54.市長語る:エイリアネージに潜む犯罪者

エイリアネージの夜は実に静かだった。とりわけ、冬の終わりかけのこの季節には。全ての扉と窓は暖気を逃がさないよう固く閉じられ、暖かい季節には大きなオークの木陰で、手回しオルガンやフルートを奏でる街の音楽家も、物語を語る詩人も、今は皆室内でより少ない聴衆を相手にしていた。俺の耳にも時折フルートの音や笑い声が届いた。月がビルの影から影へと移りゆくなかに夜が更けて、それらの音も消えていった。

オークの樹の下で、サイズの合わないオーヴァーに身をつつんだエルフが一人、髪をスカーフで覆って座り、ヒュオンを待っていた。俺はもう寒くて凍えそうだったが、俺達が引きこもっているビルの隙間では、身体を温めるために煙草を吸うわけにも行かなかった。火の明かりは遠くからも目立つからな。長く退屈な時間が過ぎていったが、俺もフェンリスもこういう夜には慣れていた。

それでも今までとは、やはり違っていた。例え肩を並べて立っていても、彼は随分遠くに感じられた。

真夜中近くになって、足音が聞こえてきた。フェンリスと俺は、もたれていた壁から姿勢を正した。遠目にも何かを一心に思い詰めたような顔をした、細い体つきのエルフが一人、エルフ達が大事にしているオークの巨木がある、エイリアネージの広場へ早足で入ってきた。エルフの女性は顔を上げると立ち上がった。

「時間だ」とヒュオンが言った。
「来るんだ。今すぐ行かなくては」と彼は肩越しに振り返りながら言った。

女性は数歩後ずさると頭を振った。

「何をしている、早く来い!」
彼は彼女の方に手を伸ばした。その時、俺は彼の左手に握られた鋭い輝きを見た。

「危ない!」と俺は叫ぶと、隠れ場所から飛び出して揉み合うエルフ二人の方へと走った。
「メリル!」

メリルが自由になる方の手を振り上げ、スカーフが髪からハラリと落ちた。彼女の指の先端からヒュオンに向かって雷光が走り、彼は大きく叫ぶと手で眼を覆った。

まだナイフが握られたままの手で。

ヒュオンの耳から頬にかけての皮膚をナイフがざっくりと切り裂いた。彼は驚いたようだったが、やがて奇妙にギラギラとした光が彼の眼に浮かんだ。彼はメリルを掴んだ手も、今や血に染まったナイフも離そうとしなかった。
俺は彼の顔から立ち上る血煙を見て魔法を呼び起こしたが、しかしそれでどうするべきか、よく分からなかった。

一方メリルは、どうすべきか良く心得ていた。

彼女は膝を引くと、男の急所めがけ、一切のためらい無しに鋭く蹴り上げた。ヒュオンの上げた悲鳴に俺は思わずたじろいだ。彼はナイフを落とし、彼のもっと大事な物を抱えて地面に倒れ込み、丸くなって実に不幸そうなうめき声を上げていた。

メリルは後ろに下がって俺達の方を見た。
「それでどうするの?」

俺は溜息を付いた。
「彼を縛りあげて、ギャロウズに連れて行くしかないだろうな。今の状態の彼を放っておく訳にも行くまい。君を殺そうとしたんだ」

「彼女を生け贄にしようとしたのだ」とフェンリスが顔を歪めて言った。

ヒュオンの呻き声が止まった。そして代わりに、何かぶくぶく、ぴくぴくと言うような曰く言い難い音が彼の身体から聞こえてきた。泡が吹き出すような、ざらついた音。彼がよろめきながら立ち上がった時、彼の頬に開いた傷が、まるでもう一つの口のように見えた。それが笑っていることに、やがて俺は気付いた。

「メイカーズ・ブレス」

「どうでもいい」とヒュオンが呟いた。
「あの女は必要なかった。これだけで充分だ」
血が異常な速さで顔の傷から噴き出した。そして周りの皮膚が膨れ、めくれ上がり、やがて彼の声は意味の取れない空気が擦れる音に変わった。暗赤色に輝く血が滴り落ち、酸に浸したように彼の全身の肌を爛れさせていった。

フェンリスの銃声が響いた。一発、そしてもう一発。俺は弾丸が魔法の輝きの中心に穴を穿ったのを見たが、ヒュオン自身に届いたようには見えなかった。

「ヒュオン!駄目!」
俺達はニサに家の中に隠れているよう言いつけていたが、銃声に驚いた彼女が飛び出して来て叫んだ。

かつてヒュオンだった物体が彼女の方に振り向き、今や手の平だけが見える腕をその方へと伸ばした。

フェンリスの紋様が輝き、彼はニサを庇って彼女の夫との間に飛び込んだ。

「やるしかないわね」とメリルが言って、ベンチからパラソル剣を取り上げた。

「判ってる」と俺は言った。「判ってるさ」

俺自身は、今までアボミネーションを自分の目で見たことが無かった。紛い物の人形を映画で見たことがあるだけだ。本物は、随分と違っていた。強大な力の渦に押し流され、姿を消していくヒュオンの存在が俺にも感じられた。そしてほとんど味わえるほどの強烈な血の臭い。

フェンリスがニサから振り向くと、肩越しに銃を発射した。ヒュオンはそれでもよろめくように、フェンリスの背後にうずくまるニサの方へと近づいた。

俺は魔法を呼び起こし、空気のパンチをヒュオンに食らわせて彼を吹き飛ばした。メリルは俺の背後からパラソル剣を閃かせた。彼女が自分の手を切っていないことに俺は気が付いた。こうも他人の血が溢れている中では、あまりに危険だったろう。

メリルが大きく叫び、ヒュオンが彼女の方に投げ打った炎の矢を危ないところで転がって避けた。焦げた木の葉が俺達の頭上をちりちりと舞った。俺は彼の背後に回り込むと飛びかかり、彼を取り巻く魔法の渦を物理的に押しのけて首の周りに腕を回すと、後頭部にストレートを食らわせた。しかしまるで岩山を叩いたかのようで、彼はぴくりとも動かなかった。

あり得ないことに、彼の両腕が後ろ向きに曲がって両掌が俺の肩を掴んだ。俺は確かに、彼の腕の骨が折れる音を聞いたと思う。俺は彼を蹴飛ばして後ろに飛び下がった。彼の触れた所に、奇妙に痺れるような感覚が残っていた。

そしてメリルのパラソルの先端が、彼の喉元から数インチ突き出した。彼は身を大きく震わせ、俺達の眼の前で崩れ落ちて、赤い煙が掻き消すように消えていった。

「ヒュオン」

フェンリスが一歩横に下がり、ニサを彼の夫だったものの側へと行かせた。

「大丈夫か?」とフェンリスが俺に聞いた。

「何かちくちくするだけだ。君は?」

「問題ない。この紋様も、たまには役に立つようだ」

「済まなかった」と俺はニサに声を掛けた。

「助けようとして下さっただけで、充分です」と彼女は虚ろな声で言った。
「だけどどうして、ヒュオンはけして、力の強いメイジでは無かったのに。だからテンプラーも、彼を時々外に出してくれたんです」

「ブラッド・マジックは本人よりもずっと強大な力を与えるのよ」とメリルが言った。
「少なくとも、最初はそういうように感じられるものなの」

「テンプラーが彼を閉じ込めなければ、そんなことしなくても済んだのに!」

彼女の言葉には一理あった。俺とフェンリスでヒュオンの遺体をニサの家まで運ぶと、後はエルフ達に始末を任せることにして、俺達は深夜のエイリアネージから立ち去った。
数発の銃声と叫び声の後でも、警察の姿はどこにも見られなかった。アヴェリン自らがパトロールに出ているので無い限り、日が暮れてから警察がここに来る可能性はほとんどゼロだろう。

「あの女性は、君がメイジだと知ったことになる」
とフェンリスが歩き去りながら小声で言った。

「俺とアリショクの試合を見たエルフで、物の分かったやつはみんな知ってるだろうな。どうすれば良いと思う?」と俺は聞いた。

「俺には判らん」とフェンリスが顔をしかめた。

「とにかく、ヒュオンが問題を起こすことはもう無いと、オシノには報告するか」
俺は溜息をついた。

メリルが俺の方を見た。俺達はたった今し方、俺達に待ち受ける運命の一つを見たのだった。俺達が魔法を使うたびに頭上に掛かる、暗い雲の影を。

「一杯飲んでかない?」とメリルが提案した。
「ハングド・マンはまだ開いてるでしょう?」

家に帰っても眠れそうに無かったから、俺も賛成した。エイリアネージを通り過ぎて下町へ続く階段を登り、俺のアパートの前を通り過ぎればハングド・マンが見えてくるはずだった。しかし、俺達がそこに入ることはなかった。

アンダースがアパートの前でイライラと歩き回っていた。

「戻ってきたか」と彼は俺達に駆け寄りながら言った。
「トリップ、君の手を借りたいんだ」

「アンダース――」

「いや、地下組織とは関係のない話なんだ」と彼は手を振っていった。
「もっとも、メイジには関係するけれど」

「ひょっとすると、エヴリナか?」と俺は聞いてみた。

アンダースはぽかんと口を開けた。
「何だって君が彼女を知っているんだ?」

「君が思うよりも彼女は有名人でね。案内しながら、君の知ってることを話してくれ」

アンダースはエヴリナのことはしばらく前から知っていた。ダークタウンに潜むアポステイトが二人居れば、遅かれ早かれどこかで接触しただろう。彼女も俺達と同じようにフェラルデンからの難民として逃れてきていて、ダークタウンで大勢の戦争孤児の面倒を見ていた。
俺はアンダースには、彼女が孤児の中でメイジだと判った子供を一人か二人、密かにサークルへ引き渡していたことは言わないでおいた。テンプラーが彼女自身とその行動に眼をつぶっていたのは、そのお陰だった。

アンダースは彼女の子供達を時折手当していたが、その日の午前中、二人の子供が診療所の扉を叩いた。
「ウォルターとクリケット、彼女が面倒を見ている子供達だけど、エヴリナが病気だから診てくれと頼みに来たんだ。それで僕は鞄を持って彼女の所に行った。だけど彼女は弱っている訳じゃなくて、気が狂ったように激怒していた。他の子供達は皆、何か拙いことが起きそうだと予感して逃げてしまっていてね。それを見たエヴリナは、街を引き裂いてでも彼らを探し出すと言ったんだ。全く彼女らしくない」とアンダースはしかめっ面をした。

「それから彼女は僕を叩き出してね。僕一人ではきつそうだから、君の手を借りたかった」

「すると彼女はメイジ地下組織には関わってなかったのか?」と俺は聞いた。

「いや。いつも彼女は子供達の面倒を見る方がずっと大事だと言って、活動には関わろうとはしなかった。だけど最近、彼女はもうカークウォールに居ては安全ではないと言っていた。街から離れたかったようだが、子供達を置いていくことは出来ないし、かといって全部連れて行くだけの金も無かった」とアンダースは言って溜息をついた。
「今の調子だと、メイジだけの話では無くなるぞ、トリップ。メレディスはこの街全体を支配しようとしている」

「物事は順番に片付けようぜ、アンダース」と俺は、俺達がその晩どこで何をしていたかを彼に話した。アンダースはひどく落ち込み腹を立てた様子だった。

「それこそまさにメレディスが望むことだ。またメイジへの締め付けが厳しくなり、また誰かが爆発する。だけどトリップ、本当に君に怪我が無くて良かった」

ウォルターとクリケットは、アンダースの診療所にはいなかった。アンダースは溜息を付いた。

「あの子達は自分の行きたいところへ行くからね。どこか安全な場所を見つけていれば良いと思うけれど。エヴリナの家はこっちだ」

ダークタウンのスラム街はどこも同じような物だったが、エヴリナの家の壁はとりわけ、子供が描いた絵が一面に覆っていた。玄関の扉には、『ジェイソンは臭い』『臭いのはお前』と言った落書き、あるいは九九の練習がびっしりとチョークで書かれていた。

「まあ、ひどい」とメリルが呆れたように言った。

アンダースが扉をノックした。
「エヴリナ?」と彼は声を高めた。
「僕だ。アンダースだよ。気分は良くなったか?入ってもいいか?友達を連れてきた、子供達の面倒を見てくれるよ」

返事は無かった。
俺があるいは蹴り開けて押し入るべきかと思った時、扉が紙一枚分だけ開き、不安そうな表情をした少年が顔を覗かせた。

アンダースは彼に笑いかけた。
「やあ、ウォルター。エヴリナに会えるかな?彼女の具合はどう?」

少年はさらに少しだけ扉を開いたが、背後から何かの物音を聞いて突然怯えた表情になった。

「俺ら、戻ってきたんだけど」とウォルターが切迫した声でささやいた。
「そうしたら、姉ちゃんの気分が良くなるかなって」と、少し年下の少年が言った。
「だけど姉ちゃん、俺ら逃げ出したから罰を与えるって――」
誰かが後ろの部屋に入ってきて、彼は怯えたように口をつぐんだ。

「おや、おや。規則は知ってるね?知らないやつに口を聞いたら駄目だって、知ってるだろう?」

アンダースは咳払いをした。
「いいんだ、エヴリナ。君に会いに来たんだから」

「それで後ろの連中はなんだい?余所者をウチに連れてきやがったね。汚いテンプラーの臭いがぷんぷんするよ!もうあたしの子供達を連れて行かせるもんか!」と彼女は声を荒げた。

少年達はすがるような目つきで俺達を見た。アンダースは一歩下がって「逃げろ」と彼らに言った。彼らは脱兎のごとく逃げだし、俺は胸を撫で下ろした。

暗すぎて扉の向こうの部屋の様子はうかがえなかったが、何かシューシューと、動物のような唸り声が聞こえた。ヒューマンの喉から出る音ではなかった。

「子供らを連れて行かせるもんが!」
かろうじて俺に聞き取れたのは、その言葉だけだった。アンダースが突然扉の前から突き飛ばされて俺達の方にぶつかり、俺は思わずよろめいた。

「彼女は負けたんだ」と彼は食いしばった歯の間から言った。

「メイカー」俺はそう言って両手を広げたが、彼が答えるはずもなかった。地上のことは俺達が片を付けるしかない。

彼女の怒りは激烈に、そして急速に燃え尽きた。彼女は俺達4人へ攻撃するのと同じかそれ以上、めったやたらに壁や、天井や、床に憤怒の炎を投げつけた。
指と絵の具で床面に描かれたいたずら書きも、壁にきちんとピンで留められていた家族の絵も燃え上がり、ゴムボールは溶けてぼろ布で作られた人形の上にへばり付き、そして共に灰になった。俺はまた、あのピリピリする感覚を指先に感じていた。

幸いなことに、俺達がその部屋から表に出た時には、子供達の姿はどこにも見あたらなかった。
「子供らはどこに行ったんだろう?」と俺はアンダースに聞いた。

「彼らはダークタウンで生きる子供だ。そこかしこに隠れ家を持っている。エヴリナの家は、その中の一つだったに過ぎない」
アンダースはうなだれた。
「だけど、安全な隠れ家だった。彼女は食事や寝るところの代わりに彼らを働かせたり、子供が稼いだ金を取り上げようとはしなかった。ダークタウンは彼女が居なくなって、更に暗くなった」

「ドゥ・ロンセを見つけるのが嫌になってきたな」と俺はぼやいた。

「ドゥ・ロンセって誰だ?」とアンダースが不思議そうに聞いた。

「俺はたまたま運悪く、気違いメイジを続け様に見つけた訳じゃなくてね。これは仕事なんだ。オシノはこのメイジ達が、何か拙いことになっていると気付いていた」
俺にはそれ以外ほとんど何も判らなかったし、残念ながら俺の家から彼に直接電話を掛けて、話を聞くわけにも行かなかった。

「君はサークルのために働いているのか?テンプラーのために?」

「違う。俺はオシノから頼まれてやってる」と俺は鋭く答えた。
「メレディスに手を貸すつもりは無い。彼から様子を探ってくれと頼まれただけだ」

「これが偶然とは思えないな」
彼女の部屋の調査を一通り終えたフェンリスが言った。

「俺もそう思う」と俺は言った。
「つまり、ドゥ・ロンセも至急見つけた方が良いって訳だ。何か本当に拙いことになっているかも知れない」

「彼を見つけたら、どうする気だ?」とアンダースが聞いた。

「正直に言えばな、アンダース、サークルにさっさと戻らせるさ。今夜のカークウォールは、逃亡メイジに良い夜じゃない」

「あるいは、どんなメイジにもね」とメリルが呟いた。

アンダースは苦い顔をして言った。
「僕は診療所に戻る。ひょっとしたら子供達が逃げてきているかも知れないし。僕はオシノの計画に、手を貸すつもりは無い」

「アンダース」

彼はただ頭を振ると、背を向けて歩み去った。

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