ」

「それで良いのか、メリル?」

「ええ」

「いいだろう。我らはどこか他に支払いの方法を探そう」

メリルは驚いたように見えた。
「きっとあなたは反対するだろうと思ったのに」

「どうしてそうすると?そなたは既に心を決めた、反対したところでどうにもならぬこと。私がこれを喜んでいると思ってくれるな、メリル。そなたが我らの元に、氏族の元に戻ってくれるなら、何よりそれが嬉しい。皆、そなたのことを残念に思っている」

「私には出来ないってご存じのはず」メリルが静かに言った。
「だから、戻りはしません」

マラサリは俺の方を見た。
「どう思うか、ホーク?あるいは部外者の見方が頼りになるやも知れぬ」

「あなたもメイジだ、キーパー。彼女がどういう危険に晒されているかは良くご存じでしょう。メリルの固い意志と、この頑固さは、あるいはめでたいことかも知れませんよ。もし彼女があなたの言葉に従わない程の頑固者なら、フェイドからの客人の誘惑にも乗らないでしょう。仮にそいつが、あなたの顔をしていたとしてもね」

「ならば私は、そなたの友人に対する信頼が誤っていないことを祈るのみ。そなた達の旅路に幸多からんことを」

そして俺達は、来たときと同じようにサンダーマウントを去った。ほぼ完璧な沈黙の元に。

デーリッシュ居留地が完璧に視界から消え去り、そしてカークウォールの市街が俺達の目の前に見えてきたとき、メリルは車を止めて、泣き出した。俺は彼女の肩をさすってハンカチを貸してやった。彼女には泣くだけの充分な理由があった。

そのうちに彼女は泣き止み、ダッシュボードの小物入れから小瓶を取り出すと一口ぐっと飲んで、それから俺にも差し出した。俺は頭を振った。

彼女は泣きはらした目を擦った。
「私にもあなたみたいな家族が居たら良かったのに、トリップ」

「君はギャムレンのことを気味が悪いって言ってなかったかな、確か」

彼女は微かな笑顔を作った。
「だけど叔父さんはあなた達を家に住まわせてるじゃないの。あなたを放りだそうなんて、思ったことも無いはずよ」

「いーや、間違いなく思ったことがあるだろうね」
俺はまじめな顔になって彼女を見た。
「メリル、君はもう自分のことは自分で決められるはずだ。カーヴァーのやつが俺にそう言ったように。アルリン・ホルムを君は手に入れた、その取り扱う責任と一緒に。どうにかなるさ、今に君にも判る。何もあの氏族が、世界中でただ一つの氏族ってわけじゃない。母さんがカークウォールを去った時には、彼女は家族全て、財産も家も何もかも置いていった。だけど彼女は新しい家族を作った、君が羨ましがるやつをね」

「単に自分の氏族を作るなんて訳にはいかないわ、随分変な話よ」

「どうしてだ?デーリッシュばっかりの必要だって無いだろう。とはいえ、エルフ語の方がキュンよりはマシだけどな」

「面白いアイデアね」と彼女は笑った。
「本当に頭が良いのね、トリップ」

「うんまあ、みんなそう言ってくれるけどね」

メリルは化粧を直し、それから車を運転して俺達を家に連れ戻った。

俺達が下町に着いたとき、母さんがメリルの車の音を聞きつけて表に出てくると、ヴァリックの伝言を伝えた。彼が俺達に会いたいと言っていたということだった。

「俺達?」

「あなた達全員にって。そう伝えてくれと聞いたわ。すると今夜はあの酒場に行くのね?夕食はオーブンの中に入れておいた方が良いかしらね?」

「多分、食べ残しをくるんで置いてくれたほうが良いかも。遅くなりそうだ」と俺は母さんに言った。

Notes:

  1. Shem:エルフが使うヒューマンの蔑称。
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