第16章 欠片

「どういうことだ?」とフェンリエルは、剣を構えるフェンリスに低い声で尋ねた。

フェンリスはフェンリエルをちらりと見ると、また彼の注意をその存在に――スピリットかディーモンか何であれ――に戻した。
「アンダースはただのアポステイトではなく、アボミネーションだった。彼はあの、自らを正義の精霊だと主張すると、彼の身体を共有していた。そもそも彼がカークウォールのチャントリーを爆破したのも、この化け物に唆されてのことだ。ずっと以前から俺は、やつがスピリットなどでは無く、単なるディーモンだと疑っていた、もしその二つに違いがあるとすればだがな」

「その説明は全体としては正しい」とそのスピリットは言った。
「だが、我らが一体となったことが我をねじ曲げたのでは無い。フェイドから、我が兄弟から引き離されたことが誤りの始まりであった。裁きの手を押しとどめる慈悲も、あるいはそれを和らげる憐憫も無きところで、何が正義であるのか?我はそなたらの世界で、均衡を失っていた。それこそが我を歪めた原因。彼の記憶にあった不正義は、我がこの世界での正しい居場所を失った直後に始まった歪みを決定づける、最後の一本の藁であったに過ぎぬ 1

そのスピリットは身を翻すと、彼の正面にある牢屋に目をやった。
「あのテンプラー共が我らを破壊しようと試みた時、アンダースはどのようにしてか、我をフェイドへと送り返してのけた。彼からの、最後の贈り物であった。我は彼の心を完全な姿で護ろうと試みたが、彼から隔てられていては、全てを覆い隠すことは不可能であった。あの者共がトランクィルの儀式を行う度に、彼の心は更に砕け、壊れ、飛び散っていった。そして最後には、かつて彼であった男の、壊れた欠片のみが我の手元に残った」

彼は二人に振り返った。
「それから我はここに残り、彼に残ったものを護っている。フェイドのディーモン共は、理性を、自制心を失ったメイジを常に血眼となって探している。彼らはこの僅かな欠片も喜んでむさぼり食い、彼を真のアボミネーションに変えるであろう。だがその他に、彼自身の暗い恐怖に満ちた記憶からも護っている。我は必要とあらば、そなたらからも彼を護ろう。ここで何をするつもりか?」

「僕達は彼を癒やす方法を探してる」とフェンリエルが説明した。
「もし出来ることなら」

「何故だ?」

「幾つか理由はあるけど、一番重要なのは、何故トランクィルの儀式が彼に対して効果が無かったのかを知りたい。彼は今でもメイジで、感情を表すことが出来る。君は同じ儀式が、ホークに対しても行われたのには気付いたか?」

一瞬の沈黙。そしてジャスティスは頷いた。
「然り。それが行われるのを、我はアンダースの目を通じて見た。彼女を救うことは出来なかった」

「彼をトランクィルに変えてしまうのを防いだのが何であれ、それをホークを癒やすために利用出来ないか、そう僕達は願ってる。かつて彼女自身だった存在を取り戻すために。そのためには、僕達はまず彼に話を聞けるようにならなきゃいけない。彼も、正気で返事が出来るようで無くては駄目だ。君には、僕がソミアリだと判るだろう――もし彼の心が正常に戻れば、僕はここで、夢の中で、彼から話を聞ける」

「このスピリットが儀式の間もその場に居たとすれば、彼もまたその答えを知っているかも知れない」とフェンリスが唐突に指摘した。

ジャスティスは僅かに身を捻り、彼に正対した。
「我から答えを求め、彼をその苦しみの中に残すというのか?」と彼は敵意に満ちた声で尋ねた。フェンリエルは身体を強ばらせた。もしこのスピリットが敵対すれば、ひどく危険なのは間違い無かった。

「いや、俺は彼を今の状態のまま残してはおかない」とフェンリスは静かに答えた。彼は突然姿勢を正し、剣を背に収めるような動作をした。その剣は、夢の中の全てがそうで有るように、最初から無かったかように消え失せた。
「もし彼を癒やせるものなら、俺はそうしてみせる。フェンリエルに手を貸せることがあれば、俺は何でもしよう」

ジャスティスは長い間じっと立ちつくしていたが、やがて両腕を胸の前で組むと、エルフに向かい礼をした。
「そなたの言を信じよう」と彼は言った。
「どのようにして儀式が効力を示すのを防いだか、我は知っている。アンダースを癒やすが良い、しかる後、我はそなた達がホークを元の姿へ戻すのを手伝うことになろう」

「彼に会えるか?」とフェンリエルは尋ねた。

スピリットは一歩横へ退くと、片手で牢屋の扉を示した。フェンリエルはその側に寄って、開いた扉から中を覗き込んだ。

juteその夢の中の牢獄は小さく、石の床は黴びた藁に覆われ、粗く織られた荷袋のような、薄っぺらい毛布が床の怪しげな染みを覆っていた。壁の側には、最低限の小枝を編んで強い革紐で結んだだけの寝床があった。そして天井からは両端がフックと手錠になっている鎖が垂れ下がっていたが、鎖のほとんどは遙か頭上に巻き上げられ、僅かに揺らいで微かな音を立てていた。
しばらくの間他には何も見えなかったが、やがて彼の眼が部屋の反対側にあった毛布の塊から、一束の汚い金髪がはみ出しているのを捕らえた。

「アンダース?」と彼は静かに呼んだ。

「彼は話はしない」とジャスティスが言った。
「中に入るが良い。我は広間を守らねばならん」

そう言うとスピリットは背を翻した。フェンリエルは唇を噛むと牢屋の中に入り、フェンリスも静かに彼の後に続いた。フェンリエルはためらい、その毛布にくるまれた姿を眺めた後、側に膝を付いて屈み込んだ。

「アンダース?」と彼は再び言うと手を伸ばして毛布の端を掴み、優しく引っぱって取り去った。不揃いなおかっぱ頭の後ろから、怯えた目の子供が彼を見返した。色白の肌は泥に汚れていた。その姿は見守る内にも変化し、年を取った――子供では無く、少年になった。その目はやはり、恐怖に見開かれていた。

フェンリスがテヴィンター語で毒突いた。フェンリエルにもその理由が判った―痩せこけた頬をした少年の背には、ごく最近鞭打たれたみみずばれの跡がはっきりと残り、肌は様々な色の痣で覆われていた。その姿は再び変化して、みみずばれは薄い傷跡へと代わり痣は大部分が消え失せたが、また新たな痣が別の場所に加わっていた。そして再び変化し――もはや少年ではなく、青年と大人の間のどこかで、背に傷は無かったが顔には涙の跡が幾筋も残っていた。
そして常に、その眼には恐怖の影が色濃く漂っていた。

二人とも、突然牢屋の外から響いた、鋭く剣を打ち合う音に飛び上がった。アンダースは小さく叫ぶと、再び毛布の下に身を隠した。フェンリエルは立ち上がり、彼の姿に気分が悪くなるのを覚えながら急ぎ足で牢屋の外へ出た。

ジャスティスがちょうど剣を鞘に納めたところで、彼の―不安定な―足元には、鎧に身を包んだ男性の漠然とした形が横たわり、既に消えようとしていた。

「ディーモンか?」とフェンリスは、警戒するようにそれを見つめて聞いた。

「否。彼の悪夢の一部だ」とジャスティスは答えて、彼らの方に振り向くとフェンリエルを見つめた。
「彼を救うことが出来ようか?」

「まだ判らない。儀式が行われた時に、彼に何があったのか教えてくれ――さっき君は、彼の心が砕けてバラバラに飛び散ったと言ったね?」

「然り。記憶、思考、経験、それらの彼をアンダースとしていたもの全てが……乾いた粘土の様に砕け、散らばり、欠片がフェイドへと飛び散って行った。出来うる限りのものを、我は捉えた。全てが終わった後、我は手近に留まったその欠片を寄せ集めたが、だが遠くへは行けなかった――今のひどく傷つき弱った状態の彼を、一人残して行く事は出来ぬ。たとえディーモンが手を出さずとも、彼自身の記憶が彼を真の狂気へと導くだろう。もはや、彼には自身の記憶から身を守ることさえ出来ぬ。それ故我は彼と、その最も暗い記憶との間に立ち、出来うる限り彼を護っている」

フェンリエルは頷いて言った。
「じゃあ、その散らばった欠片を集めなきゃね」

「その通り。だが、見つけ出すのは難しいやも知れぬ。フェイド一面に散らばり、他の者の夢の中に姿を止めているに過ぎぬからな。だが、ウィスプが助けとなろう」と彼は付け加えて、二人の頭上に漂う数匹を見つめた。
「彼らの手を借りても、困難な事は変わらぬ。その欠片はもはやアンダースの姿を止めてはおらぬ、樹から剥がれ落ちた樹皮が樹の姿を止めず、山から転がり落ちた石塊が、山の形をしてはおらぬように」

フェンリエルはゆっくり頷き、辺りを見回して顔をしかめた。
「随分長い夜だったね。フェンリスと僕はもうすぐ目が覚める」と彼は言った。
「どうやって探せば良いか考えてみるよ。僕達は明日か、その次の晩には戻って来て、捜索を始めてみよう。その欠片ね、見つかったら、君のところへ持って来るべきかな?」

「然り」

「それでどうするの?」

「ひとたび、充分な数が集まれば、それらは再び全き姿へと戻る。大海から沸き上がった雲は山に雨を降らせ、水が川を下り、再び大海へと戻る。そなたの戻りを待とう」とジャスティスは言うと、再び扉に向かって防御の構えを取った。


まだ夜は明けていなかったが、フェンリエルが近くの窓から外を見上げた時には、既に空が白み始めていた。
フェンリスが大きく息を吐いたかと思うと、突然ベッドの上に真っ直ぐ座り直して、辺りを見渡した。フェンリエルはエルフの寝室に運び込まれた移動式ベッドの上で横たわったまま、彼を見上げた。

「随分と奇妙な体験だった」とエルフは言った。

「本当だね」とフェンリエルも同意した。
「この、正義の精霊について後でもっと聞かせてくれないか。どうやってアンダースの一部になったかも。あれは、ひどく変わったスピリットだった――前にもフェイドの中でスピリットと話をしたことはあるけど、彼らはもっと単純な生き物で、彼らを定義づける美徳や概念に、もっと集中していたよ。あんなにはっきりとした会話をするスピリットに会ったことは無い。はっきりしていると言うだけじゃなくて、随分と詩的で、例えを使いこなしてる。そう言う会話をするのは、普通のスピリットの単純明快な思考じゃ手に負えないからね。そもそも例えを使おうにも、現実世界の比較対象となるようなものを知らないし」

フェンリスは微かに顔をしかめて頷いた。
「俺の知っている事は全て話そう。長い、時には辛い話だ。だがまず起きて食事にするとしよう。今日も色々話し合うことが多そうだ」

フェンリエルも喜んで同意した。

Notes:

  1. “The Last Straw” :DA2のクエスト名にもあった。”It is the last straw that breaks the camel’s back.”ラクダの背にぎりぎりの荷物を積めば、例え藁一本であっても最後に積んだその藁が背骨をへし折ってしまう、転じて「何事にも限界がある」というような意味の英語の諺。
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