第2章 旅路

彼にはその会話がただの夢だとしか思えなかったが、しかしフェンリエルはそれから度々彼の夢に登場するようになった。毎晩ではないにせよ、数日に一度は必ず、フェンリスは夢の中にその若者が座って、彼を見つめている姿を見つけた。そしてフェンリエルがそこにいる時には、ディーモン達は姿を消した。

「やつらがお前を怖がっているのは何故だ?」
ある夜フェンリスは、影達がまるで引き波のように静かに、コソコソと引き下がっていくのを眺めながら尋ねた。

「マラサリが、僕のことを何だと言っていたか覚えてる?」

「ソミアリだったか」
しばらく考えて、フェンリスは言った。

「そう。真のドリーマーだ。僕は他人の夢の中に入り込めるだけじゃなく、自由に中身を変えることが出来る。夢はフェイドの一部なんだ。だから僕は、フェイドも形作れる。やつらを殺せるというわけさ。連中が造りだすものを、無かったことに出来る。テヴィンターのマジスターが君を恐れるように、やつらは僕を怖がっているわけ」

フェンリスは鼻を鳴らして、フェンリエルに疑わしげな視線を向けた。
「それで俺の夢も弄っているのか?」

「いいや。それはやらないように気をつけているんだ。つまり……波紋が広がるみたいに、余計な関心を引くかも知れないから」

フェンリスは頷いた。彼は浜辺に座っていた――そこの地面は、何か砂のように見える物に覆われ、なだらかな斜面が、やはり水のような、しかし水ではない何かに静かに覆われた入り江へ繋がっていた。その光景は、彼がセヘロンで一度、フォグ・ウォーリアーズと共に過ごした短い期間に見た入り江を思い出させたが、無論同じではなかった。例えば彼らの側に立つ木の姿は、まるきり異なっていた。

フェンリエルが彼の側へ来ると隣に腰を下ろし、砂が彼の足下で静かに崩れた。

「最初に現れた時に」とフェンリスが唐突に言った。
「お前は、周囲のディーモンを俺が引きつけて、呼び寄せていると言ったな。どうして判った?」

フェンリエルは微笑んだ。
「言うほど単純な話じゃなくてね。君はウィスプを知ってるかな?」

フェンリスは頷いた。
「ああ、メイジが召還する、辺りをふわふわと飛び交う小さな光の粒だ」

「そう、それ。彼らはフェイドの生き物でね……一種の精霊で、本当に小さくて弱い、ごく単純な生き物だけど、互いに意思疎通が出来るんだ。ちょっとだけ。言葉を使う訳じゃなくて、感覚や、絵で。彼らは好奇心が強く、面白い物や、明るく光る物が好きで……それでフェイドの至る所に行っている。
僕のことも好きなようでね、僕の頼みを聞いて何かやってくれることもあるんだ――例えば、別のドリーマーを捜すとか。それにいつも、新しく見た物を僕に教えてくれる。彼らがこのディーモンが集まってる様子を、しばらく前から絵として僕に見せてくれた。それで気になって、一体何が起きているのか見に来たというわけさ」

「そして俺を見つけた」

「そう。そして君を見つけた」

「すると、俺を捜していたと言う訳では無いのか?」

「違う。だけどもしもっと早く気付いていたら、そうしたかも。もしマジスター達が僕の尻尾を捕まえたとしたら、僕を護る力のある人々というのは、本当に少ないから」

「やつらはお前を捕らえようとしているのか?」

「判らない」とフェンリエルは答えて、顔をしかめた。
「僕はもの凄く用心して、僕の本当の姿を隠してきた。だけどそれでも幾度か、連中の注意を引いたんじゃないかと気になった時があるんだ。誰もが僕の力に気付く訳じゃないけど、少なくとも、僕が――二世紀ぶりの真のドリーマーが――存在していると、誰かは気付いてるだろう。幾度か、僕を引っかけるための罠が仕掛けられていた事もあった、まあ僕はちゃんと気が付いたから避けられたけど」
とフェンリエルは言うと、若々しい顔にどこか誇らしげな笑顔を浮かべたが、すぐにそれは冷静な表情に代わった。
「だけどいつも、いつか、どこかで引っかかりはしないかと思ってる。それが心配なんだ。連中の誰かが既に僕を見張っていて、真の姿を現すのを待っている、そんな気がして」

フェンリスは鼻を鳴らした。
「それでここの方が安全だと?」

「ここよりはね、とにかく。テヴィンターから遠ければ遠いほど良い」

「それは確かだな」とフェンリスは頷いた。


次にフェンリエルが彼の夢に現れた時、青年の服装は異なっていた。もう簡素な、しかし上等の布地で造られたサークルの制服ではなく、古びたシャツと長ズボンを身にまとい、頭に巻いて彼の髪を――汚れてぼさぼさの――まとめているボロ布が顔に掛かっていた。テヴィンターのどこにでも居る、貧しい自由民の姿だった。

「旅を始めたからね」とフェンリエルはその理由を聞かれて答えた。
「こういう服にした方が、余計な注意を引かないから」

フェンリスには青年の旅路を、彼の服装の変化からだけでも追いかける事が出来た。古びたシャツはすぐに消え、キャンバス地のレギンスと腰に巻いた縄だけの、裸足の姿に変わった。船乗りの姿だった。フェンリエルの白い肌は真っ赤に焼けてひび割れ、剥がれ、やがて裸の上半身にはしっかりとした筋肉が付き、浅黒く日に焼けた肌にそばかすが浮いた。

フェンリスの夢の中で――かつての旧主人の屋敷の、天井の穴から雪片が舞い散る、寒く暗い部屋で――穴から射し込む冷たい月明かりの下に座っている、真っ赤に焼けて皮の剥がれた鼻をした彼は、随分と場違いな姿に見えた。

その内に、彼はまた地上に戻った。アンティーヴァのどこかだとフェンリスは思った。彼は紐で編んだサンダルと色とりどりのシャツと、薄い綿生地のズボンを身につけていた。彼の衣服は、夢に現れるたびに異なっていた。大抵は庶民の姿で、貧しい巡礼者や、精々旅商人の様な身なりをしていた。一度だけ、三日続けて彼がフェンリスの夢に登場した時、彼は裕福な商人の身なりになった。それからまた、船乗りの服装に替わった。

フェンリエルは直接聞かれない限り、彼の旅路について話すことはなかったが、彼はいつも不安げで、時には怯えてさえ見え、安らかな表情を見せる時は希だった。メイジでありながら旅を続けるのは、いつも危険が伴った。テンプラー達は常に眼を光らせていたし、とりわけカークウォールのチャントリーの崩壊と、それに続く数年の戦乱の後では、常にもまして警戒していた。

旅の話では無くとも、彼らはフェンリスの夢の中で話をした。フェンリエルがテヴィンターで住んでいた場所の事や、そこで何をしていたか、どうやって自分が強力なメイジであることを明かさずに、生計の糧を得たか。彼が出会った人々や見聞きした事柄について。彼が考え、学んだことについて。

フェンリスは彼との会話に、心落ち着く物を感じていた。彼の存在がディーモン達を遠ざけるからというだけでは無く、アンダースと違って彼はメイジに関わる事柄を、フェンリスの気を逆立てることなく話をするコツを掴んでいるようだった。恐らくそれは、フェンリエルが彼同様にマジスター達が疫病神であると認め、かつてアンダースが単に自由メイジの社会として見たテヴィンターの、厚化粧の裏に潜む、病んだ陰鬱な素顔を知っていたからだろう。


フェンリエルが度々フェンリスの夢の中に現れる様になった後、彼の夜が安らかな物となったのとは裏腹に、彼の昼の状況は確実に悪化していった。もう身体中を走る痛みは消えることなく、ただ強弱の違いがあるだけだった。彼はベッドに横たわったままとなり、身体を起こして座ることさえ、もはや助け無しでは出来なかった。アヴェリンとドニックは些かも迷惑がること無く、交代で彼に食事を運び、用便を手伝い、風呂に入れて着替えをさせた。
彼はもう、そのような助けを必要とすることに恥を感じる段階は通り過ぎていた。彼を丁寧に、愛情を込めて扱い、世話をしてくれる友人を得たことに、ただ感謝するだけだった。

既にフェンリスは、彼がディーモンを通り抜けさせる導管となり得る危険性について、二人に警告していた。だがその考えを彼がどこから導き出したかについては、彼は語らなかった。
もし彼が夢の中で見たと言えば、恐らくアヴェリンはその情報を信用しないだろうと思ったためでもあった。ドニックは信じるかも知れないが……だが、その際の苦痛があまりに大きすぎ、彼が彼自身としての姿を喪う前に、慈悲の行いとして最後の一撃を与えて貰う。彼がただそれだけを願っていると、彼らには信じておいて貰った方が良かっただろう。

彼はフェンリエルについては彼らには語らなかった。メイジの提案も、彼がカークウォールに来る途中であることも、言わずにおいた。今となっては果たしてフェンリエルが、終わりの時が来る前にたどり着くことが出来るかさえ、彼には確信が持てなかった。何しろ、遠い道程なのだから。

そしてその時が来て、彼が二人に最後の助けを求める必要が生じた時に……彼らに僅かでも、ためらう余地を与えてはならなかった。はかない望みに縋り、為すべき事をたとえ一晩でも先延ばしにしてはならなかった。

彼の眠りは、今では浅く途切れ途切れとなっていた。夢の世界へ訪れるのも短く、希になり、その中でさえ、彼は衰えつつある身体の苦痛を感じていた。そしてフェンリエルの眼には心配の色が濃くなっていった。例えフェンリスが語らなくとも、メイジには判っていた。

そして、ある朝――ごく短い夢の中で、若いメイジは明るい笑顔を浮かべた。彼の背後にちらりと、明け方の満ち潮に乗って狭い海峡の崖をくぐり抜け、カークウォール港へと進む船の甲板が見えた。

「着いたよ」とフェンリエルは彼に告げた。

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