第9章 興味

フェンリスは苛立たしげに顔をしかめて、ハミングを中断した。
「これでも駄目だ」と彼は言った。

フェンリエルは溜息を付いた。
「駄目みたいだね。ひょっとすると一回こっきりのことだったのかな。それか、君が半分寝ている時にしか上手く行かないとか」

「可能性は有るな」とフェンリスは答えた。
「だが俺達が今試せるのはこれだけだ」と彼は指摘した。まだ午後も早い時間で、しかも彼はすでにたっぷりと仮眠を取った後だった。

フェンリエルはその日も朝から彼の治療を行っていて、リリウムによる害を更に治していた。彼が言うには、それらは彼の神経や腱に起きたごく小さな傷で、フェンリス自身さえ気が付かないかも知れなかったが、もし放っておけば後で深刻な問題となるかも知れないというものだった。

「そうだね」とフェンリエルも同意した。
「また、明日やって見よう。僕は下で何か手伝えることがないか見てくるよ」と彼は付け加えると立ち上がって、階下に降りていった。

フェンリスは安堵して小さく溜息を付いた。ウィスプを召還してみようとするこの数日間の試みは、最初の内は彼も特に気に留めなかった。フェンリエルと同じくらい、またウィスプを呼べるのかどうか、彼にも興味があった。
しかし何の成果もないまま空しい時間が過ぎて、次第に彼は緊張と不安が高まるのを感じていた。記憶の中にある全てのウィスプの声を試した後で、彼の頭は代わりに別の音を記憶から呼び起こし始め、それら全てが楽しい記憶と結びつく訳では無かった。それもまた、彼の苛立ちを増した。

その緊張から彼は少しばかり疲労を感じていて、また溜息を付いた。彼はしばらく俯いたまま枕にもたれ掛かり、それから部屋を見渡して、さて一人で何をしようかと考えた。
彼が泊まっている友人の家の、日当たりの良い小さな裏庭に出て、見舞いに来たカーヴァーが持って来てくれた練習用の木剣で、素振りでもしてみようか……だが、彼はまだ今朝の治療の後で、全身に漠然とした違和感を覚えていて、何か身体を動かそうという気分にはなれなかった。

フェンリスの目が部屋の隅に立てかけられたまま、埃を被っている大剣に落ち、彼は微笑んだ。あの剣を振るのはまだ無理だが、いずれ再び扱えるようになるだろう。綺麗にして、手入れをしておかなくては。

いつもベルトに付けていた砥石と磨き油、それにボロ布をしまい込んだ小物入れを捜すのに彼は数分を費やした。それから彼は大きな出窓にそれらを並べると、部屋の隅に歩いて行って剣を持ち上げ、その重みに呻いた。だが少なくとも、彼は再び自分の足で立ち、この剣を手に取ることが出来るようになった。彼は微笑みながら窓辺に腰を下ろし、剣を太股の上にバランスを取って乗せた。

剣を手入れするのは心休まる作業だった。カークウォールに着く前に研いだ後まるきり剣を使う機会は無く、実際には磨く必要も無かったが、しかし彼はその作業を楽しんでいた。砥石に油を染みこませ、剣の鋭い刃先に石を当てると、ぴったり正しい角度で滑らせた――この剣は大きすぎて、例えばもっと小さな片手剣で行われるような、石の表面に剣を擦りつけるような訳には行かなかった。
それから、剣の表面が鏡のように光るまで、微かな油の膜や金属の粒子を注意深く布でぬぐい去った。手慣れた作業を行う彼の背には、暖かな午後の日光が差し、部屋には油の微かな匂いが漂って……

作業の途中でどこからとも無く戻ってきた、頭の中の音楽に合わせて再びハミングを始めていたことに、彼は自分では気付いていなかった。満足の行くまで剣を磨いた後で、すぐに立ち上がって全部しまい込む気にはなれなかったので、彼はその代わりに窓枠にもたれて眼を閉じ、やがて風に吹かれた雲が太陽を覆い隠すまでの間、顔と肩に差し込む暖かな日光を楽しんでいた。

彼が再び眼を開けた時、一匹のウィスプが近くを漂っているのを見ても、なぜだか彼は驚かなかった。彼は調べのない歌をハミングしつづけながら、それを近々と観察した。淡いエメラルド色の光は、彼がヴィンマーク山脈の清流で幾度も見かけた蛍の放つ光と似ていたが、しかしウィスプには蛍のような本物の体は無く、ただ球体に近い形の、小さな何かが輝いているだけだった。
その構造は他の何よりも火炎に似ていたが、しかし火炎が例えば薪やろうそくの芯から、そのごく細い炎の束を吹き上げているのとは違って、ウィスプには芯は無く、ただ中心から全方位に光の束が放たれていた。中心は鮮やかに白く、周囲に行くに従って次第に淡く緑色となった。

好奇心に駆られて彼は片手をウィスプのすぐ手前に差し出した。熱も、あるいは冷気も無く、彼のリリウムにちりちりと響くような、ごく微かな感覚が有った。あまりに微かすぎて、彼は本当にそう感じたのか、あるいは想像しただけなのか、自信が持てないほどだった。

そしてウィスプは彼に近づき、彼の差し出した手のすぐ上の空中で、ゆっくりと円を描いて漂った。彼は一瞬息を止め、ハミングが止まった。ウィスプが再び空中へ飛び上がり、彼の顔の方へ近づくと、まるで何かを尋ねるかのように上下に飛び跳ねる動きを繰り返した。静かな部屋の中で、彼はまたウィスプの奏でる微かな歌を聴いていた。彼は再び唇を閉じると、その歌に合わせるようにハミングを始めた。ウィスプはまた飛び跳ねて、彼の手の上で今度はより速い動きで円を描き、またフェンリスがハミングを止めると、指先のすぐ上で漂い、動きを止めた。

扉が開き、フェンリエルが部屋に入ってきたが、ウィスプを見て凍り付いた様に足を止めた。彼はそれをしばらくの間じっと見つめていたが、やがて突然大きく笑みを浮かべた。
「やったね!」と彼は嬉しそうにいうと、頭を片方に傾げた。
「何か感じる?メイジは時々、何かの印象を受けるんだけど――嬉しいとか、楽しいと言った感情とか、あるいは彼らが何か伝えたいと思っている時には、見た物のイメージとか」

フェンリスはハミングを止めたくなかったので、軽く頭を振って答えると、フェンリエルに尋ねるような視線を向け、それからまたウィスプに目を戻した。メイジは彼に近寄り、じっとウィスプを見つめたままベッドの端に腰を下ろした。彼の唇には微かな笑みが浮かんでいた。
「こいつは……喜んでるね。それと好奇心と。いつも何にでも好奇心を示すんだ、大抵は――特に何かをして欲しくて呼び寄せる場合以外はいつも、ウィスプはただその辺を漂って探険しているから。待ってて、こいつと『話』が出来ないか試してみるよ」

そう若いメイジは言って、目を半ば閉じるとじっとして、心を集中させるように、しばらくの間黙り込んだ。
「こいつは君のリリウムが好きなようだね」
彼はしばらくして静かに言った。
「その歌が気に入ったみたいだ」

フェンリスは顔をしかめたが、しかしハミングを続けた。リリウムか。もちろん、そうだろう。いつもこの忌々しいリリウムに話が戻る。

「君の歌を聞いたって。それでこいつも一緒に歌おうとやって来たんだと、思う。彼らが何を考えているかを知るのは難しいから」と彼は言い訳がましく言って、それから溜息を付くと座り直し、ウィスプとフェンリスを交互に見つめた。

「もし君が……その、リリウムを輝かせたらどうなるのか、興味があるな」

フェンリスは片方の眉を訝しげに上げたが、試してみて悪くは有るまいと思い、心を集中した。彼の手の周囲に淡い青色の輝きが現れた。

反応は即座に現れ、しかも驚くべき物だった。ウィスプは鮮やかに輝き、彼の手に向かって、残像が見えるほど鮮やかな光を放ちながら鋭いらせんを描いて飛び込んでいった。そしてリリウムの光に溶け込み、消え失せた。
フェンリスは驚きにハミングを止めて、大きく息を吸いこんだ。
「俺が殺してしまったのか?」と彼は動転して尋ねた。

「ううん、大丈夫――単にフェイドに戻っただけだよ」とフェンリエルは慌てて彼を宥めるように言った。
「リリウムが活性化して喜んでいたから。あの反応は……君は犬が尻尾を振り立て、大きく吠えながら大喜びで飼い主に飛びつくのを見たことがあるだろう?ちょうどそんな感じだね」

「ああ」とフェンリスは静かに言って、彼がウィスプを傷つけたり、あるいは壊したりしなかったことに安堵した。しかし同時に、それが行ってしまったことに、どこかがっかりした気分を感じていた。
「また……またあれが戻ってくると思うか?」

フェンリエルはニヤッと笑った。
「そうだと思うよ。あのウィスプは理由が何であれ、君に興味を持ったし、また条件が揃えばやってくると思う。あれが来た時に、君は何をしてたのかな?」

フェンリスは肩を竦め、再び窓枠にもたれ掛かった。
「何も。実際のところ、俺は剣を磨き終わった所だった」と彼は言ってまだ側に立てかけてある剣を示した。
「それでただぼんやり寛ぎながら、日光の温もりを楽しんでいた」

「それでハミングを?」

「そう、ハミングをしていた」

「ふーん。すると両方の時に、気を楽に寛ぐのと、ハミングが関係しているね。前の時には寛いで半ば眠っていたし」とフェンリエルは考えながら言うと、ニヤッとフェンリスに笑いかけた。
「僕らが一所懸命になって呼ぼうとした時は駄目だった」

「そういうことだ」とフェンリスも同意して、彼の唇が同じような微笑みに動くのを感じた。
「間違いなく寛いではいなかったな、その時は」
それから彼は顔をしかめてフェンリエルを見つめた。
「だがまだ、なぜ俺にそんなことが出来るのか理由が分からんな。俺はメイジではない」

フェンリエルは頷いた。
「僕にも判らない。ひょっとするとその治療と何か関わりがあるのかも。治療の時に、彼らが君の存在に気付いたんだと思う。単に君のリリウムがフェイドに顕れるだけでなく、君という人物が存在するということに」

「物ではなく、人としてということか?」とフェンリスは考え込みながら尋ねた。

「そう。リリウムは両方の世界に存在するけど、ほとんどの場合は……単なる物だ。鉱石とか、クリスタルとか、粉やポーション、武器に埋め込まれたルーンのような。誰かがポーションを飲む時は別として、リリウムは普通、どんな命ある生物とも、何の関わりも持たないから。それにポーションに入っているリリウムは、水に溶けるように加工されているから、純粋なリリウムの量はほんの僅かだ。君の身体に埋め込まれた、純粋なリリウムの量を計算したとしたら、数百本のリリウムポーションに匹敵するだろうね。数千本かも知れない。ゴーレムを別にすれば、魔法以外でフェイドとそのような強い繋がりを持つ、生きた存在というのは、多分世界中で君だけだろう。それにゴーレムは本当の所、生きているとは言えないし」

「ならば彼らは何なのだ?」とフェンリスは不思議そうに尋ねた。

「幽霊かな、一番近い言葉を探すとしたら。人々がその中で殺された殻に閉じ込められ、取り憑いている魂なんだ、ゴーレムの中身は。ひょっとするとウィスプはゴーレムにも興味を持つかも知れないけど――だけどゴーレムはフェイドとは繋がりを持たないからね。彼らはドワーフから作られていて、ドワーフはフェイドとは全く別の世界にいる」

フェンリスは一瞬驚いて、フェンリエルを見つめた。
「するとゴーレムは、死んだドワーフなのか?」

「うん。生きたまま石か、あるいは金属製の殻に閉じ込められて、それから融けたリリウムが流し込まれ、さらに何かすることで造られる、と言っても製法に関する知識はもう失われたけど。もちろん、そのドワーフは死ぬ、だけど彼らの魂は殻の中に捕らわれ、その作り物に力を与える――紛い物の、生きた人形としてね。そしてゴーレムを支配する杖を持った者の召使いになるんだ」

フェンリスは顔を歪めた。
「別の形を取った奴隷制だ、そうすると」と彼は暗い響きの声で言った。
「あるいは隷属の」

「その通り」とフェンリエルは静かに同意した。
「まあともかく……それだけの量と濃度のリリウムを、生きた身体の一部として持つのは、君が唯一の存在だと思う。ウィスプ達が大いに興味を持つのは当然かもね。とりわけ、君が時に彼らの歌を真似して歌ってくれるとなれば」
彼は愉快そうに笑みを浮かべてそう付け加えると、ふと真面目な顔になってフェンリスを見つめた。
「些細とは言っても、メイジのような力を持つのは嫌かなか?大抵の人はフェイドの精霊を呼ぶという考えには、例えウィスプのような全く無害な存在としても、恐ろしいと思うようだけど」

フェンリスはしばしの間考えに沈んだ。
「いや」と彼はようやく答えた。
「彼らが居るといつも平穏な、安らかな夢を見る。特にウィスプが恐ろしいとは思わない。だが、もしこの力が……もっと強力なディーモンのような物を呼び寄せるとしたら、それは恐ろしい。だがそんなことは無いのだろう?」
彼は単にそう思うだけでも不安を感じた。

フェンリエルは難しい顔をした。
「そんなことがあるとは信じられないな。だけど、安全に確かめる方法は無いだろうね、例え僕が居ても」

フェンリスは身震いし、再び明るい日差しが彼の肩に当たっていたにも関わらず、突然寒気を感じた。
「俺も確かめたくはない」と彼はきっぱりと言って、姿勢を正した。
「しばらく剣の練習をしてこよう、さもないと正しい構えを忘れてしまう」と彼は言って立ち上がると、大剣を立てかけてあった元の場所にそっと戻した。

「僕も見物して良いかな?」とフェンリエルが尋ねた。

「ああ。だが離れて見ていろ」とフェンリスは答えると、先だって部屋を出て行った

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