第26章 豪雨

旅の最初の数日は好天に恵まれた。アンダースの肌からは青白さの名残が消え、フェンリエルは二日目に丸一日、舷側から釣り糸を垂らしていたせいで、ひどい日焼けになった。上からの陽射しと、川面からの反射が合わさると、時には火傷のような症状を起こすことがあった。アンダースは密かに日焼けのひどいところを治したが、それでも若いメイジの頬と鼻頭は真っ赤に皮が剥けてしまった。フェンリス自身と言えば、元々人生のほとんどを屋外で過ごして来た事も有って、その淡い褐色の肌を少しばかり色濃くしただけで済んだ。

川沿いの風景は、スタークヘイブン郊外のブドウ畑に覆われたなだらかな丘陵と小さな木立から緩やかに移り変わり、次第に畑や色濃い森林の姿が増えていった。そこから更に東の大きな森の端に着けば、そこがスタークヘイブンとアンズバーグ、そしてマークハムの国境地帯だということをフェンリスは知っていた。スタークヘイブンと河口近くの湿地帯に挟まれた荒れ地が、この川辺で唯一ならず者達がはびこる領域ではあったが、そこもどうということは無かった。頻繁に船が行き来していたし、国境を警備する人々が目を光らせていた。

船の上では大してやることは無かった。船員達の通行の邪魔にならないところで釣りをして、彼らの食事の補給とするか、あるいはそれほど忙しく無く、話をしようという気分の船員と話をすることもあった。メイジ二人は日中のほとんどを読書や書き物をして過ごしていた。フェンリスも一冊か二冊お気に入りの本を持ってきていたが、短い川旅の間にそれを取り出して読もうという気にはなれなかった。それで彼は釣りをしたり――時折釣れる川魚は、そのまま水桶に放り込んで船の厨房に渡した――人気の無い船尾の甲板で剣の練習をしたりした。
その日の午後、フェンリスはそのために買っておいた柔らかな綿布と糸を取り出して、室内着のシャツを作っていた。思ったより早く出来上がったことに気を良くした彼は、襟元とそして袖元に、かなり複雑なブドウの葉とつるの模様を注意深く刺しゅうしていった。

「あんた、随分上手いもんだね」と船長の妻が、中甲板で仕事をしながら頭を捻って彼の方を覗き込んむと言った。彼女の手には皮を剥く途中のジャガイモがあり、魚とジャガイモのシチューを作る途中のようだった。そのシチューの中に入る魚のほとんどを供給しているからには彼らにも分け前を貰う権利があり、少なくともアンダースとフェンリエルはそのことを喜んでいた。フェンリスは船の上での釣りは好きだったが、よほどの事が無ければ魚を食べたいとは思わなかった、たとえそれが彼自身が今朝釣り上げたばかりの新鮮な魚で、ピリッと爽やかなスパイスで上手く味付けされていても。彼は今夜の夕食には、旅行用の食料を出して食べるつもりだった。

「ありがとう」と彼は答えた。
「何か手を動かしていると時間が過ぎるのも忘れるようだ」

「そうさね」と彼女は頷いた。
「もっともあたしがやるのは精々簡単な繕い物くらいで、新品を作るなんてことはめっそ無いし、ましてそんな綺麗な刺しゅうはね。面倒臭くなっちまうよ。編み物くらいかな、あれはあんまり面倒に思わないで出来るけど」

「俺も一度だけ、編み物をやってみたことがある」とフェンリスが答えて、その記憶に微笑んだ。
「『ジャックの雄鹿』のジャコウが俺に手ほどきしてくれた」

「ああ、あいつか」と彼女は鼻を鳴らして言うと、愉快そうに顔をほころばせた。
「あのボケナスと来たら、この河最悪の運の持ち主さね。行く先行く先で砂州にぶち当たるんだ。だけどあいつの編むセーターは最高だってのは確かさ。座礁してる間にたっぷり練習するんだろうよ」

フェンリスはくすりと笑った。
「俺が彼の船に乗っていた間に、砂州に二度、流木に一度突っ込んだことを考えれば、君の言葉に同意しない訳には行かないな。彼から教わって、旅が終わるまでにはどうにか真っ直ぐの編み目を作ることは出来るようになったが……いや、真っ直ぐというわけでも無かったな。真四角で有るべき編み目が、うねっていた」

彼女は声を出して笑った。
「あたしと同じだ、最初の頃はね。その内上手くなるさ。上陸中にうちの坊主共がみんな靴下を台無しにしちまうのを考えれば、編み物が出来るのも悪くないさね」

フェンリスは頷いた。
「もっとも、俺はその方は大して気にしたことは無いが」と彼は言うと、ほとんど裸足と言って良い彼の足を上げて見せた。

彼女はニヤッと笑った。
「エルフは滅多に気にしないみたいだ。さて、芋の皮も剥けたし鍋にぶち込んでくるか」と彼女は言い、立ち上がりながらフェンリスに頷いて挨拶すると、大鍋一杯の皮を剥いたジャガイモを軽々と持ち上げ、中甲板の前方にある、砂を敷き詰めた火床へと持って行った。船で何よりも恐ろしいのは火事であったから、火を使った料理が出来るのは風の穏やかな日に限られていた。

フェンリスも取りかかっていた葉を縫い終えてから、船尾の彼らの区画に戻り、彼の作品を荷袋の中に入れ、鋭い針は小さな骨で作られた筒の中にきっちりとしまい込んだ。フェンリエルは小さな木片から何かを削りだしていて――その形からすると、猫か牛のようだった――アンダースは微かに顔をしかめながら、熱心に新しいペンで何か書いていた。

フェンリエルがセバスチャンの職人達に作らせた新しいペンは、実に上出来だった。アンダースは今ではずっと容易く字が書けるようになったが、やはり筆記体よりは単純なブロック体が書きやすいようだった。作られたペンのほとんどを彼はスタークヘイブンに残して、一番のお気に入りだけを持って来た。全てを持って行くのは大変だったし、旅の間に壊れるかも知れなかったから。

彼お気に入りのペンは、一本は曲がった角で、もう一本は軽い金具となめし革で出来ていた。革製のペン――正確にはペンを持つ治具――は堅くなめされた軽い革から出来ていて、継ぎ合わされた二つの部分の間に挟みこむペン先は自由に交換でき、アンダースは革で出来た大きな耳たぶのような部分を軽く握るだけで、ペン先をしっかり保持する事が出来た。
他にもメイジが一目見て気に入った、美しい深緑色の吹きガラスで出来たペンがあった。しかし材質の硬さから長く持っているのは難しく、また旅行の間に壊れる恐れもあった。それでそのペンは実用と言うよりむしろ観賞用として、一度だけ使った後で丁寧にしまい込まれ、やはりスタークヘイブンのフェンリスの部屋に残された。

フェンリスはしばらく彼らの側に座って川辺の景色を眺めていた。やがてそれにも飽きた彼は、二人のメイジの様子を眺めることにした。フェンリエルは眉をひそめて集中する様子で、何かとりわけややこしい彫りの部分に取りかかっていた。次第に形が明らかになってきたその彫り物は、どうやら狼かコヨーテ、あるいはキツネ、ともかく何か痩せたイヌ科の動物のようだった。アンダースはというと、書き物を止めて頭を壁に持たせかけると、目をつむって頬を撫でる川風と陽射しを楽しむようだった。彼らは下甲板の船尾側に居たから、船が太陽と反対側へ向けて走っている間はたっぷり温かな陽射しを享受できた――もっとも、これも長続きはしないだろうと、フェンリスは考えた――彼の記憶が正しければ、この曲がりくねる大河はまたすぐに向きを変えるだろう。

フェンリスの鋭敏な耳に微かな遠雷が聞こえ、彼は立ち上がると辺りを見渡した。遙か東の上空に黒い雨雲が見えたかと思うと、彼の見守る間にも幾筋もの白い雷光が雲と地面の間にきらめいた。それから、たっぷり数秒数えた後でようやくゴロゴロという微かな雷の音が、川と船の発する音の向こうから彼の耳に届いた。

「どうやら、今夜は雨になりそうだ」とフェンリスは雨雲の距離と、彼らの進む方角を確かめながら顔をしかめて言った。フェンリエルとアンダースも手に持った物を置いて立ち上がると、同じ方角を眺め、アンダースは嬉しく無さそうな様子で唇を薄く引き結び、フェンリエルのひそめた両眉は、今は集中よりも不安を示していた。

「ここに来るまでどのくらい掛かるかな?」と若いメイジが尋ねた。

「二時間と言うところか、あるいはもう少し。雨が降り出す前に片付けて、荷物と俺達共に雨避けの下に入らなくてはな。雨避けについて、船長と話してこよう」

この船の小さな船室は既に船員達と彼らの荷物で一杯で、空いた隙間にはあらゆる雨を嫌う荷物や、ハンモックや、食料品が詰め込まれていた。三人とその荷物のための場所は無かったが、船長は気前よく大きなロウ引きの防水帆布とロープを貸してくれた。フェンリスとフェンリエルは既に船の旅で充分な経験を積んでいたから、手分けして船壁沿いに雨避けのテントを作り、彼らの荷物をその中にしまい込んだ。これで甲板を洗う雨水はともかくとして、びしょ濡れにはならずに済むと思われた。恐らく今夜はひどく湿気った居心地の悪い夜になるだろうが、それだけのことだった。
彼らは斜めに張った帆布の下に早々に引きこもり、フェンリエルとアンダースは船長の妻からたっぷり分けて貰った温かな魚とジャガイモのシチューを、そしてフェンリスは乾燥したソーセージと旅用の堅パンを、ぬるい紅茶で流し込んだ。

彼らは横にはならず、寝袋を身体に巻き付けて暖を取りながら、壁沿いに背を持たれたまま座ってその夜をやり過ごすことにした。防水帆布は屋根の代わりであると同時に彼らの座る敷布代わりにもなり、甲板を伝う雨水に身体を濡らさずに済むと思われた。そして彼らの体重自体が重しとなって、この布一枚のテントが強風に煽られて吹き飛ぶのを防ぐことだろう。

近付く嵐はその頃には耳をつんざくばかりの轟音を響かせ、雷が途切れなくとどろき、稲妻が暗い空一面を青白い光で満たした。やがて激しい雨が川面を打つ、シューッという音が彼らの方に近寄ってくるのが判った。その音は次第に大きさを増し、やがて彼らの周囲は木の板と頭上の防水布を叩く雨粒の音に飲み込まれ、テントの中の温かな空気もさっと雨水で冷やされるのが感じられた。幸いなことにこの嵐はそれほどの強風を吹かせることはなく、船首と船尾で降ろした錨に支えられて、いつもより少しばかり横揺れが激しいという程度で済んだ。この付近の岸辺には入港できるような港は無かったが、この程度の嵐なら真の危険は無かった。

ひどく長い夜だった。彼らは船の揺れと、単調に続く雨音に導かれ、やがて座ったままうとうととしていた。時折空を切り裂く稲妻と雷鳴が彼らの目を覚ました。防水布のテントの下は湿気っぽく、尻の下から布を伝って染み渡って来た雨水が、彼らの寝袋に吸い込まれた。だが湿気っているだけならびしょ濡れより遙かにましだったし、頭上のテントが雨の大部分をはね除け、彼ら自身の体温を保ってくれた。

嵐がようやく彼らの船を通り過ぎて西へと去った時、まだ空は未明の暗がりのなかにあった。フェンリスはテントの下で、果たしてあの嵐がどこまで河を遡っていくのだろうかと思っていた。この同じ嵐が、明日、あるいは明後日、スタークヘイブンに雨を降らせるのだろうか?

もちろん彼には知る由も無かった。彼らは湿気った不快な寝具の中で、それでもしばらくの間寝入り、やがて日が昇り、船員達が旅を続ける支度を始めた音で目を覚ました。フェンリスは防水布をたたみ、メイジ達は湿気った寝袋を客室の低い屋根の上に広げると、彼らの荷物を重し代わりに載せて、そよ風に吹き飛ばされないようにした。彼らは皆疲れ果て、節々に痛みを感じていたが、身体を動かしたことと温かな陽射しがほとんどの痛みを癒やし、寝袋の乾いた後で三人が取った昼寝が残った疲れも拭い去った。

残りの船旅は何事も無く過ぎ去り、それから数日後に彼らはマイナンター河とマークハム河の合流地点にある、小さな通商都市の港に降り立った。フェンリスは川船を離れる時にいつも感じる、少しばかりの寂しさを胸に、顔馴染みとなった船員達に別れを告げた。彼は川船の船員になることを望む訳では無く、上流へ、あるいは下流へと渡る短い旅以上は望まなかったが、それでもいつも、この河の旅を彼は大いに楽しんでいた。

彼はメイジ二人を連れてその街の下町を通り過ぎ、マークハム河の側の小さな波止場へと連れて行った。そこにはマイナンター河のそれよりも、より狭く浅い水路に適した荷船が停泊していた。この河を利用する船は、上流に登る時は川岸から雄牛が引っ張っていくことになっていたが、下流にはより狭い河の利点である急流の恩恵を受けて、ただ漂い下ることが出来た。

波止場には荷船が二艘止まっていたが、どちらも明後日の朝までは出発しないとのことだった。フェンリスは上流へ向かう荷船に同乗する話を付け、それから川辺からそう遠くないくたびれた宿屋に部屋を取った。街一番の清潔で良い香りのする部屋、という訳には行かなかったが、少なくとも調理場から漂う匂いは旨い食事にありつけると保証していた。それに彼の様にメイジ二人と連れだって旅をするなら、宿屋に付きものの害虫に悩まされるとは彼には思えなかった。どんなメイジであっても、トコジラミやノミを始末するための魔法の一つや二つは覚えているのだから。

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第26章 豪雨 への3件のフィードバック

  1. EMANON のコメント:

    日焼けするフェンリエルかわゆしwwww

    そーか、日焼けがひどくてひりひりしても大丈夫なのかw
    てっきり日焼けしたフェンリエルにお薬塗ってあげるとか
    言ってアンダースがそのまま寝どかqwせdrftgyふjげふんげふん

    アンダースってどんなんなってもやることはいっしょなんだ(ヲイ

  2. Laffy のコメント:

    うひょひょひょ。コメントありがとうございます(^.^)
    きっと肩とか背中とか喉元とか、こう目立たないところをてーいねーいに(ry

  3. Laffy のコメント:

    おおっFendersがっ>Tumblr
    すんばらしい(*^O^*)

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