第6章 歌声

夢のようで、しかし夢ではなく、ただ緩やかに流れる時だけがあった。彼の視覚も、嗅覚も触覚も、味覚も、消え失せていた。彼は自分がまるで何か小さな、例えば生まれたての子猫のような、無力で盲目の存在に感じられた。しかし同時に彼は、奇妙な安堵感を感じていた。大きな手の様に感じられる何かが、注意深く、温かく彼を支え、包み込み、周囲を取り巻く全ての物から護っていた。彼をフェイドのどこかで護っている、フェンリエルの力だろう、多分。

それから音が有った。耳から聞こえるのと等しく彼の骨を振るわせる、深く何時までも続くハミングが、僅かに音階を変えながら揺らいでいた。フェンリスは奇妙な親近感を覚えた。この音をどこかで聞いたことがあるように思ったが、しかし思い出せなかった。
他にも、甲高いパチパチ、ブツブツという音が、微かに響いていた。雨が岩を叩くような、あるいはとりわけ空気の乾いた日に髪をくしで梳いた時に起きる、火花の様な音が、止まることなく続いていた。その両方の音を、彼は随分長い間――もっとも、過ぎ去る時間の長さを知る術は彼には無かったが――聞いていた。その内、パチパチという音は徐々に小さく、深くゆっくりとしたハミングは、次第に澄んだ音となっていった。

あるいは、彼のリリウムだろうか?昔アンダースか、あるいはジャスティスが、フェイドの中で彼のリリウムが奏でる歌について、語っていたことがあった。それにこのハミングにはどこか聞き覚えがあった。その可能性も有るだろう、と彼は推測した。そうすると、あのパチパチという火花のような音は、有るべきところから外れたリリウムが立てる音かも知れない。

それから、また長い時間が過ぎた。彼は何か高い所から、床の上に降ろされたような――無論本当の移動では無かったろうが――移動感を感じた。そして大きな手に包まれる安堵感が消えた。この奇妙な、形のない、彼が無力な存在である場所に置き去りにされて、彼は一瞬怯えた。

その時、周囲を包みこむ深いハミングに覆い隠されていた、別の音に彼は気付いた。その音はまるで彼の方に近づいてくるように、次第に大きくなった。
歌だった。合唱する大勢の声のようでいて、しかし言葉は無く、ただ音色だけが聞こえた。一つ一つの音符は、どれほど優れた歌い手でも続けられない程、肺と喉が奏でられる限界を超えて長く続いた。地上の音楽では無く、ヒューマンやエルフが奏でる音階や旋律とも違い、ただ空を飛ぶ鳥の声のように、あるいは森の木々と小川が奏でる旋律のないささやきのように、無秩序に繰り返されていた。明るく楽しげな音階の時も、あるいは、雷鳴の様に大きく骨を振るわせる、強烈な音となることもあったが、ほとんどはその両極端の間を行き来していた。その音を奏でている物が何であれ、それはフェンリスの心に寄り添い、巨人の手が戻ってきて、再び彼を高みへと持ち上げるまで側に居て、そして遠ざかった。しかし彼は今では、深いハミング音と、パチパチという火花の音のさらに奥底に流れる、その歌声を聞き取る事が出来た。

更に緩やかな時が過ぎていった。有るべき所を外れたリリウムの立てるパチパチという音が、ゆっくりと、次第に弱まり、深いハミングは更になめらかに澄んだ音となった。それから幾度か、彼がまた下に降ろされる移動感覚を感じる度に、あの歌が戻ってきて彼に寄り添った。多分、フェンリエルの注意がどこか他所へ――恐らく、現実世界だろうと彼は思った――向けられる間、彼を護ってくれているのだろう。
そして間違いなく、彼は保護を必要としていた。ハミングと、今や微かになったパチパチ音と、歌声の向こうから、さらに別の音が聞こえてきた。彼を包み込んでいる大きな手が消え、歌声のみが寄り添う時にだけ、その音が遠くから聞こえてきた。フェンリスはその音の正体を、恐怖と共に思い出した。フェンリエルが彼の夢に現れる前、彼を付け狙うディーモンが発していた、囁き声だった。

彼の欲望を、あるいは自尊心を、怒りを掻き立て、誘惑する囁き声。彼はその声を出来る限り無視しようと努め、ただ歌声に耳を傾けた。だが次第に、その歌も弱まっていった。まるで合唱する人々が一人、また一人と居なくなるように、次第に彼の聴覚の範囲から消えていった。旋律は徐々に単純な音の流れとなり、護る力が失われるように感じられた。そしてあの囁きがより大きく、彼の注意を引くようになった。

ついには、音色を響かせる声は数個になった。フェンリスは怯え、まるで友が一人、また一人と去っていくのを見るように、心が寂寥感に満たされた。

自分で歌うことが出来れば。彼はそう希った。

だが、もし仮に彼が歌い方を知っていたとしても、ここには音を形作る唇も、舌も無かった。息を溜め、そして吐き出す肺も、呼吸するべき物も無かった。

ある記憶が彼に蘇った。特別な催しものがあって、彼がかつてのチャントリーの大聖堂を訪れた時の記憶だった。その日は合唱が行われた。いつもの日々の祈りではなく特別な儀式の際には、チャントリーに集う大勢の人々が、合唱隊だけでなく参列者も全て、共に声を挙げて歌った。

彼は聖堂の後ろで、セバスチャンが自らも歌いながら指揮をするのをひっそりと眺め、人々が歌うのを聞いて――皆が上手な歌い手では無かったにせよ、大勢の人々が揃える声の中では不快な音もかき消された――そして彼もその中に加わる術を知っていればと、残念に思った。賛歌を歌い上げる大勢の声の一つとなり、彼の友の顔に浮かぶ至福の表情を共有できればと、希っていた。

その後で、彼らは話をした。セバスチャンが歌は気に入ったかと彼に尋ね、彼は頷いた。だが彼が歌ったかと尋ねられた時には、彼は首を横に振った。

「どうしてかな?全ての声が喜ばれるというのに」とセバスチャンは驚いて尋ねた。

フェンリスは気詰まりになって肩を竦めると、声を出すだけでもしてみれば良かったと思った。
「俺は歌い方など知らん」と言った端から、彼はその言葉の鋭い響きに後悔していた。

だがセバスチャンは気にする様子は無く、ただ微笑んだ。
「それなら、一緒にハミングすればいい」と彼は言って軽くフェンリスの肩を叩くと、話題を変えた。

フェンリスは愉快な気分になった――今、彼はハミングしていた。少なくとも、彼のリリウムが。もしあの消えることのない、深いハミングの響きがそうだとすればだが。今では極めて純粋な、澄み切った響きとなり、あのパチパチ、ブツブツという音は、ほとんど完全に聞こえなくなった。

彼を包み込み護っている、大きな手の感触が戻ってきたが、彼に寄り添っていた歌声もまだ聞こえていた。そしてパチパチ音が完全に止み、深いハミングと、今やただ一つだけとなった高く澄み切った音が、揺らぐことなく、永遠の静寂の中で歌を奏でていた。

そして彼は目覚めた。


最初に彼が見たものは緑色の光だった。ウィスプが一匹、彼の顔の数インチ上を漂っていた。のんびりと円を描いた後、その光は天井へと登り、そして消えた。フェイドへ戻ったのだろう。

フェンリエルがそこにいて、疲れ果てた様子でぐったりとベッドの隅に腰を下ろしていた。彼の眼は徹夜の後で充血していたが、まだ通常とは異なる、ギラギラとした輝きが残っていた。メイジは微かな笑みを作った。
「気分はどう?」と彼は尋ねた。

フェンリスは酷く弱々しく感じ、瞬き一つにも大層な努力がいるように思えた。口は渇ききってひどい味がした。身体中に、違和感があった。それから彼はその違和感が、この数ヶ月で馴染んでいた痛みが消えたことによる物だと気付いて、同様に微かな笑みを浮かべた。
「もう痛みはない」と彼はどうにか口にした。声はひび割れて擦れ、喉に詰まる濃い痰を吐き出そうと咳き込んで言葉が詰まった。ほんの小さな咳でも、彼の脳裏には星が飛び交った。

「まだ彼はひどく弱っているけど」とフェンリエルが言って、側に居た誰かに顔を向けた――アヴェリンとドニックの姿が、瞬きをしたフェンリスの目に映った。
「すぐに体力を取り戻すはずだ、もう漏れ出したリリウムは元に戻ったから。僕も休まないといけない。数日経って、僕達両方が力を取り戻したところで、また治療が出来ると思う」

メイジは立ち上がろうとしてよろけ、ほとんど崩れ落ちそうになった。カーヴァーがどこからから現れて彼を支えると、階下へと連れて行った。フェンリスの視界は回り出し、めまいを感じて彼はしばらく眼を閉じた。彼の後頭部に手が差し込まれ、頭を僅かに持ち上げると、陶器製のマグカップが彼の唇に当てられた。彼は水だと思ってすすり、実は肉を煮込んだ温いスープだと気付いて少しばかり咳き込んだ。微かに塩辛く、まるで天空の美味のように感じられた。彼は貪欲に飲み干し、やがてカップが唇から遠ざかった。

彼はそこに横たわったまま、ひどく疲れを感じていた。奇妙な話だった、彼は数日の間ずっと……
「どのくらい?」と彼は聞いた。

「二日と半日」とアヴェリンが答えた。

彼らはもうしばらくの間彼を目覚めさせておいた。カーヴァーとドニックが彼を抱えてベッドから降ろし、その間にアヴェリンが寝具を手早く替えると、汚れたシーツを抱えて階下に降りた。それからカーヴァーが彼を抱えて、温かな湯の入ったたらいの中に立たせ、ドニックが彼の寝間着を剥ぎ取り、石けんの匂いのする布で全身を拭った。フェンリスの鼻を突き刺す臭いが、彼が身体を洗って貰う必要があることを明らかに告げていた。
それから二人は彼に再び清潔な寝間着を着せて、ベッドに寝かせた。それからまたスープの入ったカップ。彼は一啜りして、次を飲む前に眠りに落ちていた。今回は、本物の眠りだった。

彼はまた夢を見たが、恐ろしい物は何もなく、ただ歌声だけが聞こえた。

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第6章 歌声 への2件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    フェンリスううううう

    ウィスプさんたちが沢山いてそれぞれほうきやちりとりや
    ぞうきん持ってフェンリスのフェイドの中を一生懸命掃除
    してるのかと思ったら萌えた(アホか

  2. Laffy のコメント:

    フェンリスぅうううう~治って良かったねぇええええw
    お掃除こびとさんw で後ろからフェンリエルがビシバシと鞭でしばきながら
    「とっととはたらけぇおらおらぁ」と(違
    いえ決してそんなことはありません。多分。ソミアリだけど。

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