第3章 説得

「今日、俺を訪ねて来る者が居るはずだ」
階下から持って来た朝食――甘く、たっぷりクリームとナツメグの入ったポリッジと、温かなミルクティー――を彼に食べさせようと、テキパキと彼の頭を持ち上げて枕を背中にたくし込み、ナプキンを襟元に差し込んでいるアヴェリンに、彼はそう告げた。

「本当?誰が来るというの?」と彼女は訝しげに片方の眉を上げて尋ねた。

「友人だ」と彼は、彼女の声に潜む疑わしげな響きに僅かに苛立ちを感じながら答えた。まるで彼がデタラメを言っているか、あるいは更に悪いことに、空想を信じ込んでいると彼女が思っているかのように。
「ヒューマンで、若い男だ――明るい金髪で、今は随分長くなっているだろう。明るい金色の眼と、日焼けした肌。恐らく彼は、君を訪ねてキープへ行くはずだ。とにかく、君の執務室が一番見つけやすいだろうから」

「それで、その友達に名前はあるの?」と彼女は、ポリッジの最初の一口をフェンリスの口元に運びながら尋ねた。

「フェンリエル」と彼は、ポリッジが口に入れられる前にどうにか言い終えた。

彼女は匙を持った手を止め、顔を微かにしかめた。
「何だか聞き覚えがあるわね?」

「ホークが助けた内の一人だ、もう何年も前になる。君はそこには居なかったと思うが」と彼は言い、微かな笑みを頬に浮かべた。
「俺が思い出す限り、当時の君はどうにかしてドニックの気持ちを引こうと、てんてこ舞いしていたからな。銅製のマリーゴールドだとか、色々」

アヴェリンは顔を赤らめ、それから声を上げて笑い出すと、更に数匙ポリッジを彼に食べさせた。
「判ったわ。するとそのフェンリエルが、あなたを捜して私を訪ねて来るのね。だけどどうして、あなたを見つけるのに私に会いに来るの?あなたはここへ、ヴァリックに会いに来たのだと思ったけど」

「俺が君のところに居ると、彼は知っている」と彼は答えて、ただ何故フェンリエルがそのことを知っているかについては何も言わなかった。あるいは、どうして彼がフェンリエルがその日、ここに来ることを知っているかも。
「とにかく……俺は出来る限り早く、彼に会わなくては行けない」

彼女が彼を見る視線は……まるで彼が『俺が死ぬ前に』と言っていると思っているようだった。もっともそれは、あながち的外れでは無いと彼は思わざるを得なかった。彼女の考えと彼の意図が全く同じではなかったにせよ。

「判ったわ」と彼女は静かに繰り返した。
「彼が現れ次第、ここに連れて来させましょう。本当に今日で間違いないのね?」

「ああ。今朝の船で到着した」と彼は言った。

彼女はそれを聞いて、少しばかり混乱した様子で難しい顔つきになったが、しかしそれ以上何も問わず、ただ朝食の残りを彼に食べさせると、忙しい一日が始まる前の身支度に階下へ降りていった。

彼が自らの考えだけを友にしてベッドに横たわるうちに、一日がまるでカタツムリのようにのろのろと過ぎて行った。フェンリエルが波止場に降り立ってから、アヴェリンを訪ねてキープに着くまで、果たしてどのくらい掛かるだろうかと、彼は幾度も考えた。それから彼女が彼をここに連れてくるまで。彼は脳裏に幾度も、その道のりを思い描いた。

波止場からロータウンまでの長い曲がりくねった道。ロータウンを通り抜け、あの長い階段をハイタウンへと登る。長く、果てしない階段――もう何年も前のこととは言え、彼の脚はその長さを覚えていた――それからハイタウンの市場を抜けて、また階段、そしてドワーフ広場をかすめて角を曲がると、ホークの屋敷があって……

窓から差し込む陽射しの角度が、日は既に天空高い事を彼に告げていた。ほとんど正午近くになって、彼はついに玄関扉が開き、また閉じられる微かな音を聞いた。それから、階段を登る複数の足音。部屋の扉が開いた時、彼は痛む身体を押して頭を持ち上げ、扉の方を向いた。微かに戸惑った表情を浮かべたアヴェリンと、ドニック。そして彼らの後ろに……

彼の姿は、夢の中とはいささか違っていて、例えばそれほど中性的な風貌では無かった。長い髪はべったりと埃と塩の結晶にまみれ、もじゃもじゃのまま後ろでくくられていて、彼の目の下には疲労のあまり黒々とした隈が浮いていた。彼はもう長い間、ろくに食べていないように見えた。頬は痩せこけ、袖口から覗く手や足首には骨が浮いて、船乗りのきつい仕事で着いた筋肉がありありと見て取れた。彼の身体のどこにも、一欠片も余分な肉は無いようだった。

しかし日に焼けてソバカスを浮かべた鼻梁と頬はそのままで、フェンリスと目を合わせた彼は疲れた笑顔を浮かべた。

「フェンリエル」とフェンリスは、声に深い安堵の響きを滲ませて言った。
「来たか」

フェンリエルの笑みは大きく広がった。
「来ると言ったよ」


フェンリエルがフェンリスの身体を調べる間、アヴェリンは不安と疑念に満ちた厳しい目で、彼らの側をうろうろしていた。メイジはフェンリスの目の奥底を覗き込み、唇をめくって彼の歯と歯茎を近々と観察し、それから片手を取って優しく指を曲げ伸ばしさせ、注意深く片肘を持ち上げては関節の動きと筋肉の反応を見た。
彼は指を紋様の線に沿って撫で下ろし、関節の周りをほとんど痛いほど力強く指で押し、痩せ細った彼の上腕部の筋肉を探って確かめた。それから彼は腕を降ろし、むしろ職業的な態度でフェンリスの身体中の至る所に触れた――首筋で脈に触れ、腹部を何カ所か押し、それから一言詫びの言葉を呟くと、彼は手をフェンリスの寝間着の下に差し込んで内股を触り、一瞬彼の睾丸を握った。彼らは同じくらい、当惑して顔を赤らめた。アヴェリンは驚いた声を上げたが、しかし何も言わなかった。

そして最後に、フェンリエルはベッドの足元に移動するとシーツをまくり上げてフェンリスの足を出した。彼は足の紋様をひときわ注意深く調べ、微かに顔をしかめながら足首を曲げ伸ばしして、片側の足裏を指の爪で押し、フェンリスがその圧力に反射的にピクリと足を動かしたのを見て、短い笑みを浮かべた。

フェンリスはそれら全てを黙って耐えていた。触れられるのは好きでは無かったが、メイジが彼の健康状態を把握し、どれ程彼の身体が衰えているかを正確に知る上でこれら全てが必要不可欠であると、彼には判っていた。

フェンリエルはシーツを元通りに直し、フェンリスを居心地の良い姿勢に戻してシーツのシワを伸ばした後、ベッドの隅に腰を降ろした。

「それで?」とフェンリスが尋ねた。

「まだ遅すぎることは無い、もしそれが君の聞きたいことならね。少しばかり永久的な損傷が残るかも知れないけど、今の時点で起きている不具合のほとんどは治せると思う。とにかく、最悪の現象を治す方法は判る、と僕は思って……」

思ってる、ですって?」とアヴェリンが口を挟んだ。
「やった事が無いということ?」

フェンリエルは、平静な表情で振り向くと彼女の顔を見上げた。
「フェンリスの身体は特別製だ。それ故の問題ということさ。僕は、リリウムを埋め込まれた戦士に関する記録を、サークルで全て読んだ――今まで残された貴重な古代の伝承から、もっとずっと最近のダナリアスのメモ書きまで――それと、リリウムの慢性中毒に関する数多くの記録と、その症状に対して、何が出来て何が出来ないかも。僕に治せるところがあるのは間違い無い、それ以外の事については…」
彼は言葉を切ると、疲れたように肩を竦めた。
「とにかく、やってみるしか無いんだ。治るかも知れないし、治らないかも知れない」

「いずれにせよ、今より酷くはならない」とフェンリスは言った。
「アヴェリン……もし彼が試さなかったら、俺は死ぬ。試したとしても……やはり死ぬかも知れない。だがあるいは、生きられるかも知れない。俺は、彼にやらせてみたい」

彼女は顔をしかめてフェンリエルを見つめていたが、それからドニックに視線を移した。彼は扉の側で壁にもたれ掛かって、両腕を胸の前で組み、三人を等分に見つめていた。彼はそれから真っ直ぐに立つと、肩を竦めた。

「実に簡潔だな。アヴェリン、君にも判っているはずだ、フェンリスの言うとおりだと。他にどんなチャンスがある?俺や君の力の及ぶ範囲の事柄じゃあ無いんだ、これは」
彼はそう指摘すると、ため息を着いた。
「俺は台所に行って昼飯をこしらえるよ。みんな、何か食べなきゃならんからな」と言って、彼へはフェンリエルを見つめた。
「もし俺と一緒に来るなら、身体を洗って着替えの出来る場所を案内するよ」

フェンリエルは疲れた顔に笑みを浮かべて立ち上がった。
「ありがとう」と彼は言って、ぼろぼろのずだ袋を床から取り上げると、ドニックの後について部屋を出て行った。

アヴェリンはベッドの隅に軽く腰を掛けると、フェンリスの痩せ細った手を取った。
「フェンリス、あなた本気なの?彼はメイジよ!」

フェンリスは鼻を鳴らした。
「そうだ。だが、他に誰が俺を救える?俺の身体は、薬草や骨接ぎで治せるものでは無いんだ、アヴェリン。それに……俺は彼を信じている。少なくとも、彼が俺を治そうと全力を尽くすだろうとな。彼は俺の助けを得たいと思っている、死んでいては、それも無理な話だ」

アヴェリンは手の中のフェンリスの手を見つめて、唇を引き結んだ。
「判ったわ」と彼女は渋々言った。
「もしあなたが、そう信じるなら」

「信じられるものなど、もうあまり残っていないな」とフェンリスは言った。
「そう、俺が死にかけているという事以外では。それと、これ以外に俺を救う手立ては無さそうだと言うこと。それと友人に関しては、俺はずっと幸運に恵まれていると言う事――少なくとも、カークウォールに来てからは、ずっと」と彼は言って、彼女の手を握りしめた。

彼女は――フェンリスは今まで一度も彼女がそうする所を見たことが無かった――少しばかり泣いた。彼はただ黙って、手を取られたまま彼女が泣き止むのを待った。
「判った」と彼女はようやく言って、大きく鼻をすすり上げると眼の隅をバンダナの端でこすった。
「やってみるしか無いわね。上手く行くと良いんだけど!」

「俺もそう思う」とフェンリスは彼女に言うと、微笑んだ。

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