第5章 旧知

「一番心配なのは、邪魔が入ることだ」
次の日、フェンリスの部屋でアヴェリンが彼に夕食を食べさせている時に、ベッドの足下に脚を組んで座ったフェンリエルが言った。
「この魔法は、とても微妙なバランス調整が必要だから。火の玉を造って投げつけるような訳には行かない。もっとも、僕は元素魔法は不得意だけど」と言って若いメイジは肩を竦めた。
「ほとんどの課程がフェイドの中で進むことになるから、僕の意識も半ば以上、そこに飛んでいる。中断されるととても危険だし、一旦中断されたら、もう一度試してみるまでに、最低でも数日以上休息を取らないといけなくなるだろう。もし僕達双方が、最初の失敗を生き延びたとしての話だよ」

アヴェリンはフェンリエルに鋭い視線を向けると、唇を固く引き結んだ。恐らく――フェンリスの意識は今だはっきりしていたが、身体の状態は間違いなく日々悪化していた。彼が最初の失敗を生き延びる可能性が極めて低いというのは、言葉にするまでも無かった。最初で成功するか、あるいは死ぬかのいずれかだった。

「何日も間、僕がここで魔法を使っている事を隠し通すのはほとんど不可能だろうね」とフェンリエルはしばらくして、静かに言った。
「ヴェイルに大きな揺らぎを与えるから。誰かが気付くだろう、例えば、サークル・メイジとか」

アヴェリンは頷いた。
「そのことはもう考えてあるわ。私はここのテンプラー達と縁が無い訳じゃないの――恩を売ったこともあるし、借りたこともある、お互いにね。ギャロウズにいる商人から、リリウムポーションや、特別な薬草を買うためにいくつか手配を掛けたわ。それと今日、ドニックが訪問しに行っている」

「誰を?」とフェンリスは、柔らかなチーズを塗ったパンを飲み込む間に聞いた。

「カレン騎士団長よ。彼は私に恩があるから。それに私を信用している、もっとも無条件では無いでしょうけどね。あるいは後でお返しを期待されているかも知れないけど、それは私と彼との間のこと」

フェンリスはゆっくりと頷いて、フェンリエルを見た。
「彼は良い男だ」と彼はメイジに言った。
「もし彼が邪魔は入らないと約束してくれるなら、間違いはないだろう」

フェンリエルは顔をしかめた。
「テンプラーが?」と彼は疑わしげに言ったが、一つ溜息を付いた。
「気に入らなくても、他に方法もないようだね、どうやら」

「そう言うこと」とアヴェリンも同意した。
「とにかく、明日にはあなたが言ったリリウムポーションも薬草も全て手配出来るはず。他に何か必要な物はあって?」

「魔法を使っている間の世話だけかな。僕は多分、その間中、こちらでは半分眠っているような状態になるはずだ。部屋の中で何が起きているか、ほとんど認識しなくなるだろう。時折眼を覚まして、必要な食べ物と水を摂る以外は、何もする時間は無い。フェンリスも同じような状態になる。もっとも彼はそれに気付くことは無いだろうけどね。だから彼も、ずっと世話が必要になる」

「食事を口まで運んで、水差しを唇に当てて、おまるの上に連れて行くということで良いのかしら?」とアヴェリンは片方の眉を上げて、微かに愉快そうな表情を浮かべた。

フェンリエルは顔を赤らめた。
「うん」

「了解。ドニックと私が、その間交代でここに居てあなた達二人の面倒を見るようにしましょう」と彼女はきっぱりと言った。

その時表の玄関が開く音がして、それから階段を登る足音が聞こえた。
「ドニックが戻ってきたのね」とアヴェリンが笑顔を浮かべた。

「他にも誰か居るな」とフェンリスが、一人だけの足音でないことを聞き取って言った。

アヴェリンは手早く食事の盆を片付けると扉に向かって立ち上がり、フェンリエルは緊張する様子を見せた。

「客を連れてきたよ」とドニックが廊下から言って、扉を開けると中に入った。ヘルメットを腕に抱え、鎧を着たテンプラーが彼の後について入ってきた。

「カーヴァー!」とフェンリスは驚いて小さく叫んだ。
「君がカークウォールに戻っていたとは知らなかった。元気だったか?」

「やあ、フェンリス」とカーヴァーが言って、僅かに顔をしかめると、それからフェンリスの腕を軽く握った。
「元気にしてたよ。君よりはね――君はまるでマバリ犬がおもちゃにした後の人形みたいだぞ」

フェンリスは唇の隅を上向きに曲げた。
「的確な描写だな。それで、君はここで何をしているのだ?君はカークウォールを去ったと思っていたが」

カーヴァーはニヤリと笑って、片方の肩をエルフに向けると指先でそこの階級章を突っついた。
「ここに居るのは騎士隊長カーヴァー・ホークだ、よろしくな。カレンが、グレゴール団長に僕が充分経験を積んだところで戻してくれるようにと頼んでいたんだ。ティーポットに足を引っかけて転ばないような部下が、少なくとも一人は必要だってね。それ位も出来ないようなら僕を戻しはしないと、グレゴールを信用してたってこともあるし」

フェンリスは鼻を鳴らし、アヴェリンは愉快そうに微笑んだ。

「とにかく、カレン団長が今日僕を呼んで、しばらくの間ここに来てアヴェリンの言うとおりにするようにと言ってね。誰も余計な詮索に鼻を突っ込んだり、公式にはここに居ないことになってるメイジに、足を引っかけたりしないようにするのが僕の役目だ」と彼は言うと、フェンリエルの方に向き直った。彼らは、共に好奇心と疑い半々の目で互いを見つめた。

「カーヴァー――こちらはフェンリエル。フェンリエル、彼はホークの弟だ。まだ青二才だが、自分の足を踏んで転ぶのは半分くらいに減ったようだな」とフェンリスは言って微笑んだ。

「ふん、今じゃあ十分の一に減ったと言って欲しいね」とカーヴァーはニヤリと笑いながらフェンリスに抗議した。
「フェンリエル?その名前は聞き覚えがあるな。確かマリアンがテヴィンターに逃がした、メイジの小僧っこじゃなかったか?」

「そう」とフェンリエルが答えた。
「彼女は僕の命を幾度も救ってくれた」

カーヴァーは頷いた。
「姉さんは誰かの命を助けるのが得意だったからな。少なくとも、それを終わらせていない間は。とにかく」と彼はアヴェリンの方に顔を戻した。
「ドニックが来る途中で手短に話をしてくれたよ。騎士団の誰にも邪魔はさせないけど、それ以外にも僕に出来ることなら何でもしよう」

アヴェリンは頷いた。
「結構よ。三人で手分けすれば、ずっと楽になるわね。もう夕食は食べた?」

「いや、まだだ」

ドニックが口を挟んだ。
「俺の分と合わせて食事を持って来るよ。その間に手長な話をしていればいい」

アヴェリンはまたベッドの端に腰を掛けた。カーヴァーは辺りを見渡し、他に座るところも無いと見取って壁にもたれると、ヘルメットを足下に置いた。

「北に戻ってきてからホークには会ったか?」とフェンリスが聞いた。

カーヴァーの表情が硬くなった。
「ああ。一度だけ、こっちに戻ってからすぐに」

「彼女はどうしていた?」

カーヴァーは肩を竦めた。
「同じさ。何も変わりっこないよ」と彼は言うと、彼の姉についてそれ以上の話をすることを拒むように横を向いた。
「君の治療について、詳しく教えてくれよ」
しばらくしてカーヴァーは、居心地の悪い沈黙の後で言った。
「それとその間に、僕が何をして、何をするべきでないかも」


次の日の朝、彼らは全員フェンリスの部屋に集まった。フェンリエルは十分休養を取り、たっぷりと朝食を食べ終えた後、風呂に入って着心地の良い柔らかな服に着替えた。ローブではなかった――『ローブなんて見るのも嫌だね』と彼は言っていた。
ドニックは階下の居間から座り心地の良い椅子を二つ持って上がり、更に椅子の上にクッションを並べて長時間快適に座っていられるようにした。カーヴァーが椅子の横に小さなテーブルを置くと、それから下に降りて、台所のポンプから汲み立ての新鮮な水を水差しに一杯持って上がり、フェンリエルが必要なポーションや薬草をテーブルに並べた。
アヴェリンはその間に、部屋の反対側にある小さな暖炉の火床を整えて、フェンリエルが昨夜のうちに調合した薬草の袋をいつでも煮出せるように薬缶の水を温めた。その隣では、小さな鍋の中でポタージュが温められていた。

彼らはほとんど口を聞かず手早く動いた。昨晩のうちに必要な事は全て話し合い、皆割り当てられた仕事を把握していた。フェンリエルは部屋の中をぐるりと歩いて、全て満足の行くように整えられているのを確かめると、椅子に腰を下ろし、クッションをあちこちと動かして居心地良くした。アヴェリンが交代の最初の番を受け持つため、暖炉のそばで椅子に座り、ドニックとカーヴァーは静かに扉の左右に立っていた。フェンリエルは治療の最初の部分は少しばかり眼を引くものになると言っていて、皆それを見たいと思っていた。

フェンリスは魔法の開始を見るまでは目覚めていて、それから静かに眠ると聞かされていた――もっとも眠りというのは、厳密には正しい表現ではなかった。彼は無意識状態となって身体を休めたまま、心は別の場所で安全に隠されていることになると、フェンリエルはそう約束した。このやり方なら、彼の魔法が引き起こす如何なる影響によっても、フェンリス本人が不快を感じる恐れはないということだった。

フェンリスは彼に施される強力な魔法治療のあいだ、それを自らの眼で見られないと言うことに不安を覚えていた。しかしそのような強力な魔法の影響で、再び記憶を失う方が、遙かに恐ろしかった。フェンリエルが彼の助けを求めているからには、彼の身体に健康を取り戻させる間、彼の心も十全な状態に保とうと最善を尽くすと信用できた。それに他の友人達も、もしメイジが彼に明らかな危害を加えるようなことがあれば、そのままにさせては置かなかっただろう。

もっとも、彼は本当にそのようなことがあると思っては居なかった。それではこのメイジが一体何のために、疲労困憊の強行軍でテヴィンターからカークウォールに来たのか判らないではないか。彼はこのメイジを、彼の言葉、彼の意図全てを心から信頼していた。

フェンリエルは最後にもう一度部屋を見渡して、フェンリスを安心させるように微笑んだ。
「準備は出来たよ」と彼は言った。
「始めても良いか?」

「やってくれ」とフェンリスは、僅かに震える声で答えた。

フェンリエルは目を閉じた。それから数分の間、ただ静けさが部屋を支配し、何も起こらないように見えた。それから彼は両手を持ち上げ、胸の前で両掌を押しつけるた。ゆったりと椅子の背にもたれて、短く何事かを呟くと、彼はゆっくりと押し合わせた掌を開き、フェンリスの方に向けた。合わさった親指と人差し指が形作る円の中で、空間が伸び、歪み、そして消え去った。カーヴァーはハッと息を飲み――テンプラーとしての数年の訓練の後で、彼はメイジの作り出す空間の歪みを感じ取ることが出来た――フェンリスは不安で身を強ばらせた。フェンリエルは彼の目前で、、この世界とフェイドを隔てるヴェイルに穴を開けたのだった。メイジは彼らにこれはほんの一時的な物だと言っていたが、それでもやはり危険だった。

小さな緑色の輝きが一つ視界に入った。そして、もう一つ。しばらくして、3つめが現れ、それから4つ、5つ……現れる速度は次第に速くなり、もう数えられなくなった。フェンリエルの造った歪みを抜けて淡いエメラルド・グリーンの光――ウィスプの群れ――が溢れ出し、部屋中に流れ出して、フェンリエルの周囲に輝く雲となって漂った。やがて彼が短くハミングすると、無秩序な雲が意志のある物の様に、流れとなって彼の周囲を回り始めた。ウィスプ達は一つずつ彼の服に、髪に、肌の上に取り付き、その周囲を淡い緑色の輝きで覆った。何とも非現実的な、恐ろしい、しかし……美しい光景だった。

フェンリスは彼が畏怖の念に息を止めていたことに気付いて、大きく息を付いた。部屋の中は、時折空間の歪みから聞こえる、何かがひび割れるような硬い音と、彼らの息づかいと、大量のウィスプ達が奏でる、ごく微かなハミング以外静まりかえっていた。

全身をウィスプに覆われたフェンリエルは、再びゆっくりと両手を閉じて、手の中の歪みは次第に小さく縮み、そして消えた。彼は両手を膝の上に落とし、幾度か深呼吸すると、片手を上げてフェンリスを指さした。

ウィスプ達は突然舞い上がり、緑色に輝く矢となって、空間を貫きフェンリスへと突き進んだ。それが、彼の意識が暗闇に閉ざされる前、最後に見たものとなった。

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