第20章 侵入者

第20章 侵入者

彼はよろめきながらクローゼットの扉を離れ後ろの壁につかまると、反対側に向き直り、壁にもたれて中につり下がった服で顔を覆った。連中が玄関扉を破ろうと殴りつける音が遠くから聞こえ、恐怖に泣き叫ぶのを抑えるのが精一杯だった。彼の目からは大粒の涙が頬を伝って落ちた。嫌だ。どうしてこんな事に?ようやく、この牢獄は少なくとも安全だと思えるようになった今になって……

彼は膝から床に崩れ落ち、両手で弱々しく服を掴んだ。彼は一声えずき上げた後、苦い胃液を吐き出し、それから嘔吐した。片手の服で顔を擦りながらしゃっくりと不規則な呼吸を繰り返し、もう一方の手は震えながら奥の壁をさすっていた。

「嫌だ…嫌だ、お願いだ、メイカー、何でもするから…」彼は呻いたが、その音はほとんど声となっていなかった。彼は震えながら、自分自身がバラバラになって漂い去り、身体の全ての制御を失うのを感じた。膀胱を閉じていた筋肉が弛み、彼自身の尿の鼻を突く臭いを嗅いだ。連中に見つかる以前に彼は恐怖から狂気に陥るだろう、一瞬の間、彼は不自然なほど冷静にそう考えていた。
やつらはここに来て、涙と吐瀉物、自らの汚物にずぶ濡れで悪臭を放つ、床の上で丸く縮こまった彼を見つけ、そこから引きずり出してどこかへ連れて行く、そして彼は決して、決して、もう二度とここへは……

彼の振り回す震える手が、青あざが出来るほど強く何かにぶつかった。カチッと言う音と共に壁が動いた。壁が、端を軸に回って、暗がりへと開いていた。

壁じゃない。扉だ。扉……どこかへ通じる扉。ここから離れたどこかへ。彼は恐怖にすすり泣きながら、手と膝を着いて起き上がると手足をバラバラに動かし前へと這いずった。
待てよ。もしこの扉を閉めれば、やつらには彼がどこに行ったか判らないかも知れない。やつらに、見つからなくて済むかも知れない。
身体の向きを変え、扉の端を見つけ、そこを押して再び閉めるまでに、永遠とも思える時間が掛かった。何かを考える事さえ難しく、彼の思考はあらゆる方向へと飛び去り、恐怖だけが一秒毎に大きくなっていった。扉が再び静かにカチリと閉まる直前、彼は確かに雷鳴のように響き渡る足音を聞いた。彼はパニックを起こし、狂ったように這いずって扉から離れると、頭を何か硬い物の表面に激しくぶつけた。しばらく彼の頭はくらくらしたが、奇妙な事にその痛みがしばらくの間恐怖を忘れさせ、思考をまとめるのが簡単になった。

彼は暗黒の中、片手を伸ばすとぶつかった壁をまさぐり、冷たく粗い感触の曲面だと気付いた。石だ。石の曲面。柱か?彼は手を下に降ろして平坦な表面に辿り着いた。床より一段上がって、柱から伸び、反対側は裁ち切りになった平面。その表面をなぞると、先で別の平面に指がぶつかり、それから上に登って、また奥へと伸びていた……階段。片方が狭く、もう片方が広い平面の段。中央の柱を巡る、螺旋階段だ。

彼は手と膝を着いて手触りだけを頼りに、暗闇の中すすり泣きとしゃっくりをしながら前に進み、とにかくこの階段が彼をどこか遠くへ連れ去ってくれる事だけを祈っていた。やつらに見つからないところ、やつらに捕まえられないところへ。


セバスチャンは唐突に目を覚ましベッドの上で起き上がると、何が彼を目覚めさせたのかと思いながら耳を澄ませた。寝室の片隅から、何か引っ掻く様な音が微かに聞こえた。一体何だろうと彼は用心深くベッドから立ち上がると、裸足のまま鎧掛けのところに行き、ベルトから彼のダガーを引き抜いて、眉をひそめながら静かに音のする方へと近づいた。

tapestry再び引っ掻く音が、今度はより大きく、壁のタペストリーの後ろから聞こえた。彼は暖炉に戻り、まだ熱を持った石炭で木片に火を付けると、それで3本立てのろうそく立てに灯を点した。彼が振り向くと同時に金属の擦れ合う音がして、タペストリーが大きく前に撓み、その後ろの暗がりから人影が転がり出てきて、床に腹ばいになった。

彼はろうそくを高く掲げ、ダガーを片手に持ったまま人影の方へ足を踏み出した。それから人影が、床を転がって仰向けになり、それが誰だか理解した瞬間彼は凍り付いた。アンダース。最後に見た姿から酷く様子を変え、恐怖から虚ろとなった目は大きく見開かれ、顔は涙と鼻水、嘔吐物で汚れ、彼の長袖の寝間着はそれら全てと、更にひどい汚物にまみれて悪臭がしていた。

メイカー!一体どうしたんだ!」とセバスチャンは驚いて駆け寄った。

アンダースは恐怖に裏返った声を出し、這って逃げだそうとしたが、瞬きを一回すると幾らか理性が彼の目に戻ってきた。
「セバスチャンか?」と彼は荒々しい声で尋ねた。

「私だ。おい、一体何があった?どうやってここへ登ってきたんだ?」

「階段。壁の中に」アンダースはそれだけどうにか吐き出すと、成人した男の声とは到底信じられない、殴られた犬のような甲高く惨めな声ですすり泣いた。彼の目は閉じられ、唇は半ば噛みちぎられて赤く血にまみれていた。ようやく彼は大きく身震いをすると、更に言葉を吐き出した。
「テンプラー。コテージにいる」

セバスチャンは悪態をかみ殺すと立ち上がり、ほとんど駆け足で寝室の扉に向かうと勢いよく押し開け、広間の衛兵達に大声で次々と命じた。一人に増援を呼びに行かせ、他の衛兵と共にアンダースが現れた階段へと戻った。衛兵の姿を見てアンダースは悲鳴をあげ、床を這いずって逃げだそうとした。数ヶ月前に城の地下のダンジョンで、このメイジが鎧姿の衛兵を見た時に酷く恐がった様子をセバスチャンは思い出すと、慌てて男の側に膝を着いた。彼はメイジの手の汚れを無視して自分の手に握り、恐怖の余り握りしめるその強い力に怯むまいと努めた。

「大丈夫だ、アンダース」と彼は出来る限り優しげな声で言った。
「ここならもう安全だ、私が居るぞ」

衛兵隊長セリンと部下達が数名、部屋に駆け込んできた。アンダースは鋭い悲鳴を上げるとセバスチャンにしがみつき、それから幸いな事に完全に気を失った。セバスチャンは急いでこの数分間の出来事を隊長に説明した。隊長は数名の部下を大公の護衛のために残し、別の一隊を階段から降りさせると、残りの隊員を率いて、庭を回って門から入るために大急ぎで出ていった。

セバスチャンは衛兵の一人に手伝わせて、意識のないメイジを寝室から居間を通って浴室へと運び込んだ。アンダースが目を開けたとき、鎧を着た衛兵の姿が目に入らない方が良いだろう。それに彼もメイジ同様、かなり切実に身体を洗う必要があった。ほんの一瞬、召使いを呼んで男の面倒を見させようかと思ったが、それから背中の傷跡を思い出し、この男にとって見知らぬ者に扱われるのは鎧姿の衛兵と同じくらい嫌な事だろうと考え直した。

彼は浴槽に湯を張り始めた‐ この城の王家専用区画に住まう利点の一つは、張り巡らされたドワーフ監修の配管システムのお陰で、蛇口を開ければ中央の大ボイラーから何時でもお湯が出てくることだった。それから寝室に戻って彼の護衛に清潔な寝間着とブランディを一瓶持って来させると、また居間を通って浴室へと戻った。アンダースの衣服の状態を見て彼は顔をしかめ、意識不明のメイジの服をどうにか脱がせると、自分のしている作業の中身を深く考えすぎないように注意しつつ、男の皮膚に付着している悪臭のする汚物を拭い去った。

彼は作業の間に、以前垣間見た男の傷跡が太腿にまで達していることと、鞭打ちの跡に付け加えて別の傷跡も有ることに気付いた。彼はひどく汚れた服を丸めて後で捨てるために便器*1に放り込むと、タオルを湯につけてアンダースの身体を更に拭き取り、その後ようやっと男の身体を持ち上げて浴槽へと降ろした。

アンダースはその時に意識を取り戻して、目を大きく恐怖で見開いた。彼はセバスチャンと気がつくまで少しの間、悲鳴を上げてもがいた。

「おい、楽にしてろ。もう大丈夫、約束しよう」とセバスチャンは安心させる様に言った。
「ちょっとばかりひどい様子だったからな。私が洗い終えるまで、そこにじっと座っていろ、いいな?」

アンダースは小刻みに頷くと、突然身を固くして後ずさりし、腕を組んで彼の両肩を覆う傷跡に手を被せた。

「もうその傷跡は見たよ」静かにセバスチャンは言った。
「何も隠す必要は無い」

アンダースは顔を赤らめると、俯いて顔を両手で覆い、一声うめくような声を出した。その後は浴槽の中でじっと座って、ほとんど声を出さず静かに泣いていた。セバスチャンは唇を噛みしめると、布に石けんを付けて手に持ち、優しくメイジの背中を洗い始めた。男が怯えた馬のように震えているのが感じられた。幾度か布を取り替えて、背中から腕と足に掛けて彼の手が届く範囲を洗う間に、ひどい震えは次第に治まっていった。それから彼はブランディのデカンターを持ち上げて、アンダースが数回飲み下す間口元で持っていてやった。

その頃にはアンダースの涙はようやく止まり、浴槽にもたれ掛かり疲れた様子に見えた。セバスチャンは黙って彼に洗い布を手渡すと、メイジが彼の下半身を自分の手で洗う間その場を離れた。その間に彼は部屋を片付け、汚れて水に浸かった服を脱ぎ捨てると、彼自身の身体を布で拭き取り‐実際に付いた汚れを取ると言うよりはむしろ、汚物が付いたという考えを消し去るために‐乾かした。それからアンダースを助けて浴槽から立ち上がらせ、タオルで拭いて清潔な寝間着を着せてやってから、自分も同じく寝間着に着替えた。彼はデカンターを取り上げて一口ぐいっと飲み、その後アンダースにもう数口飲ませて、ようやく男を連れて浴室を出た。

アンダースはその夜の出来事の衝撃とブランディの効果でふらついていて、居間の暖炉の側のソファに連れて行かれる間もセバスチャンに重たく寄りかかっていた。セバスチャンは男をソファの端に座らせると、暖炉の側に屈み込んで、火床の上で緩やかに燃えている石炭の上に数本薪を継ぎ足し、それから毛布を取りに寝室へ行こうとした。

「駄目だ……頼む、ここにいてくれ……」アンダースが恐怖に震える声で喘ぐように言った。

セバスチャンは立ち止まると彼の方に振り返った。
「大丈夫だよ、アンダース」彼はそう静かに言った。
「毛布を何枚か持ってくるだけだ。すぐ戻ってくる、約束する」

アンダースはともかく頷いたが、目はまだ恐怖に大きく見開かれていた。セバスチャンは寝室に素早く戻ると、暖かな毛織りの毛布と上掛けを彼のベッドから剥ぎ取った。
「何か連絡はあったか?」と彼は、秘密の階段の出口で警護している衛兵に静かに尋ねた。

「いいえ、特に何も」彼らの中の年輩者が答えた。
「戦闘の音が一時聞こえて、それからセリン隊長が、コテージを取り戻した、他の侵入者が居ないか敷地内を探せと仰る声が聞こえました」

セバスチャンはそれを聞いて頷くと居間へ戻った。アンダースはソファの端で小さく身を丸め、額を膝に押しつけていた。彼はセバスチャンが居間に入ってくるや否や顔を上げたが、入ってきたのが誰かを見てとると怯えた様子は多少治まった。セバスチャンはメイジの身体に上掛けを掛けて裾を押し込むと、自分も反対側の端に座って毛布を被った。

「もう落ち着いたか?」と彼は静かに尋ねた。

アンダースは頭を振ると、再び俯いて額を膝に付けた。しばらくすると風呂と暖炉の暖かさに加えて相当な量のブランディがようやく効果を表したと見えて、うとうとし始めた。メイジが目覚めた時に彼の姿が目に入る様に、セバスチャンはソファに静かに座って、時折デカンターからブランディをすすっては事件の報告が来るのを待った。

かなりの時間が経ってから、ようやく衛兵隊長セリンが数名の部下を引き連れ、疲れた様子で部屋に入ってきた。セバスチャンは素早く立ち上がると静かにするよう身振りをして、アンダースが眠っているのと反対側の端に移動した。彼は隊長に振り返ると問いかけるように顔を見た。

「何か判ったか?」と彼は静かに尋ねた。
「寝室に居る衛兵は、コテージを取り戻したと言っていたが」

セリンは頷いた。
「はい。10名の男達が居ました、うち8名は傭兵で、残りの2名がテンプラーでした、私達が見た限りでは。庭の門にいた衛兵は殺されていました……そもそもどうやって連中が城の敷地に侵入したのか、まだ調査中です」
「テンプラーを一人、それと傭兵を3名生かしたまま捕らえましたが、残りの者は戦闘中に死亡しました。傭兵共は、テンプラーに雇われたと言っております。生き残ったテンプラーはあなたの前に連れて行くよう言う以外は尋問に答えようとしません。これを渡すようにと」
セリンはそう付け加えると、革紐の付いた丸いペンダントを見せた。

セバスチャンはそれを見て思わず悪態を付いた。
「メイカーズ・ブレス!シーカーの目だと……私が直接会って、話さねばならないようだ」
彼は深刻な顔付きをしてそういうと、身体を丸めてまだ眠っている様子のアンダースの方に振り向いた。
「もし彼が、本来そうすべきだったように礼儀正しく門に現れて面会を要求するかわり、私の城に押し入って私の部下を殺した張本人なら、少なくとも明日の朝まで待たせてやれ。それと、もしシーカーが絡んでいるのならグリニス大教母にも同席頂く方が良いだろうな。衛兵を一人伝言にやってくれ、明日の朝、ご都合の良い時にお越し下さるようにと」

セリンは頷くと、セバスチャンの寝室にいた衛兵達の大部分を引き連れて、敷地内の探索に戻った。セバスチャンはソファに戻り、出来るなら仮眠を取ろうと努めた。長い夜の後は、更に長い一日となりそうだった。


*1)便器(Earth-closet):容器の上に穴の開いた板が被せられ、用便を済ませると砂を掛けておいて、後でまとめて(召使いが)始末する様式の便器、転じてそれが入った小部屋のこと。だから水洗トイレと違い汚れた衣服を放り込んでも別に問題は無い。ちなみにゲーム本編ではメリルの家にそれらしき物がある。ホークの寝室にも床に直置きされた壺があって、アレが怪しい。ホークも「後でサンダルに捨てさせよう」とか言ってるし…。暖炉の灰が砂の代わりに使われることも多かったらしい。日本の江戸時代にも武家屋敷等には同じような仕組みの便器があって、奥の貴婦人ともなるとお香がたきしめられ灰も良い香りがしたとか。

でも、くみ取り便所の方がエコだよね。しかしくみ取り便所は、牛馬の糞尿が肥料として豊富に利用出来たヨーロッパではほとんど普及しなかった(皆無ではなかったらしい)。便器の内容物は下男下女がどっかに持って行って、どっかに適当に捨てる事になる。街中でこれを皆がやると公衆衛生上非常によろしくない事になって、近世以降の早い内から下水道が都市計画に組み入れられることになった。

ところで、この文章内でソファと言っているのは、本文では”high-backed padded bench”、つまり「座面に詰め物の入った背もたれの高い長椅子」である。長い、長いよっ!(>_<)

それって要するに2人掛け以上のソファ(背もたれはひょっとすると木製かも知れないが)だよね、という事でソファとした。タペストリーも、本来は「手織りで細かな模様の入った、厚手の上等な壁掛け」と訳すべきなのだけれど、既に日本でも定着している言葉のためそのままとした。このように、些細な情報は翻訳で失われがちなのである。

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