第15章 知己

だだっ広い平面に、様々な石や岩が顔を覗かせていた。平面の表面は波のような色模様に覆われ、大部分は灰色と青から緑色で彩られていたが、時にクリーム掛かった白や、青白い月光のような輝きが差すこともあった。フェンリスとフェンリエルが足を踏み入れたその夢の持ち主は、何か大きな湖か、あるいは海の夢を見ているようだった。

lake calenhad彼らはあたりに転がる岩の欠片の間を縫って進んだ。岩は小石ほどの欠片から、一抱え以上もある塊まで様々な大きさで、その鋭く尖った角は、もしそれが夢の中でなかったならその上を歩けば足を痛めたに違いなかった。そして中心に崩れかけた壁があり、その向こうには遙か上方で頭を断ち切られた尖塔がそびえ立っていた。
岩の欠片が描く弧は尖塔の足元へと通じ、そこから階段で下りた先に両開きのアーチ扉が見えた。片方の扉は傾いた半開きで、その向こうには暗闇が覗いていた。

「あっちだ」とフェンリエルは言った。

フェンリスは階段と扉を疑わしげに眺めると、一つため息をついて階段を降りた。扉は彼の手が触れると容易く、そして不気味なほど静かに開いた。重たげな石の扉と、錆び付いた蝶番が鳴らしそうな軋みは全く聞こえなかった。扉の奥には更に階段があって、光源の無い青白い光に照らされた階下の廊下へと続いていた。

階下は暗闇に閉ざされていた。ただ薄暗いというのとは違いひたすらに暗く、階段の下は完璧な暗黒に消え失せて、廊下を形作る線さえ見えず、その行く先は全く伺えなかった。彼らはそこで当惑して立ち止まった。
フェンリエルは彼らに付いて来たウィスプ達に問いかけ、その方角で間違い無いことを確かめた。ウィスプ達はリズミカルに飛び跳ねると、その暗闇の中へと軽やかに飛び去っていった。そしてその光も、暗闇の中に入った後では消え失せた。周囲に光源が無いというばかりで無く、完璧に光を吸収し、ウィスプ達さえ見えなくする何かが、そこにあった。
彼は一瞬緊張したが、それからウィスプ達が勢いよく舞い上がり、やはりリズミカルに飛び跳ねながら彼の方へと戻ってきた。彼は何も用心すべき物や、恐るべき者も無いことを彼らから感じ取った。ウィスプ達の伝える感情は、むしろ彼のためらいを面白がり、笑っている様に感じられた。

「行こう、こっちだ」と彼は自らを勇気づけるように言うと、階段を降り始めた。フェンリスは一瞬のためらいさえ見せず、彼と肩を並べて歩き出した。そもそもこのエルフは――フェンリエルは一抹のユーモアを感じながら考えていた――城の地下の暗闇へ、そこに正気と理性を喪ったメイジが居ると知りつつ平然と歩み入った男だった。その同じメイジの夢の中を、今彼らは歩いている。フェンリスにとって、アンダースを探しに行くのにここはごく自然な場所に思えるかも知れない。暗くて、地下。

幸いな事に、暗闇は長くは続かなかった。彼らが廊下と思われる場所に着くや否や、辺りは突然漆黒からぼんやりとした濃い灰色へと変わり、彼らの頭上に松明の輝きが現れた。リリウムの輝きに似た淡く青い炎を放つ松明で、中心は白くなっていた。その廊下が少し進んだ後で右に折れているのが判り、角を曲がったところで左側に大きな扉が見えた。

少なくともそれは現実世界での扉のように見えたが、実際には本物ではなく、単なる壁の一部で、霜の様な結晶に覆われた部分が、扉の形を描いているだけだった。それを調べる内に、フェンリエルは不穏な雰囲気にうなじの毛がピリピリと逆立つのを感じた。何か、おかしい。

フェンリスが近づき、その霜に触れようと手を伸ばした。フェンリエルは彼の手首を捕まえた。
「駄目だ」とメイジは言うと、慌てて手首を離した。
「他人の夢の中では、すごく注意しないと。何が危なくて、何が安全か判らないから」

「危険なのか?」とフェンリスは顔をしかめて尋ねた。

「僕達にというよりは、むしろ眠っている人にとってね。夢の中の物は、僕達の考えていることを示すものであることが多いんだ。表に現れる意識だけじゃなくて、その下に普段は隠れている考え、忘れてしまった物や、あるいは単に長い間思い出していない様な事。その中には、彼らが故意に忘れようとした事柄もある。眠る心が辛い記憶を覆い隠して、現実世界の心を護っている。この偽物の扉の示す事が何か判らないけど、そういった保護機能のように見えるね、これは。触らない方が良い」

フェンリスは更に顔をしかめたが、頷くと身を翻した。そして再び、彼らの行く先で廊下が暗黒の中に消え去った。そしてまた、彼らが近付くと頭上に青白い松明が現れて、そこを照らし出した。
そしてまた扉が、今度は廊下の行く先を遮っていたが、この扉は彼らが近付くと勝手に開いた。その向こうにも暗闇の廊下が続いていた。フェンリスとフェンリエルは顔を見合わせ、それからメイジがゆっくりと先に立った。それほど行かないうちに廊下は左へと折れ、上階への階段が続いた。

階段の後はまた真っ直ぐな廊下が続き、左手の壁には何かの印や幾何学模様が丹念に彫り込まれて――詳細な部分は所々ぼやけ、夢を見ている人物が覚えていないように見えた――それから、また階段、そして別の扉。この扉も彼らが近付くと開いた。その後で廊下は更に複雑な経路をたどり、右へ左へと折れ曲がり壁には数え切れない程の扉があったが、おかしなことにどれ一つとして開く本物の扉では無かった。

フェンリエルは、彼らが通り過ぎているこの夢の廊下が堅固なイメージを持っていることから、あるはどこか現実世界の、アンダースが良く知っている建物の、本物の廊下に基づいているのかも知れないと考えていた。だが夢に良くある様に、ただ重要な部分だけが――アンダース自身に取って重要な――残っていた。ここは彼がよく使った通路か、何かに通じる経路で、時折現れる台座に載った不定形の像や壁の模様は、メイジが通り過ぎる時に記憶に留めていた目印だったのだろう。

ここの静けさはひどく不気味だった。現実世界でこういう場所に聞こえそうな音は一切、聞こえなかった。遠くから聞こえる人の声も、ネズミが壁越しに石壁を引っ掻く音も、石造りの回廊を空気が通り抜ける時の唸りも、水の滴る音も、何も無かった。

やがて彼らはL字型の部屋となった場所に到着した。そこは廊下より遙かに詳細に描写されていて、壁は幾つもの本棚と一人用の寝台で埋め尽くされ、テーブルの上はポーションを作る材料や器具が山積みで、床にはボロ切れが散らばっていた。そして別の扉が、彼らがやって来た方角へと向かって開いた。

そこは広く長い、明るい廊下だった。もう青白い松明は見当たらず、光源も影も無い、淡い青色の輝きで満たされていた。ここはそれまで通ってきたどの場所より、遙かに詳細に描き込まれていて、眠れる心の持ち主がはっきりと、詳細に覚えている場所と思われた。このような地下に不似合いな程の、大きく美しい大理石のタイルが廊下の床に敷き詰められ、床から彼らの頭の高さまで彫り込みのされた石が連なり、その上に石を積んだ壁が更に同じだけの高さを覆っていた。装飾性の高い柱とアーチが壁を幾つもの区画に区切り、途中の左側には、金色の器を掲げた女性の像があった。
そして、何かしら音も聞こえた。廊下をゆっくりと行き来し、時折磨かれた石の上を擦る足音。間違い無く、メイジがしばしば歩いて通り過ぎた場所だろう。

広い廊下の突き当たりには、廊下と同じくらい詳細に写し込まれた別の扉が有った。この扉はさっきの”扉で無い扉”より少し小さかったが、それと似た不穏な雰囲気を漂わせ、やはり霜のような結晶に覆われて輝いていた。だが間違い無く、この扉は本物だった。そして彼らが近付いても開こうとはせず、彼らの行く先を阻んでいた。

フェンリエルはその前に立ってためらい、再びウィスプ達の意見を聞いた。この奥へ進め、と彼らが示すイメージは主張していた。この扉に触れるのはためらわれたが、致し方なく彼は霜に覆われた木の扉に手を触れた。外観から彼は痺れるような冷気を半ば予想していたが、しかし何の感覚も無く、表面に触れたという感覚さえ無いまま扉がゆっくりと開いた。

二人はその奥の、大きく四角い部屋に足を踏み入れた。部屋の大部分を大きく二つに仕切られた部屋が占め、その左手に見える鉄格子が三つ目の部屋を構成していた。明らかに、牢獄か何かだった。

そして、そこには先客が居た。

貴様か!」とフェンリスは叫び、その顔は一瞬のうちに不信と嫌悪に歪んだ。彼はフェンリエルと、その独房の中に立つ輝く幽霊のような姿との間に立ちはだかると、その手には巨大な両手剣が現れ、必要とあらば何時でも攻撃出来る姿勢を取った。
「貴様がここにいるのは、ある意味当然だろうな」とフェンリスは吐き捨てるように言った。

その姿は彼らの方に振り向いた。フェンリエルはハッと喘いで息を飲んだ。彼はこれまでにもフェイドでスピリットと会ったことがあったが、こんな姿は一度も見たことが無かった。それの上半身は、これまで彼が見たことのあるスピリットに似た、ヘルメットと鎧を着用した男性に似ていないこともない姿をしていたが、しかし下半身は……まるきり、でたらめだった。
そこは次々と姿を変えて、有る時は大蛇のような太い尾、また有る時は巨大な鎖とボロ布を細い足首にまとった痩せた脚、有る時はメイジのようなローブ姿、また有る時は雪嵐の中の舞い散る雪片に似た煙に満たされ……。

「あれは……なんだ?」と彼は聞いた。

「ヴェンジェンスだ」と、フェンリスはその奇妙な姿から目を離すこと無く答えた。
「アンダースに取り憑いたディーモンだ」

「ディーモンでは無い」とその姿が、穏やかな声音で静かに答えた。
「我はもはや、かつてヴェンジェンスと呼ばれた歪んだ存在では無い。我は、自らを取り戻した。我はジャスティス」

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