第21章 感情

フェンリスがリリウムを輝かせて素早く二人の間に立ち、大きく両手を広げたとき、フェンリエルはまだアンダースの反応にただ驚いたまま、セバスチャンと年長のメイジとの間をせわしなく見比べていた。
「待て!彼は友人だ。アンダース、今君はスタークヘイブンに居る――もう何年にもなる、彼と俺が、君とホークを見つけてから」

アンダースは凍りつき、フェンリスとセバスチャンの間で慌ただしく視線を動かした。そして身構えていた姿勢をゆっくりと正し、両手を降ろした。ようやく彼は小鼻を膨らませて大きく息を付くと、不安げにセバスチャンの方に向けて頷いた。フェンリスはリリウムの輝きを消した。

「済まなかった、このように飛び込んで来るのではなかったな。君がここに居るのはもう当たり前のように思っていたが、君にとってはスタークヘイブンに居るというのは思いも寄らなかったことだろう」とセバスチャンは静かにフェンリスの側に歩み寄りながら言った。
「同席しても構わないだろうか?」

アンダースはゆっくりと頷き、席に座った。フェンリスとセバスチャンも、テーブルへ向かって席に着いた。メイジと大公は言葉もなく、互いの顔をしばらくの間見つめていた。

ようやくセバスチャンが話し出した。
「私の希望を……君は知っているだろうか?君が、ホークを癒す術を知っているというのは?」

アンダースは頷き、フェンリスの方を見た。

「ジャスティスが言うには、俺達がアンダースをホークのところへ連れて行けば、彼には何をすれば良いか判るから、それにジャスティスが手を貸すという。だがその前に彼を身綺麗にして、食事を済ませていたところだ。君が来る直前まで、なぜフェンリエルがここに居るのかを話していた」
とエルフは静かに説明した。

セバスチャンは期待を込めた目で見つめた。
「すると、可能性があるということか?ホークを、以前の姿に戻すことが?」

アンダースはゆっくりと頷き、片方の手を上げると小さく左右に振った。

「以前の姿とまるきり同じというわけじゃない?」とフェンリエルが推測した。

アンダースは再び頷いた。それから話し出すように口を開け、苛立たしげな音を発すると辺りを見渡した。彼は片手を上げたまま指を少し曲げ、机の上でその指を振りながら同じ方向へと動かした。

フェンリスとフェンリエルは共に訳が分からないと言った様子で顔をしかめた。セバスチャンは無色の表情でそれを見ていた。アンダースは再び苛ついたような音を発して、より指の振りを強調しながらその動作を繰り返した。

「ああ!字を書きたいのだな?」とセバスチャンが唐突に、判ったと言うような明るい表情を浮かべて尋ねた。アンダースは勢いよく頷いた。

フェンリスが立ち上がって部屋の反対側の机に行き、紙とペンと、インク壺を持ってくると、アンダースのねじれた手で扱うのは無理だろうと、彼自身でその壺を開けアンダースの前に並べた。

そのペンを歪んだ手で支えられる掴み方を彼が見つけるまで、しばらく時間が掛かった。それから彼はまるで苛立った猫のように歯の隙間から喉音を響かせながら、どうにかペン先をインク壺に漬け、再びペンを持ち上げ、余分のインクを落として、紙の上に置いた。
彼は手首にもう一方の手を添えて、どうにかその先端を紙の上に引きずり、そこら中にインクを散らばらせながら、大きく歪んだ文字を書いた。

フェンリエルは静かに立ち上がり、彼の背後に歩み寄って、肩越しに年長のメイジが書こうとしている文字を見た。
「彼女は違って見えるだろう」と彼は読み上げた。
「感情が……圧倒する?最初は静けさが必要。僕ともう一人」

アンダースの大きな文字が、それだけの文章で紙を埋めた。彼は周囲の男達を見渡した。

セバスチャンは頷いた。
「彼女が必要とする物が何であれ、整えさせよう」と彼は言った。
「静寂も、隔離も、何でも」

「僕ともう一人というのは?」とフェンリスが聞いた。

「彼女が癒される時に周囲に居る人が、出来るだけ少ない方が良いってことだと思う。アンダース自身と別の一人?」

アンダースは頷いた。

「誰が望ましいか?私自身か、フェンリスか、フェンリエル?それともまた別の?」とセバスチャンが聞いた。

アンダースはセバスチャンとフェンリスをそれぞれ見比べた後、頭を振って、さっき書いた単語の一つをインクに汚れた指で叩いた。

「感情」とフェンリエルが呟き、それから他の二人を眺めた。
「彼女は君たちのことを、とてもよく知っているだろう?だから二人の顔を見るだけでも、もの凄く感情が高ぶるだろう」

アンダースはその言葉に頷いてみせると、椅子の中で身体をねじって、フェンリエルと彼自身を交互に指さした。

「さて、そうすると話ははっきりしたな」とセバスチャンがやや残念そうな声音で言った。
「君とアンダースだけだ。だが、彼女を癒す間、私とフェンリスは表で待たせて欲しい。もし、その後で、彼女が我々に会いたいと思ったならば……」
セバスチャンは言葉を切った。彼の声はひび割れ、激しく目を瞬かせていた。それから、彼はかすれた声で言葉を押し出した。
「もし彼女が我々に会いたいと思うなら、側に居てやりたい」

アンダースは頷き、セバスチャンを見る彼の顔に初めて、暖かな表情が浮かんだ。

「いつ……何時始められる?」とセバスチャンが聞いた。

アンダースは立ち上がり、扉の方を見た。

「今から」とフェンリスが言って、彼も立ち上がりながら笑みを浮かべた。


フェンリエルは背後で扉を閉め、アンダースの方へ向き直った。年長のメイジは完全に身動き一つせず、そこに座っている女性を見つめていた。その姿は、もう何日も前にフェンリスが彼女の元を訪れた時の立ち姿を思い出させた。
ホークはまた刺しゅうをしていたが、刺しゅう糸の色合いは前に訪れた時とは変わっていた。

しばらくして彼女が二人の存在に気付き、全くの無表情の、額に黒々とトランクィルの焼き印の跡を残した顔で彼らを見上げた。彼女を見つめるアンダースから、しゃくり上げるような音が聞こえた。彼の手と肩は震えていた。

それから彼は再び動き、ゆっくりと部屋を横切って彼女に近づいた。
「マリアン」と彼は張り詰めひび割れた声で言った。

「アンダース」と彼女は、あくまで平静な、空虚な声で答えた。

彼は彼女の前で片膝を付くと、片手の指先を伸ばし彼女の頬に軽く触れた。彼女は何の反応も見せず、ただそこに座って彼を見返していた。それから、アンダースはゆっくりと手を伸ばして、片手で彼女の額の焼き印を覆った。

「マリアン」と彼は、更に大きな声で言った。同時に微かな青白色の輝きが彼の手から沸き上がった。

彼女は身をこわばらせ大きく喘いだ。淡い青色に輝く炎が彼女の目に、そして肌のひび割れの隙間から沸き上がり全身を包み込んだ。フェンリエルは驚いて凍り付いた。彼はこれまでこんな光景を見たことが無かった。何か邪悪な魔法かもしれない、彼女から引きはがすべきだ、一瞬彼は真剣にそう考えた。

だがその時、彼女の目がアンダースの肩越しに彼と会った。
「我が約束は果たされた」というその声は、彼女自身のものでは無かった。あの精霊、ジャスティスだとフェンリエルは思い出し、駆け寄る足を止めた。
「彼女は癒された」

青色の輝きは次第に薄れて消え、皮膚のひび割れも跡形も無く消えさった。ホークはまだそこに座ったまま、じっとアンダースの顔を見下ろしていたが、一声すすり泣いたかと思うと唇を噛み、両目から突然大粒の涙が溢れ出した。

「アンダース!?」と彼女はひび割れた声で叫ぶやいなや身を乗り出し、彼の肩に両腕を回して、泣き始めた。


ホークが彼らに話を聞こうとする度に泣き出すのを、止められるようになるまで殆ど丸一時間が掛かった。ようやく彼女は落ち着きを取り戻し、窓枠に腰を下ろしてアンダースにもたれ掛かり、彼の手を片手で強く握りしめたまま、彼女の前の床に足を組んで座っているフェンリエルが、どのように彼女と彼がここにやって来たのか、どうやって彼女を癒す事が出来たのか語るのを聞きながら、鼻をぐずぐずとさせていた。

「ここに居たことは、もちろん覚えてるわ」と彼女は、まだうねる声で言った。
「いっぱい作ってたのよ、私」と彼女は辺りに散らばる色とりどりのクッションの方に手を振った。
「クッションを、こんなに沢山」と信じがたいといった声音で言うと、涙を溢しながら今度はおかしくて堪らないように笑い始めた。アンダースは彼女の泣き笑いが止まるまで、片腕を肩に廻して抱きしめていた。

彼女はやがて顔を上げると、近々とアンダースの顔を覗き込んだ。
「ああ、何てひどいこと……あなたの額!」と彼女は言い、焼き印の跡がいくつも残る額に指で触れた。
「やつらは何てことを!」

アンダースは空いた方の肩を竦めると、唇を曲げて笑った。彼女は再び鼻を大きくすすり、彼の閉じられた唇に触れた。彼は既に、なぜ自ら彼女の問いに答えようとしないのか、その断ち切られた舌を見せていた。

「何か出来ることは無いの?あなた自身でそれを治すのは無理?」と彼女は言った。

彼は頭を横に振った。彼女は溜息を付いて、彼を抱きしめる腕に力を込めた。
「じゃあ私達、あなたの今の話し方を聞き取れるようにならなきゃ」

彼女は涙を袖で拭いて、まっすぐに座り直すと部屋の中を見渡した。
「私、セバスチャンに会わないといけないわね」と彼女は言った。
「彼は近くにいるの?」

フェンリエルは微笑んだ。
「彼もフェンリスも、すぐ表で待っているよ」と彼は言った。

彼女は頷き、再びこぼれそうになる涙を瞬きしてこらえた。
「セバスチャンだけ、お願い」と彼女は言うと、はにかむように微笑んだ。
「二人だけで」

アンダースは頷き、彼女の肩をもう一度抱きしめると立ち上がった。彼女も彼の手を固く握りしめてから、ようやく手を離した。
「また後で話しましょう」と彼女は熱心な表情で彼を見上げながら言った。
「知りたいことが、まだ沢山あるの」

彼は頷き、扉の方へ歩み去った。フェンリエルもホークに礼をしてから彼の後を追った。

アンダースとフェンリエルが廊下に出ると、フェンリスとセバスチャンは二人して飛び上がった。「あなたに会いたいと言ってます」とフェンリエルがセバスチャンに言った。

大公は顔を輝かせると、メイジ達の側を駆け抜けて部屋に飛び込んだ。フェンリエルが振り向き、扉を閉めようとした時、彼は既にホークの側に両膝を付いて、彼女の膝に頭を埋め両腕で彼女を抱き、ホークも身を乗り出して、彼の身体に両腕を回していた。

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