44.下町の恐怖、流血の惨事に至る

俺達は押し黙ったまま、デュプイが俺の仕事場の床に跪き、彼自身を血の霧で覆うのを見守っていた。程度の差こそあれ皆の顔には嫌悪と不承認の表情が浮かんでいたが、母さんの安否が天秤の反対側に掛かっているかも知れないからには、誰も止めろと言い出す者は居なかった。
俺はそのことは考えたくもなかった。クエンティンの行動は止めなくてはいけない。たとえ今この瞬間、母さんが玄関から入ってきて、呆れた顔で一体何をしているのと俺達に聞いたとしても、その事実は変わらなかった。

母さんは、扉を開けて入っては来なかった。

「彼は近い。すぐ近く、下町だ」
デュプイは立ち上がり、右手首から血を滴らせながら言った。
「私が案内しよう」

「お前と一緒にメリルの車に乗る」と俺は決心した。
「一緒に来てくれ、アンダース。君の能力が必要になるかも知れない」

「残りの者はエメリックの車に同乗」とアヴェリンがきっぱりと言った。

「俺はトリップと一緒に行く」
フェンリスが、その日初めて口を開いた。
「ボンネットの上にしがみついて行けばいい」

誰も反論する者は居なかった。

「俺は、ええと……留守を守っておくよ」
俺達が帽子に外套、武器を手に取って立ち上がるのを見ながらギャムレンが言った。彼は心底心配している様子で、二台の車に身体を詰め込む俺達を玄関先から見送って「気をつけてな」と叫んだ。

デュプイは前席でメリルの隣に座り、方向を指示した。いつも役に立つとは限らなかった。彼の追跡はまるでカラスが餌をついばむようにあちこちと飛び、メリルは俺達を乗せて側道から側道へ、あるときは行き詰まりへと引きずり回し、そのたびに方向の指示に従うために引き返した。

俺達が下町の半ばまで来た頃、俺はどこに行こうとしているのか気付いた。

「ファウンドリーだ」と俺は言った。
「最初に、俺達が死体を見つけたところだ」

「彼が犯罪現場に戻ったということか?」とフェンリスが言った。彼は帽子を片手に、もう一方の手で車の枠につかまっていた。

「あるいは、あそこを離れたことが無いのかもな。メリル、ファウンドリー地区の鋳物工場だ。もし間違っていたらデュプイが気が付くだろう」

「任せておいて」とメリルが車をクルリと反転させ、俺は放り出されないようにとフェンリスの外套を掴んだ。俺達が鋳物工場の前に到着した時、デュプイは場所が違っているとは言わなかった。

「ここ?」車2台が停止し、皆が外に降り立った時アヴェリンが首を振って言った。
「全く、なんてこと」

「行こう」およそ二度と訪れたいと思う場所では無かったが、今の俺に選択肢は無かった。

「彼はどこか、この辺にいる」とデュプイは言うと、血のこびり付いた右手を振った。

「充分だ」俺は正面の扉を蹴飛ばしたが、前の時簡単に開いた扉は、誰かが親切に錠前を取り替えていて、俺はつま先を痛めただけだった。
「メイカーズ・ブレス!くそったれ、開けったら!」

「落ち着けよ、ヒーロー」ヴァリックが救いの手をさしのべた。
「ほんの一分、お待ちあれ」
その一分が俺にはあまりに長い一分だった。俺はイライラとつま先を振ると、皆と一緒にドワーフが作業をする様子をしかめっ面で見つめた。

彼が扉を開け、俺達は用心しながら中ににじり入り、銃を持つ者はそれを引き抜いた。メリルは彼女のパラソルを掲げた。以前あった作業場は、すっかり姿を消していた。ガラクタもずっと数を減らしていたが、至る所にホコリとクモの巣が掛かっているのは同じだった。俺達は神経をぴりぴりと尖らせ、攻撃を予想しながら横一列になって歩いた。

数匹のネズミ以外、壊れた鋳物工場の中で動く物は無かった。

アヴェリンがゆっくりと銃を下げた。
「何も無いわね」

俺はデュプイに振り返った。
「まだ感じられる」と彼は肩を竦めると、両手を大きく振った。
「どこか、この近くに」

「ホース!母さんを見つけろ」と俺は忠実なマバリ犬に命じた。彼は鼻先を床にくっつけて部屋をぐるりと周り、俺達は彼の行く先で扉を開けてやって、倉庫や控え室の中も探らせた。

やがて彼は、目当ての物を見つけ出した。以前は材料置き場だったらしい場所の一角で、ガラクタの下に隠された扉を見つけ出すと、彼は前肢で引っ掻いてキューンと鳴いた。

「なんだって刑事部はこれを見逃したの?」皆周囲に集まり、アヴェリンは腹立たしげに言った。

「おそらく魔法で隠していたのかもな」とアンダースが言った。

「だから彼らはテンプラーを連れてくるべきだったのだ」とエメリックが唸った。
「それならとうに見つかっていただろうに」

「どうでもいい、開けるのを手伝ってくれ」フェンリスと俺は隠し扉の取っ手を掴むと引っ張り上げた。その下の暗闇から、俺は煙の匂いと、もっと甘ったるく、恐ろしげな何かの匂いを嗅いだ。

「一体この下に何名の女性が隠されていたのか」とエメリックが陰鬱な声で言った。

時間を無駄にする余裕はなかった。俺は金属製の縄梯子を辿って冷たい壁沿いに伝い降りると、階下に着いた所でどうにか当たりを見渡せるだけの明かりが、側の部屋から漏れていることに気付いた。

「ここは一体何だ?」と俺は静かに聞いた。

「密輸業者のアジトね」とイザベラが答えた。
「合法の鋳物工場が上を、奴隷商人や密輸業者が下を使うの。この建物自体と同じくらい古いでしょうよ、あるいは更にその前から」

カークウォールには長く陰惨な過去があり、至る所でその証拠は見いだせた。

皆出来るだけ足音を潜ませ静かに、微かな明かりを頼りに奥へと進み、やがて大きな部屋に出た。火の気のない暖炉といくつかの袖付き椅子が置かれ、隅にはクローゼットのような物まであった。そして至る所に本が散らばっていた。あの嫌な匂いは、ここでは更に強くなった。

「この本の多くがおそらく、サークルの図書室から持ち出された物だろう」とエメリックが言った。

俺の首筋の毛が、チクチクと逆立った。
「何か来るぞ!」

今回は、俺達にも用意が出来ていた。シェイドが床の影から滲み出るように現れ、暖炉が激怒の炎に燃え上がった。メリルがデーリッシュの言葉で鬨の声を上げ、部屋の空気は弾丸と魔法に満たされた。デュプイさえ杖がないことにぶつぶつ不平を言いつつ、戦いに手を貸した。ホースは明らかに杖を持たないままの彼を引っ張ってきたに違いない。

俺の耳はガンガン鳴っていたが、戦闘はあっと言う間に終わった。メイジ達は大きく息を付くと心の弦を張り詰め、魔法を持たない者達は手に持った銃に弾を詰め直した。
アヴェリンが折れた柱から即席の松明を作り、俺達は煙の漂う部屋の中央に集まった。

隅の寝床の何かが、俺の注意を引いた。駆け寄るにつれて、その臭いだけではなく女らしい服装に、苦い物が俺の喉の奥からこみ上げてきた。俺がまるで人形のような、固くこわばった死体の肩を掴んで仰向けにすると、見慣れない顔が俺を向いた。その両目は抉り出され乾いた血糊が半白の髪を覆っていた。

「母さんじゃない」俺は肩越しに振り返って言った。

エメリックが近づいてきて、ひどく悲しげな顔になった。
「我々は、これを防がなくてはいけなかったのに」

「彼女を最後にしてみせる」
アヴェリンが静かな声で、きっぱりと宣言した。

「おーい、ヒーロー。ちょっとこっちに来て見てくれ」とヴァリックが、暖炉の上の壁を見上げながら言った。

「そんなことしてる暇があるのか?」とアンダースがイライラと言った。

ヴァリックが見ていたのは肖像画で、古ぼけた額縁の中には中年の男女、おそらく夫婦と思われる人物が描かれていた。彼らは微笑んでいた。

「これは、彼の絵だ」とデュプイが言った。
「クエンティンだ」

「だろうな」と俺はゆっくりと言った。
「だが、この夫人は誰だ?」
もし俺が何も知らなければ、昔の流行のスタイルの服と髪型をした母さんだと言っただろう。ただし目の色はもっと暗かった。

「彼の妻だ。その、妻だった。彼女は数年前に結核で死んだ」とデュプイが説明した。

「だけど、よく似てるな、その…」とアンダースが言いかけて言葉を切った。

「やつを見つけなきゃあならん」と俺は言った。
「今すぐ」

さっきの戦闘の後では、クエンティンは間違いなく彼の隠れ家に侵入者が居ると気付いたに違いなかった。今更足音を潜める理由は無く、俺達は階段を駆け下り廊下を辿って走った。ホースが俺達の先頭を切って駆け、アヴェリンとエメリックがしんがりを走りながら松明を掲げ、その光が俺達の前方に暗く踊る影を投げかけていた。

廊下の突き当たりに扉があり、俺は魔法を呼び起こすと走りながら投げつけ、掛け金が弾け飛んだ。大きく開いた扉から俺達は転がり込んだ。

「クエンティン!」俺は立ち止まると怒鳴り声を上げた。大きな部屋の手前側が実験室、奥が書斎となっているようだった。壁に貼り付けられた身体の一部分といった類の物は、幸い見あたらなかった。
「母さんをどこへやった!」

書斎の奥には暖炉、その前には大きな椅子が一つ、そしてその隣に男が立っていて暖炉の火に見入るようだった。彼は肩越しに振り返り、俺にもその顔がさっきの絵の年取った姿と判った。

「お前がトリップに違いないな」と彼はその顔に、奇妙に朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「リアンドラは、お前が助けに来ると固く信じていたよ。ようやく来たな。そして、ガスカードも。これは驚きだ」

「先生」デュプイは怒りを抑えこむ様子でそう言うと、一歩前に進み出た。
「何故私の姉を殺した。何故逃げた。あなたを信じていたのに」

クエンティンの笑顔が僅かに歪んだ。
「ああ、済まなかった、ガスカード。テンプラーが私に疑いの目を向け始めていたのだ、留まるわけには行かなかった。お前はまだあまりに若く、あまりに未熟だった。しかし、どうやら今のお前はそれなりの訓練を――」

俺はデュプイの頭に背後からストレートを食らわせた。クエンティンが何を言おうが、やつに聞かせてたまるものか。それに俺はずっとこいつを叩きのめしたかった。デュプイは膝から崩れ落ちると、顔を下に床へ倒れ込んだ。

「俺達にも少しくらい残してくれても良いんじゃないか、ヒーロー」とヴァリックの言うのが聞こえた。

「もしやつが目を覚ましたら、そっちは任せた」と俺は言うと、クエンティンに全注意を戻した。
「二度と言わせるな。母さんはどこだ」

クエンティンは、デュプイを冷たく一瞥すると俺に視線を戻した。彼の弟子の運命には何の関心も無いように見えた。
「お前には、私の目的など決して理解出来ぬだろうな。お前の母親は選ばれた存在、特別な存在なのだ。そして今や、更に偉大なる存在の一部となった」

俺は魔法を手から溢れさせると、拳を固く握りしめた。

クエンティンは気にも留めていないようだった。
「私は、彼女を記憶から一欠片ずつ呼び起こしていった。彼女の目、彼女の指、あの繊細な指先。そしてこの顔……ああ、彼女の顔はなんと美しい」

俺は突然、背筋に猛烈な寒気を感じた。

「君を見つけるまでに、本当に世界中を探したよ、愛しい人。この世のいかなる力も、私達を二度と引き裂くことは出来ない」

俺は走り出した。誰かが、後ろで叫ぶ声が聞こえたが、その言葉は俺の耳には届かなかった。あの椅子に座っているものが何か、俺は今すぐに知らなければいけなかった。
クエンティンの魔法が、鋭いパンチとなって俺の腹を殴りつけ、後ろの壁へと叩き付けた。俺が姿勢を立て直したときには、部屋中が揺れていた。床の下から沸き上がる骨のカラカラという音と、地獄の炎のシューシューと鳴る音、そしてクエンティンの高笑い。

彼以外、誰も声を立てる者は居なかった。

俺は掴みかかってくる骨の死体を転がって避けると立ち上がり、魔法を呼び起こして暖炉への道筋を開こうとした。クエンティンに向けて。彼の大きく広げた指先から稲妻が走り、俺はそれをかいくぐるとまた地面に転がって、骨をはじき飛ばした。ビアンカが低い唸り声を上げ、アヴェリンのリヴォルバーがガシャリと薬莢を吐き出す音が聞こえた。俺はそちらの方を見もせず、ただ頭を低く下げた。

「偉かったわね。ここに居るわ、もう大丈夫よ」
そして母さんが、慰めるように俺の両肩に腕を回した。彼女からはさっきまでパンを焼いていたような香ばしい匂いが漂っていた。

「胸くその悪い」
俺は声を詰まらせながら言うと、彼女の顔を殴りつけた。もう一度。そしてもう一度。彼女の顔の皮膚が剥がれて何か鱗めいた表面へと変貌し、彼女の髪の毛がずり落ちて消え去り、俺の額に掛かったディザイア・ディーモンの爪が露わになった。ようやくそれの姿がぐずぐずと崩れ去った時には、俺の眼に血が滴り落ちていた。

「側に居るぞ」とフェンリスが囁いた。

俺は彼の脇腹に肘打ちを叩き込み、彼は驚いて抗議した。
「何をする、トリップ!」

「君がディーモンだと思った」と俺は言うと、彼の怯えたような表情は無視して、クエンティンに視線を戻した。

フェンリスは本物で、彼が俺の背後を護って俺達はクエンティンへと部屋の中を突き進んだ。強力なメイジはアンダースを部屋の隅に追いやり、彼のシールドを破ろうと攻撃していた。

「どうすればいい?」とフェンリスがオートマチックでまた一体蘇った死体を壊しながら尋ねた。

「やつの動きを止めろ」俺は食いしばった歯の間から押し出すように言った。
「俺が、あのくそったれの笑顔を引っぺがしてやる」

フェンリスの紋様が明るく輝き、彼は突進した。クエンティンは彼が襲いかかるのを予期していたに違いなかった。あるいはアンダースの表情から気付いたたのかも知れないが、年老いたメイジは即座に振り向くと杖の先端をフェンリスに叩き付けた。不意打ちは失敗し、エルフは屈み込んで杖を避けると腕を上げて防御姿勢を取った。

俺の動きはまだ気付かれてはいなかった。無限に湧き出るように見えるシェイドの、非晶質のぶよぶよとした皮が俺の魔法で弾け飛ぶのを感じつつ、俺は連中をかいくぐってクエンティンに近づこうとした。

クエンティンは再び杖をアンダースに振り下ろし、彼がフェンリスの側に近寄るのを阻止した。

その時俺は、重い木の梁がシェイドの頭上に崩れ落ちる轟音を聞いた。
「行って!」とイザベラが叫んだ。
「こっちは大丈夫」

彼女はおそらくナイフを投げていたんだろうが、俺はそっちを見る余裕はなかった。フェンリスはクエンティン相手に健闘していた。メイジは明らかに彼のリリウムとどう対処していいか判らないようで、血の霧をまとい銃弾を避けていた。アンダースは疲れ果てて、シールドを保つのが精一杯のように見えた。彼は俺達の何人にシールドを掛けていたのだろうかと、ふと俺は思った。

俺はクエンティンの杖を狙って飛びかかった。魔法と共に拳が彼の手元にぶつかり、彼はよろめいて後ずさった。彼の魔法が俺を押し返そうと襲いかかり、俺は彼の手首を掴んでねじ上げ、手首の骨が俺の掌の中で軋んだ。

フェンリスは俺達が揉み合っている間にオートマチックに弾を詰め直し、至近距離からクエンティンの額に狙いを定めた。そして彼は引き金を引いた。

俺は一瞬、彼の顔から血と骨が吹き飛ぶ有様を想像した。しかし代わりに、フェンリスが鋭い叫び声を上げ、銃が彼の手から跳ね飛んだ。クエンティンは歯を剥き出し息を荒げていたが、あの嫌らしい笑い顔はまだ彼の顔に貼り付いていた。

彼はまさしく歪んだ正義の化身だった。彼の眼には、ほんの僅かな後悔も些かの迷いもなく、純然たる信念とねじ曲がった愛情が満ち溢れていた。

「こんちくしょう!」俺は彼の左顎にストレートを叩き込んだ。彼の頭ががくんと後ろに曲がり、血の霧が消え去った。
「このくそったれ野郎!」俺は今度は左フックで殴りつけ、彼はよろめくと床に尻餅をついた。

俺は防御の構えを取ろうともしなかった。フェンリスが俺の背後を護っているのが感じ取れたが、俺はクエンティンから眼を逸らさなかった。ただ彼を罵り、ひたすら殴り続け、俺の拳が突き刺すように痛み、彼の鼻と口から溢れる血が俺の拳から流れる血と混じりあい、やがて俺の手首に激痛が走った。

それでも、俺は止めなかった。

俺は魔法を使おうとせず、彼を拳で叩きのめした。そのお陰で、俺は助かったのかも知れない。

「トリップ?」

「母さん!」

彼女は俺の方によろめきながら歩いてきた。彼女の顔は白墨のように白く、眼は本物よりずっと暗い色で、首筋には一筋の縫い目があった。
俺は慌てて立ち上がると彼女の元へ走り、倒れ込む身体を支えた。

他の友人達も俺達の側に集まって来た。俺はアンダースの顔を見上げた。

彼は首を振った。
「僕に出来ることは何も無い。彼の魔法が、彼女の姿を留めていたんだ」

「来てくれると判ってたわ」と母さんが言った。

「何か出来ることがあるはずだ」と俺は呻いた。もちろん、あった。俺は耳元で悪魔が嬉しげに囁く声を聞いた。偽りの安堵と平穏を約束する声を。本当に簡単なことだったろう、ただその声に頷いて、時間が無くなる前にクエンティンが残していった狭間に足を一歩踏み入れるだけで良かった。

母さんは俺を見て微笑んだ。俺の頭の中で何が起きているのか、彼女は知っていたに違いない。彼女の愛した男もまたメイジだったのだから。
「だけどやらないの、そうよね?あなたは強い子だから」

「ごめん、ごめんよ」

「自由にしてくれてありがとう。もしあなたが来てくれなかったら、彼は永遠に私をここに閉じ込めるつもりだった。みんなも」
彼女は少しの間視線を俺の顔からさまよわせて、友人達を見つめていた。メリルが泣き声を上げ、他の友人が溜息を付くのが聞こえたが、俺は振り返らなかった。
「私の家族に、本当に良くしてくれて」

こんな事が起きるはずがなかった。こんな事が、有ってはいけなかった。俺は夢を見ているんだ、あるいは、安酒を過ごして幻覚を見ているんだ。そうだとも。

「またベサニーに会えるわ」と母さんは続けたが、声は次第に弱々しく、小さくなっていった。
「それとあなたの父さんにも、だけどあなたはここでひとりぼっちになってしまう」

「いつだってギャムレンがいるさ」と俺は言った。メイカー、俺はどんな酷い冗談でも言わなきゃ気が済まないようだ。

フェンリスが咳払いをした。
「彼を一人にはしない」と彼は静かに言った。

「ああ、俺達みんなで面倒を見るさ、ご安心あれ」とヴァリックが穏やかな声で約束した。

「俺は大丈夫だよ、母さん」俺はどうにか、言葉を吐き出した。

「カーヴァーに伝えて」母さんは途切れ途切れに言った。
「愛しているって。二人とも。いつだって自慢の息子だったわ」

それきり、言葉は途絶えた。俺はまた声が聞こえるのを待ち続けた、もう一度息を付くのを、だが二度とそれは聞こえなかった。

すぐ近くで、血を吐き出し咳き込むような音が聞こえた。クエンティンは、まだ息をしていた。俺はまだ泣いているわけには行かない、まだ今は。俺にはやるべきことがあった。俺は大きく、震える息を吐いた。

「始末を付けないと。警察か――」

「いや」とフェンリスが言った。俺は彼の顔を見上げた。俺達を見下ろしている彼の表情は、俺には読み取れなかった。
「俺に始末させてくれ。俺が責任を負う」
彼は振り向き、クエンティンの方へ歩み寄った。

「フェンリス、止めろ」俺はそう言うのが精一杯だった。他の誰も動かなかった。

紋様が明るく輝き、彼はメイジの側に膝を着くと素早い動きで彼の胸に拳を突き刺した。彼が手を引いたとき何かがちぎれるような音が聞こえ、そしてメイジは動かなくなった。

「エメリック」とアヴェリンが言った。
「通報しなくては」

「そうだな。デュプイは私が引き受けよう。それと君たちの何人かは、騎士団が到着する前に姿を消した方が良いだろうな」

俺はどうでも良かった。アンダースが俺の手を取ると、あちこちの骨が折れているとか何とかつぶやき、治療魔法が流れ込むのが感じられた。それからエメリックが、ヴァリックと共にメリルとアンダースを出口へ連れて行き、アヴェリンは俺に救急車を呼ぶからそこに居るようにと言い残すと電話を探しに行った。

まだ夕食の時間にもなっていなかった。

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