41.沿岸警備隊、テヴィンター船を撃退

眠気はすっかり消えていたし、もう明け方も間近だった。俺はベッドに仰向けで天井に向かい、漆喰のひび割れと壁の隅のクモの巣が、ゆっくりと明るさを増す光の中で鮮明に見えてくるのを、ただ見つめていた。一体全体どうなってるんだ?あれは八つ当たりか?喧嘩か?何のせいで?誰のせいだ?

それとも、俺は本当に彼を傷つけてしまったのだろうか。

そして彼も、俺を傷つけた。まるで鉛のように重い心を抱えて、俺はどうにかベッドから再び起き上がった。アパートの奥で、多分母さんだろう、歩き回る音が聞こえた。好むと好まざるに関わらず太陽は昇り、俺は隠れている訳には行かなかった。
洗面所で髭を剃ろうとした時、微かなフェンリスの匂いが指の間から感じられた。俺の陰鬱な気分が、少しだけ晴れた。良くなった訳じゃ無いが、多少はマシにはなった。

俺は朝飯を食いたい気分じゃ無かったが、ともかく何か口に入れなきゃいけないことは判っていた。ギャムレンは新聞を読み政治の話にブツクサと不平を漏らしていて、それが普段より更に癪に障った。

「何か悪い事でもあったの、トリップ?」
ギャムレンが『煙草を買いに行く』、つまり遅くまで賭けカードで帰ってこないという意味の言葉を呟いて出ていった後で、母さんが俺に尋ねた。

俺は後悔のため息を付いた。
「俺は馬鹿な事をしでかしたようだよ、それだけさ」

「良かったわね」と母さんが言った。

「何だって?母さん、息子が馬鹿な事をして良かったわけが無いだろう?」

彼女は俺に向かって微笑み、目尻の笑い皺が深くなるのを俺は見つめた。
「マルコムが死んだ時、あなたは彼の跡を継ごうと必死で頑張ったでしょう。子供から一足飛びで大人になってしまったんじゃないかって心配していたの。大急ぎで大人になろうとしたんじゃないかと」

「そんな風に思っていたなんて、知らなかったな」
俺はそう言うと、かじり掛けたトーストを皿に置いた。

「だから私達がカークウォールに来たのを喜んでいるの、本当よ。ロザリングではとても望めなかったようなチャンスが、ここではあなたを待っている。お友達もね。小さい頃のあなたは本当に頑固者で、あなたの友達に、私達の魔法について話をすると言い張って、お父さんと幾度も大げんかをして。友達が裏切ることなんて絶対無いと信じたかったのね」

「ああ、覚えているよ。本当にただのガキだった頃だ」と俺は言った。

「ここであなたが作ったお友達、あの人達を見たら、あなたももう大丈夫ね」

「なんでそんな事を言うの、母さん?まさかフェラルデンに戻ろうって考えている訳じゃ無いんだろう?」

「いいえ、そんなつもりは無いわよ。だけどもう一度人生を始めても良いんじゃ無いかって思っただけ。まだそんな年寄りには見えないでしょう」そう言うと彼女は声を立てて笑った。
「再婚しても良いかも知れないわね。その時はお祝いしてね」

「母さん!何だって?」俺は頭をテーブルにガツンとぶつけて呻いた。
「ううう。判ったよ、好きにしてくれ」

「まあっ!もう少しこころよく賛成してくれても良いんじゃ無いの、トリップ?」彼女はそう言うと、俺の頭の後ろを軽く叩いた。

「判った、判ったよ」と俺は言って、どうにか椅子から立ち上がった。時折、母さんが突拍子も無いことを言い出すのは、計算されたタイミングじゃ無いかと思うことがあった。
「その時はちゃんとお祝いするよ、それでいいだろ?」

「まあね、まだ誰か相手が見つかった訳じゃあないけど」

「仕事を始めてくるよ」と俺は言った。フェンリスが顔を見せるかどうかは、怪しいものだった。

フェンリスは来なかったが、エメリックが顔を見せた。彼は珍しく制服の代わりに普通の私服に身を包み、デイジーの花束を抱えていた。彼は俺に礼儀正しく微笑みかけ、母さんに花束を渡すと、彼らは連れだって映画に出かけていった。

信じられない。またテンプラーか。家族にもう一人?

「ヴァリック、ちょっと君にアドバイスして貰いたいんだが」
俺は階下の書店に向かい、カウンターの奥でビアンカを磨いていたヴァリックに声を掛けた。

「お前さんが俺にしてくれた事を思えば、そんくらいは安いものだな」ヴァリックもほとんど寝ていないような顔をしていたが、しかし彼の表情は晴れやかだった。
「リヴァイニと俺で昨晩のうちに何もかも片付けたぜ。バートランドには、今度冒険隊を組織する時には絶対金は貸さねえと言っておいた」

「あのとんま野郎は元気だったか?」

「おいおいトリップ。やつは一応、俺の兄貴だからな、口の利き方に気をつけろ。いつもの通り上機嫌だったさ。やつは俺がリリウム数箱分の借りがあるとでも思ってるようだったがな。ふん、都合の良い話だ。とにかく、俺のことはそんくらいだ。お前さんの話を聞こうか?」

俺は椅子を店の隅から引きずってきて彼の前に座った。
「えーと、つまりだな。女の子がいてね」

「ふんふん」

「それで昨晩、事が上手くいったと思ってくれ。なのにその後で彼女は、まだ早すぎた、自分には出来ないって言って飛び出して行っちまった」

「まあ、彼女がそう言うならそうなんだろうさ。もっとはっきり言えといっても無理な話だろうしなあ。だがお前さんがそんなに下手くそだとも思えないが、トリップ?」

「普通はね。だけど昨日は……その、ちょっと事情が違ってて。とにかく、ともかく、俺が台無しにしちまったのは間違いない。どうすりゃあいいんだ?」

「謝るんだよ、この馬鹿野郎!花束を持っていけよ」

「彼女が花が好きだとは思えないな」

「チョコレートでも。本でも。ダイアモンドでも。何でも彼女の好きそうなものさ」

フェンリスが好きな物は何だ?ワイン?違法だ。それとメイジを叩きのめすこと。俺は自分の顎を差し出すべきかも知れないな。

「君のいうとおりだな、ヴァリック。謝らなくちゃ。ありがとう」
それ以上、ヴァリックに詳しいことを言うわけにはいかなかった。誰にも話すわけにはいかなかった。とにかく、その内にどうにかなるさと俺は自分に言い聞かせた。俺自身納得したわけではなかったが。

「落ち着いて考えればお前さんにだって判ることさ、そうだろう」
俺の背後に、ヴァリックはそう声を掛けた。

そして俺は店を出て、文字通りフェンリスと正面衝突した。俺達は一瞬の間互いをじっと見つめ、俺はフェンリスがまた逃げだそうとしていると思った。彼は本当にそうしたいような様子だった。

「アパートには誰も居ない」と俺は言った。
「上に来ないか?つまり、話すために」と俺は慌てて付け加えた。
「話すだけ」

「そうすべきだろうな」と彼は静かに言った。

フェンリスは黙って俺の後について階段を登り、俺が机の後ろに座った後もそこで立っていた。

「君に謝りたかった」と俺は言った。
「昨日のことについて。俺は――」

「そのことについては話したくない」とフェンリスが小さな声で言った。

「だけど君が、話をすべきだって言ったばかりじゃないか」
すでに足元がぐらついてきたのを感じながら、俺は指摘した。

「そうだ。いや。つまり、トリップ、昨日はあまりに多くの出来事が起きた。俺はそれを整理しなくてはいけない。君だけではなく――全てのことについて」

「時間を掛ければ、少しはマシになるかもな」と俺は渋々認めた。

「君から離れたいわけではない、トリップ。俺は、君と一緒に働きたい」

「俺だって離れたいわけじゃない!ずっと居てくれた方が良かった。フェンリス、君はもう二度と、逃げる必要は無いんだ」

彼は俯いた。
「そんな風に俺を見るのは止めてくれ。済まなかった。もう一度チャンスをくれと言うつもりは無い。以前のように、何も無かったように戻れないだろうか?」

「本当の所は無理だな、フェンリス。つまり、もちろん、君が頭を整理する間好きなだけ時間を掛ければいいさ。だけど君から離れるつもりは無い。もし俺に何か出来ることが、謝って欲しいことがあれば、言ってくれ。俺は君とのことを台無しにするつもりは無かったんだ」

「君じゃない。俺が台無しにした。俺には、その、出来ない」
彼はそこに突っ立ったまま、手を大きく振った。
「……これは。俺はまず、自分を見直す必要がある。判ってくれるか?」

「そいつを一人でしなきゃならないってことは無いんだぞ、フェンリス。それは判ってくれるか?」

「ああ」彼はそれ以上何も言おうとはしなかった。俺との話を打ち切るために同意しただけという気が、俺にはした。

俺はため息を付いた。
「それでいいさ」俺には、そうするしかなさそうだった。少なくとも『君の顔はもう二度と見たくない』よりはずっとマシだが、満足出来る答えには程遠かった。それでも、昨夜あれほどくっついた後で、フェンリスが自分だけのスペースが欲しいと言うのなら、与えるのが公平というものだろう。

「それで、今日は何か依頼はあるのか?」
しばらくして、フェンリスがそう尋ねた。

「どうも無さそうだな、正直言って残念な気もしないし。俺は眠い」
俺は何故眠いのかを改めて思い出して、フェンリスもおそらく同じ気分だろうと思った。彼は普段より少しばかり顔色が悪く、床をじっと見つめていた。
「さてと、新聞を買ってくる。戻るまで砦を護っててくれ」

「ああ、もちろん」


俺は一日中机の前でうとうとと居眠りをし、フェンリスは読書に戻った。彼は望むものを得た――俺と視線を合わせることを頑なに拒む以外、何事も普段通りに戻った。部屋の居心地がひどく悪いのが、普段通りというなら。

その内にエメリックと母さんが映画から戻ってきた。二人とも笑っていて、母さんはエメリックとフェンリスを夕食に招待すると、上等の外出着から着替えて料理を始めるために台所へ行った。

「商売の方はどうかな、君たち」とエメリックが尋ねた。

「ぼちぼちだな」

「君の弟をこの前練習場で見かけたよ」とエメリックが煙草に火を付けながら言った。
「退屈しているようだったな」

「まだ棒でメイジを叩く教程には入ってないのか」と俺は言った。

エメリックは残念そうな表情で俺を見た。
「新聞が書き立てるような話ばかりではない。カーヴァーが果たすことになる役割を、誇りに思って欲しいものだ」

「あいつが上手くやってくれれば良いと思うよ。それ以上は勘弁してくれ」

「私もそれ以上言うつもりは無い。ところで、あの鞄に入っていた死体の一件について最近何か聞いたか?」

「ニネッテの殺人事件か?」と俺は聞いた。

「ああ。六ヶ月もの間これと言って進展は無い。刑事達はどうやら、殺人者は街から出て行ったと結論づけた様に見える。もちろん、それを裏付ける証拠と言えば、誰もまだ別の死体を見つけていないということだけだ」

「証拠の不在は、事件が無いことの証拠にはならないぜ」と俺は指摘した。
「それにだ、ファウンドリーで俺達が見つけたことからすると、相手は単なる狂人でもない。俺達が探しているのはメイジだ。彼はただ、証拠をもっと上手く隠すようになっただけかも知れない」

「警察はそれも全部承知している。市警察と騎士団の派閥争いは間違いなく、流感よりも多くの人々を殺しているな。もし本当にこの件にメイジが関わっているのなら――そして我々は間違いなくそうだと知っているが――彼らは騎士団と協力しなくてはならないはずだ。だが彼らは美味しいネタを分け合おうとはしない、どうしてもでない限りは」
エメリックはそう言うと、煙草を吸い込んで大きく煙を吐き出した。

「だけど連中は諦めかかっているじゃないか」と俺は反論した。

エメリックは頷き、笑顔未満の表情を作った。
「君が腹を立ててくれることを期待していたよ。この一件は、どうにも気に入らない。あの女性達が忘れ去られてしまうことが。そして我々が殺人者にもっとも近づいたのは、君の協力が有ったときだ」

「俺をその殺人事件の解決のために雇おうってことか?」

「しかるべき筋に任せておく、という戦略は上手くいかないようだからな。私は実のところ、この件をまた自分で調べて見ようと思っていた、だが騎士隊長に公式に要請があるまで手を出してはならないと命じられてね。彼はもう充分すぎるほど火の粉を払っているからな、現時点で市警察と揉め事を抱えることは出来ない」

「だが犯人の足跡はもう冷え切っているだろうな」
俺はフェンリスの方に振り向いた。
「君はどう思う?」

「この凶悪犯は捕縛されなければならない。もし彼を見つけられる者が居るとしたら、君だろう」

彼の言葉に俺は驚き、それからニヤリと笑った。
「勇気百倍の保証だな」
俺は真面目な顔になってエメリックを見た。
「いいだろう、約束は出来ないが、何が出来るか調べて見ようじゃないか」

「こういった人物には必ず経緯があるはずだ」とエメリックが言った。
「残念ながら、カークウォールほど厳格かつ綿密な管理をしているサークルは少ない。私は逃亡メイジの一覧表を作ってみたが、それがどう役に立つのかは、どうもな」

「どうして、この男がサークルメイジだったと思うんだ?」

「魔法を上手く使いこなすためには、適切な訓練が必要だ。ほとんどのアポステイトはさほど強力ではない、今ここに居る人物は別として――君は父親から訓練を受けただろうからな」

その言葉に、俺は鋭く彼を見つめた。

「ああ、もちろん。マルコム・ホークのことは覚えている。忘れる方が難しいだろうな」とエメリックはクスリと笑った。
「正直なところを言うと、私は彼を避けていた。私はその頃、やや年を食った新米テンプラーで、彼のようなトラブル・メーカーには近寄りたく無かったのでね。だがギャロウズは、彼が居なくなって随分と寂しくなったものだ。時々、我々に欠けているのは彼のユーモアのセンスだろうかと思うこともある」

「ふん、そいつは面白いな。一度一緒に酒でも飲もうじゃないか、俺も父さんが使った手口を聞いてみたい」と俺は言った。それから俺達はしばらく考えに沈んでいた。
「あるいは、その殺人犯はテヴィンターから来たんじゃないかと思ってたけどな」

「それは無いだろう」とフェンリスが言った。
「テヴィンターでは、彼は逃げ隠れする必要はない。あるいは、その大胆な研究手法に人々は拍手を送りさえするだろうな」

「それなら、わざわざここに来る必要もないというわけか。ふーむ、とにかくそのリストを上から消していこうか」俺は顔をしかめた。
「アポステイトね?ちょっと俺に心当たりがある。一旦出かけて情報を仕入れてから、また戻ってくることにしよう」

「フェンリス、ちょっと手を貸してくれるかしら?」とその時母さんが顔を出して声を掛けた。彼女はエメリックに笑いかけた。
「どうぞ、彼に父親の話をしてあげて頂戴。まだ少し時間が掛かりそうだから」

俺は片方の眉を上げて、訝しげに母さんの顔を見つめた。一体何を考えているんだろうか?だけどもちろん、俺は反対しなかった。フェンリスは従順に彼女の後について台所に行き、やがて彼らの話す声が聞こえた。

エメリックはしばらく彼の煙草を吹かしていた。
「さあて。確かに君は彼そっくりではあるが」

あいにく、エメリックは母さんが期待したほど父さんについて知っている訳では無く、母さんからすでに聞いた話がほとんどだった。母さんは彼の話が尽きた後もフェンリスと話を続けていた。俺は一体彼らが何を話しているのだろうかと、ドアをそっと開けて様子を覗いて見た。

なんだかフェンリスの顔色が悪かった。床をじっと見つめる彼に向かって母さんが穏やかに話しかけていたが、物音に顔を上げて俺の方を向いた彼の表情は、今にも逃げ出したいのをこらえているような顔付きだった。

母さんが彼の腕をハタハタと叩いた。
「アポステイトを愛するというのは、本当の勇気が無くては出来ないことよ」と彼女が優しく言う声が聞こえた。何かフェンリスに諭していた内容の締めくくりのようだった。彼はどうにか弱々しく唇の端を上げて微笑みを作り、俺はそそくさと頭を引っ込めた。

うう、母さん、悪気が無いのはよく判っちゃいるが、俺達の役には立たないんだ。

エメリックは一度兵舎に戻ってノートを取ってくると言い出し、結局その日の夕食会は延期となった。フェンリスはほとんど一言も口を聞かず、そそくさと夕暮れの街に消えていった。俺は母さんに放って置いてくれと言いたかったが、しかしもしそう言えば、何もかも洗いざらい母さんに話す必要が有るだろう。そっちの方が願い下げだった。心の一部では俺は母さんが喜んでくれたことを嬉しく思っていたが、残念ながら今現時点で、喜んで貰える程の内容はあまりなかった。

俺は今日エメリックが訪ねて来てくれたのをほとんど有りがたく思っていた。この殺人事件はどうにも気に入らない不愉快な話だったが、少なくとも俺の心をフェンリスから少しは離してくれた。

もしこれがアポステイトの手によるものだったら、俺には情報を持っていそうな人物の心当たりがあった。もっとも俺はフェンリスには何も言わなかったが。彼がアンダースの診療所をとりたてて訪ねたいと思うか、怪しいものだ。


診療所は普段より空いていたが、静かという訳では無かった。患者は皆酷い咳をしていて、俺はこっそりと口元をハンカチで覆うと息を止め、手術室の前まで速歩で通り抜けた。アンダースはそこに居ると受付の女性が言っていたので、俺は彼が控室に戻ってくるまで、足元に擦り寄る緑色の眼をした雄猫――プァーシヴァルと言う名前だったか――の耳の後ろを掻いてやりながらぼんやりと待っていた。

「トリップ。君が来るとは思っていなかったよ」
やがて手術室から出て来たアンダースが、手を流しで洗いながら肩越しに微笑んで言った。
「君も流感に罹ったのか、そうじゃ無いんだろう?」

彼が俺の額に手を当てようとする前に、俺は片手を上げて首を振った。

「いいや、俺は元気だよ。身体の方はね。君こそ疲れているようだけど」実際、彼は何時も疲れた顔をしていた。
「実のところ、今日は俺の仕事の話で来たんだ。この街ではぐれメイジについて知りたいと思ったら、君が一番の情報源だろうからな」

「君は、何について知りたいと言った?」と彼は用心深い声音で言った。

「おいおい、アンダース。俺の言うことは聞いたろう。メレディスのために聞き込んでるわけじゃ無いぞ」

「すまない。だけど、状況はどんどん悪くなる一方だ。助けを求めてくる人は日に日に多くなっていて、僕達の組織は手を危険なほど広げている。こんな状態は長くは続かない、トリップ。僕達がメイジを一人救い出す後には、その十数倍のメイジが捕らわれたままでいる。少数を助け出したところで、どうにもならないんだ。大勢のために、このシステム自体、変わらなくてはいけない」

「オシノは最善を尽くしているさ」と俺は指摘した。

「彼は真の変革を止めようと最善を尽くしている、そうだろう。彼は明らかに上手く機能していないシステムを必死に保とうとしている。彼もまた、問題の一つに過ぎない」
アンダースは怒ったように言うと、流しにもたれて両腕を組んだ。

俺はここに彼と討論するために来たのでは無かった。
「その件は俺より君の方が遙かに詳しいだろうな。とにかく、俺の聞きたいことは別の話だ」

「悪かった、君がここに来る度に、僕は議論を吹っかけるか、それか……その」
アンダースは言葉を切ると、居心地悪そうに口をつぐんだ。

「君の気持ちはよく判るよ、アンダース。君には根性があるし、俺達皆を刺激しているのは間違い無い」

「はっ!」彼は腕を解くと肩をすくめた。
「ところで、こんな事を言うのは何だけど、君はどうも幸せそうな様子には見えないな」

「昨晩、あれから色々有ってね。俺が思っていたようには事が進まなかった」と俺は白状した。

「断られたのか?君が?本当に?」

にはちゃんとした理由があって――」と俺は小さな声で言いかけた。一瞬の間、俺達は互いに顔を見合わせ、それから堰を切ったように二人とも大声で笑い出した。一体何に付いて笑っているのか、よく判らないにしても。
アンダースはもう随分長い間、声を出して笑ったことが無かったように見えた。
「あほらしいったらありゃしない」と俺は笑いの発作の合間に言った。

「同感だね」とアンダースも眼鏡を外して涙を拭いながら言うと、側のベッドに腰をおろした。
「それで、僕に何を聞きたかったんだ?」

「俺はあるアポステイトを探しているんだ。いや、ギャロウズからの脱走者じゃないのは確かだ。彼はもうカークウォールに少なくとも半年、あるいはそれ以上滞在している。黒のよろず屋から大層な量の買い物を出来る程、裕福な人物だ」

「黒のよろず屋?聞いた覚えがあるな。君が、あのテンプラーと一緒にその店に行ったんじゃなかったっけ?それから、子猫を連れて来た」

「そう、それだ。警察が追いかけていたボールを掴み損ねて、俺がまた拾ったというわけさ」

「本当に気を付けてくれ、トリップ。前の時には二人入院することになったんだろう」

「判ってるよ」

「ふーむ。そう言えば、ハイタウンに住むアポステイトの噂を聞いた事がある。カークウォール出身じゃ無いのは確からしい。オリージャンだろう、多分。組織のメンバーが彼と接触して、それなりに理解のある人物のように見えたそうだが、何か引っかかるところがあったようだ。結局、充分信用のおける人物では無いということで、そのまま接触を断ったそうだ」

「すると、それ以上特に進捗は無かったというわけだな?」

「もし良かったら、もっと話を聞いてみるよ。どうして彼らがその男を避けたのか、引っかかる点を聞いてみる位はすぐ出来ると思う」

「ありがとう、アンダース。今晩はずっと家に居る。その男の名前は知っているか?」

「ああ。ガスカード・デュプイだ」

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